《幕間劇》収穫祭の日
「ルディ、大変です。男の子だったみたいです」
セシルに代わり、濡れたおしめを替えようとしたルタの言葉だ。
ルディはそんな始まりの日を思い出しながら隣に座るルタにそれを伝えた。ルタはさも心外というようにその言葉に反論する。
「あの時は、ルディだって『本当だ』ってぽかんとしながら仰ってましたわよ」
「あはは。そうだったかも」
なんと言っても、ディアトーラで『ルカ』と言えば初代領主夫人なのだ。だから、濡れたおしめを替えようとした夫妻が固まっているのを見兼ねたセシルにつんと言われた。
「いい加減におしめをしないと、引っかけられますよ」
二人して慌てておしめを締めて、胸を撫で下ろした。
小さなルカがクロノプス家に迎え入れられた記念日である。
そして、そんなルカも二歳を迎え、今はセシルと共に収穫祭に配られるパンをもらいに行っているところだった。
ディアトーラの領民達は、収穫祭になると寄り合いごとにパンを作る地区、リンゴ酒を作る地区を選び、その年の担当地区を決め、担当にならなかった地区に住む者にまで配るのだ。ディアトーラ領民全員が、その日は同じものを食べる、飲む。それが収穫祭の始まりにもなっている。
少し固めのパンにはナッツやレーズン、ベリー、クランベリーなどのドライフルーツがしっかり練り込まれており、噛みしめる度に甘酸っぱさと果実の甘みが染み出してきて、飽きがこないようになっていて、リンゴ酒の方も甘い香りの中に酸味が利いたすっきりとした飲み物になる。
そして、それぞれが各家庭に持ち帰り、その年の実りに感謝して、いただく。
陽が落ちると蝋燭の火を灯し、橙色の小さな炎を命に見たて、玄関先に出せば灯火の回廊が出来上がる。ディアトーラにおいて、死は不吉でなく、変遷を意味し、その命の灯火が消えないように死者に扮した灯火番が生者の行進を見守るということになっている。
灯火番は新たな命に託した時間を見守るようにして、この一年に生まれた命を連れて歩く行列に、足元を照らす灯りを与え、導く。そして、その行列は領主館にある教会まで続き、一年に一度だけ教会が賑わう。
ある意味ご近所同士の紹介という儀式でもあるのだが、生まれる命はすべて平等に扱われ、今年はテオが先月生まれた仔牛を連れて歩くそうだ。さすがにクミィの家のヒヨコたちが歩いたことはないが、すべての命に感謝する日。それが、ディアトーラの収穫祭になる。
そして、収穫祭での領主の仕事はときわの森にあるあの大樹、その常緑樹の一枝で『榊』をつくること。列をなしてやってくる人々が、感謝を述べた後、やはり森で汲んできた泉の水をその榊で掬い、払うのだ。
命に希望が降り注ぐ。
とりあえず、ルディ家族はリンゴジュースにパンでお祝いすることにはなるのだろうが、領主一家がその行列に加わることはない。
森に祝福されて生まれてきた命だと勘定されないからである。
もちろん、それは『贄』としての役目を持っていたからであって、実際、祝福されていないわけではないし、この収穫祭の締めの儀式自体、ルディの曾祖母イルイダの時代に復活したものなので、ルディ自身も思い入れが強いわけでもない。
今二人は花屋の店先の椅子に座って、ただ時間を潰すという贅沢な時間の中にいるのだ。それを齎したのは、花屋のマリエラで「まぁ、ルディさまとルタさま。丁度良いところに」そんな言葉に呼び止められたのがきっかけだった。マリエラは、ルカの乳母でもあり、ルカと同じ年の男の子がいて、兄弟のように思ってくれているのだ。だから、急な用件も無碍にはできない。しかし、花屋の奥からはそのエドとマリエラの攻防戦のような声が聞こえてくる。
「このまま森が静かになってくれるといいんだけどね」
森の緊張は解けていないが、少なくともディアトーラの人間が魔獣に襲われる事態はなくなっていた。だから、ルディも二年越しの収穫祭に参加することができ、ルタも初めて収穫祭を見守るのではなく、参加しているのだ。これが毎年だったら嬉しいことこの上ないのだけれど。
「そうですわね、でも理由が分からない以上、楽観視するのはよくありませんわ」
そう言うルタは真面目だとルディは思う。
「分かってるよ」
しかし、ルディは嬉しそうに答える。楽観視などしているつもりはないが、こうやってただ話をしているだけの時間があるということが楽しいのだ。
そして、ルディはルカが来てからをやはり思い出す。
初めて笑った日、うつ伏せで初めて首をあげた日。お座りした日に這い始めた日。
初めてパン粥を嫌がらずに食べた日に、初めて立った日、初めて「あぁ」と言った日、「おぉ」と言った日。
少しして、それが「あぁしゃん」「おぉしゃん」になり、それが母、父を表わすのだと気付いた日。「あっこ」と言って、短い両手を伸ばして抱っこされようとするようになった時。
スプーンを使って一人で食べものを口に運んだ時、三分の二以上口に入らなくて、こぼしてしまった時。
歩き始めて、転んで泣いてしまった時。熱を上げた時に、鼻水が止まらなくなった時、変な湿疹が体中に出てきた時。
その度に「ルディ、大変です」と慌てて飛んできたルタに、大袈裟だなと思いながらも、一緒に「大変だ」とはしゃいだり、心配した日々。
やっとルタが寝かしつけたルカのほっぺをつついて、起こしてしまった時は、すごい形相で睨み付けられたこともあった。その後、後回しに出来る公務は全部後に回して、ルディが必死になってルカを寝かしつけたのだ。
そういう時のルタは恐ろしく冷たく、ただ怖い。思い出すだけでも、恐ろしく、ルディは今でも身震いしてしまう。
だけど、後回し分の仕事をしているルディを、ルタが出来る範囲で手伝ってくれたのはありがたかった。
「何を笑っていますの?」
「なんかね、ルカの成長が嬉しいなって思って」
その言葉にルタも顔を綻ばせる。柔らかく、花が開いていくような、そんな微笑みはやはり教会の女神さまそっくりだ。
「だけど、最近は『いや』が酷くて大変な時がありますわよ」
『いや』が多くて言うこと聞かない」とルディが愚痴を言った時のことを言っているのだろう。そして、『大切な自我の目覚めですわ』と言い放ったルタは、そう言いながらも嬉しそうだ。
「ルカの『いや』なんて、可愛らしいものですけれどね」
確かに、……とルディは苦笑いを浮かべた。もちろん、ルタの言葉をちゃんと考えたこともある。
この世界に対する『いや』で世界を変化させるような力であるトーラを使われるのと比べれば……なのだけれど。その結果失われる者があることもあり、時間すら無くなってしまうのだから。ただ、スケールが大きすぎて、ルディにはそれと比べる意味がよく分からなかった。
少し小さくまとめても、国王が嫌いだから国家転覆させてやろう、というものなのだ。いや、一国王が個人的な嫌いだけで転覆させられるようでも困るのだけど、この辺りのルタの感覚は、達観しすぎている仙人レベルかもしれない。
「まぁ、そうなんだけどね」
甘やかしているわけでもないし、ルカも真っ直ぐ育っているから全然問題ないのだけれど、たまに咀嚼できないくらいの例えがルタの口から表れる。
「まぁ、いいや。来年の今頃はもっと大きくなってるだろうし」
その言葉の意味が分からないルタが、今度はルディを不審そうに眺めた。
そのルタの髪には白いリボンが結ばれている。それは婚礼の日にルタが身につけていたヴェールから切り出されたものである。そして、セシルがルカの誕生日を祝って作り上げた乳児用の正装も、ルタが身につけていたヴェールから作られていた。本来は誕生祝いで仕立て直し、健康と無事を祈り一年後に着られるようにするものらしいが、ルカの場合、二歳の誕生日でそのお祝いが為された。
まぁ、色々あったのだ。
ルカの誕生日は収穫祭の一ヶ月前で、その乳児用正装を纏い、教会でクロノプスの子であると誓いを立てた。そこで、魔女よりの祝福を受けるのだ。ちなみに、ルディは春分の頃だったから教会にはたくさんの春の花を飾り、ルカの場合は暖かい色の木の実が飾られていた。
「ルタっていつ生まれなの?」
「どうしましたの? 急に」
きょとんとするルタに、さすがに話題を変えすぎたと思った。もちろん、二千年くらい前という大雑把な情報は知っている。
「ほら、ルカの誕生日あったでしょう?」
「えぇ」
「僕は春だし、ルカは秋だし……ルタはいつなんだろうって思って」
その言葉にルタが「あぁ」と続けた。
「正確には忘れました。でも、ずっと昔この世界の一年が十二の月で表わされている頃。わたくしが生まれたのは十一番目の月の終わりの方でしたわ。最初は考えて合わせようとしていたのですが、もう、面倒になってしまいました」
あぁ、そうか。今流れる時がすべてではないんだった……。今の世界は十二の月で一年が回らない。
「今で言えば、……」
木枯らしがすべての命を枯らしていき、闇の時間が一番長く訪れる、冬至に向かうまでの月。
そう語るルタはその頃をあまり良く思っていないように見えた。
「ねぇ、ルタ」
そのルディの言葉をマリエラが遮った。
「お待たせしてすみません」
そう言うマリエラの傍には、まだ人見知りをしていそうなその息子のエドがいた。その手には草木染めだろう色の毛糸で編まれた帽子がある。
「うちの子とお揃いで作ったんです。でも、なんだか渡すのもなんか、失礼かなと、渡し損ねていたのですけど、ごめんなさい。昨日突然、この子が『るか』って言い出して。それなのに離さなくて、自分で渡したいのかしら? ルカさま、お誕生日でしたでしょう? ちょうど収穫祭の一ヶ月前だったから良く覚えていて。ほら、エド、どーぞは?」
そう促されたエドが母親の足にしがみつく。夫妻は微笑み合い、嬉しそうに揃って子どもの前にしゃがみ込んだ。
「エドも大きくなったね」
「ほんとうに。エド、いつもルカと仲良くしてくれてありがとう」
そんな二人にエドがマリエラの後ろにさらに隠れてしまった。
「お二人とも、お立ちください。もう、エドっ。知らない人じゃないでしょう? ほら、領主さまたちにどうぞってして」
二人に見上げられたマリエラまでが居心地悪そうにして、しゃがもうとし、絡みつくエドに四苦八苦し始める。そんな三竦みを救ったのはルカを連れたセシルだった。
「みなさん、なにをなさってますの? エドが困ってますよ」
そう言って、柔和に笑ったセシルに、エドが「どーぞ」をした。
そして、顔を見合わせた三名が笑い出す。
ディアトーラではありきたりで、特別な一日だった。
「ルカ」了














