『ラルー』を求める
夜の帳が下りた森の中をルタは一人で歩いていた。森に蓄えられている湿気が、ルタの着るポンチョに湿りを与えながら、森は闇の重みを深めていく。
その重みは、まるでルタの侵入を禁じるようにして、深部へ向かえば向かうほど、じっとりとその身に伸しかかってくるのだ。
そして、草木染めのポンチョはその匂いを闇へと漂わせる。その深い緑を思わせる匂いでルタは重みを忘れ、再び歩く。
魔獣が嫌いな草木で染めたそのポンチョは、少しはルタを護る効果もあるのかもしれない。
もちろん、歩いていたといってもほんの浅い場所のみで、深部へ向かうつもりもなかった。不死でもないルタでは、森の深部をこの闇の中を自由に歩けないのだ。その感覚もルタになって初めて感じるものだった。
『ラルー』という身体は今から思えばとても良く出来ていたのだ。そんな気休めのポンチョに護ってもらわなくても、不死は感覚を鈍くする。トーラとともにあるのならば『恐れ』など不必要極まりない感覚だった。
そして様々な恐れがあることにルタは怯えているのだ。そして、そのすべては『失う』ということに繋がるのだろうと思っていた。失うは、恐れに繋がる。ルタがそれを怯えだと感じ始めたのは、ルタになってしばらくしてからだった。
だから、ルタは森の気配に気を配りながら、考えていた。
失うことについてを。
今回は、自信を失うことが怖かったのだろうか。成功を失うことを怖がったのだろうか。
ルディに彼女の相手を頼んだ理由はいったい何を失うことを怖がったのだろうか。
ルディが拾ってきた赤ん坊には守り袋が忍ばされていた。そこには涙なのか、汗なのか、滲んで読めない文字が書かれてあり、花街の女が好んでつける香水の匂いが染みついていた。
花街に住む彼女が魔女だったルタに素直になるわけがないのは分かっていた。どれだけ酷く扱われようとも、魔女よりはましだと思っていただろう。『魔女』にされた人間は、最早人間としての尊厳をすべて奪われるのだから。それは、実験動物になるような。研究材料になるような。すでに同種として扱われない。
その魔女が領主夫人という地位にいる。それだけで、彼女にとってのルタは裏切りにしかならない。
しかし、母親の相手をルディに頼んだ本当の理由は、それではない。ルタ自身に自信がなかったからだ。
正論としては分かる。しかし、見てきた、としか言えない。どうしても同じ生き物として、同じ場所に立てないのだ。『怯え』が『恐れ』と同じだと感じるようになったことに驚くように、今のルタではまだ届かないのだ。
ワカバの母親が自身と世界を擲ってまで、ワカバの存在をこの世に生み出そうとしただとか、ルディの曾祖母に当たるイルイダの母マイラがイルイダの存在を護るために、自身の子ではないその弟を犠牲にしようとしたことだとか。
母親とはそういう者なのだろう、という感覚がある。しかし、別のところでは、魔女疑惑の子どもを無かったことのようにして過ごす母親というものも見てきたし、ルタでさえ酷いと思った者では、褒賞金目当てで自身の娘を魔女として差し出す母親も見た。
だから、分からないのだ。ルディなら人間としてしか生きていないから、それが人間としての一つの答えだと言える。しかし、魔女だった頃の方が長いルタは、その感覚が知識としてのものなのか、自分自身の思いなのか分からなくなることがあるのだ。
そんな者の言葉は、きっと響かない。だから、魔獣に襲われた時のためにだけの付き添いなのだ。
しかし、静かだ。
あの胸の騒ぐような、森のざわめきが今夜は全くといって感じられない。もしかすると、あの赤ん坊を魔獣から護っていたのは、リリアなのかもしれない。そのくらい、森が静かだった。だったら、どうして、森が荒れ狂うことがあるのだろう。
リリアは何に怒ることがあるのだろう。夜なら分かるかもしれないと時間つぶしに回ってみたが、やはり分からないし、さすがに『ラルー』でもないルタも、この時間にリリアが確実にいるだろう場所に足を向ける気にはなれなかった。そもそも、会ってくれるかも分からない。
ルタは小さく溜息をつき、諦めてルディと母親が話をしていた場所へと戻ることにした。
きっと、リリアはこの世界に生きる人間を積極的に殺そうとしているわけはない。赤ん坊のいたその場所に立てば、森との距離が本当に近いことが分かるのだ。
理由があるのだろう。そんなことも分からないなんて。いつの間にこんなに森が遠くなってしまっていたのだろう。
ルディが母親を送る姿が見えた。やはり、ルディに任せて良かったと思いながら、彼が帰って来るだろう時間を頭に入れながら、再び立ち上がった。
マンジュに戻るにしても、ディアトーラに戻るのだとしても明け方にはなるだろう。
そして、その背を確認した後、ルタはランタンの光をもう一度灯し、また少しだけ森を歩いた。森の木々は空を隠し、夜行性の動物の目だけが僅かに漏れる光を拾う。
森の女神として君臨するリリアの目も森を歩くルタに光らせているのかもしれない。呟けば届くだろうか?そんな思いで声を出してみる。
「あなたはいったい何に怒ってらっしゃるの?」
静寂だけがルタに応えを寄越し、その当たり前の結果はルタを自身で呆れさせた。
森から抜け出したルタは一人で、膝を抱えて明けゆく空を眺めていた。ルタの傍には森で扱いやすい脇差しが転がされている。
つい先刻まで、ルディとあの母親が話をしていた場所。空は静かで、大地は騒がしかった。しかし、今はその逆だった。その空の様子は存外早くに変化し、ルタはただ静かだった。
薄紫に色を変える黒。そして、赤が混じる。滲み出るように、広がった朱は、その朱の持ち主が現われたと共に色を空に馴染ませ、広げ、昇っていく。
ランタンの光が小さくなり、東の空に昇り始めた赤い太陽が大気の熱を吸い込み、冷気を放射するかのような肌寒さを感じさせた後、その吸い込んだ熱を光に変えて、大地を温め始めると、森の動物たちが目を覚ます音が聞こえ始める。恐怖を煽っていた葉擦れの音は、朝を喜ぶ歌に変わり、小鳥たちがその歌に応える。
闇は完全になくなる。同じ場所、同じ空気、そして、時間がただ経過しただけの場所。それなのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。
ただ、光が満ちただけなのに。
その頃にルディが戻ってきた。ルタはポンチョの裾を払い、立ち上がりルディを迎える。
「おかえりなさい」
「……よろしくお願いしますだって……絶対に迷惑掛けませんから、だって」
ルディは心なしか、寂しそうだった。
「御守りが彼女にとっての支えになると良いですわね」
「そうだね」
涙で滲んで読めなくなっていた赤ん坊の名前。
嘘のつけない母親だった。ルディは、ルディに頭を下げたままずっと泣いている母親を思い出していた。
自分だって誰の子なのか分からないのなら、そいつの子だと言えば良かったのに。身請けできるほどなんだから、そこそこ裕福な奴なんだろうし……。
その嘘をつけない赤毛の母親を持つ赤ん坊は、初代ディアトーラ夫人と同じ名『ルカ』と名付けられていた。














