名もなき母は
セシルはただその母に対して酷く憤った。
アノールはルディの浅はかさを叱り、それが何処の領地内にあったのかを執拗に尋ねた。
ルタは、呆れた表情を浮かべながら、何処か諦めたようにルディを窘めた。実は、これが一番ルディの胸に突き刺さるのだ。
「ルディ? 良いこと? 人間の子どもは、決して猫の子を拾うようにして拾ってくるものではありませんのよ」
「分かってるよっ。でもさ、あんなところに放って置くわけにいかないし、ディアトーラには孤児院とかないし、かといって一応うちの領地内にいたからね、だから、マンジュに預けるわけにもいかないでしょっ」
正論というのか、言い訳というのか、ルディにはよく分からなくなっていた。
とにかく、日没後のときわの森付近は危険な魔獣がふらりと現われることもあるし、カゴの中から出ることも出来ないくせに、息も潜められない赤ん坊を捨てておけるわけもない。
絶対に間違ったことはしていない。
しかし、ルディは思う。
確かに、領内ではあるが、微妙な位置ではあった。いや、とりあえず、あの辺りはマンジュもディアトーラも一応の国境としか認識していないのだ。向かう先がときわの森であれば、森がそれらを制裁するだろうし、森に迷い込んだ旅人が助けを求めるのならば、マンジュも快く国境を越えさせる。というか、見張りも立てていない。
だから、今はルディのあの拷問的見回りがあるのだけれど。
百年前なら、魔女狩りをするという口実がありさえすれば、マンジュ側からの侵入はなぜか暗黙の了解だったし。幸いというべきなのか、抜けてきた者はいないらしいけれど。
アノールは腕を組みながら「どうしたものか」と眉間に皺を寄せ、セシルは赤ん坊を包むように抱き上げて「もう大丈夫ですよ。かわいそうに」と優しい視線を赤ん坊に落としている。
そして「あら、おしめも濡れているのね」といそいそとアノールに赤ん坊を託して、自分の部屋へと戻っていった。急に赤ん坊を託され、アノールは慌てたようだが、すぐに起きないように腕の中に包み込む。
ルディ自身もどうしたものかと考えていた。いや、ここで育てても良いとは思っていたのはいたのだが、確かに現実問題として、この赤ん坊がどういう経緯であんなところにいたのか、考えていかなければならない。
たとえば、誘拐されて捨てられたのだとすれば、子どものいないルディ夫妻に疑惑が真っ先に掛ってくる。親は今も探しているだろうし、ディアトーラの人間であるとは限らない。
間違ったことはしていない。だけど、……そう思い、ルタを眺めた。ルタは赤ん坊が入っていた籠を覗いている。そして、ルディの視線に気付き、籠から何かを取り出した。
「ルディ、わたくしも付き添います。だから、今夜この子がいた場所に戻ってみませんか? 明日の朝までに戻ってくるかもしれません。どんな母親かは分かりませんが、戻ってきた母親をみすみす魔獣の餌にするわけにもいきませんでしょう?」
ルタの掌に置かれているのは、滲んだ文字が書かれた小さな袋だった。
ルタの予想では、誘拐説はないようだ。
たとえば、何かを想像するならば、なぜ、その文字が滲んでしまったのか。滲んでしまうほど手放したくなかったのに、手放さなければならなかった理由は、つまらないものなのか、それともとても大切な理由だったのか。
ただ、ルディは戻ってきたセシルに抱かれて眠っている赤ん坊を見つめる。
彼か彼女か、あの赤ん坊の行く末には『死』が間近に迫っていたという事実が映る。
「そうだわ、乳母を探さなくちゃ」
セシルは視線を上げて、ディアトーラで出産した母親を思い浮かべていた。
「母さん、その子をよろしくお願いします」
そんなセシルの前にポンチョ姿のルタと外套を纏ったルディが立ち、ルタがそれに続けた。
「母親にお会いして参ります」
セシルはきょとんとしながら、アノールを見遣り、その表情を見てから二人を見送った。
★
女は張ってしまった胸に手を当て、手ぬぐいを抽斗から取り出した。
最近ときわの森付近をディアトーラの領主が見回りをするらしい。
ただ、そんな噂を聞きつけて、手放してしまった。だけど、身体はしっかりと『あの子』を求めてしまうのだ。椅子に座り胸をはだけ、固くなっている乳房を絞る。ずきんとした痛みはどこからやってくるのだろう。どうして、痛むのだろう。
女は思った。
仕方ないのだ。やっと身請けしてくれるという殿方が現われた。それなのに、妊娠していることが分かった。その殿方はそれでも私を愛してくれるという。だけど、何処の誰だか分からない相手の子は引き受けられないという。
子を堕ろすか、身請けを諦めるか。
時間だけがどんどん過ぎていってしまった。
彼は待ってくれるという。難しい決断だろうからと。だって、とても優しい人だから。
ここで子どもを育てていくことは難しかった。堕ろすことも、また出来なかった。
それなのにお腹の中で動くのだ。僕はここにいるんだよ、と。ちゃんと大きくなってるんだよ。元気だよって。
女将さんには嘘をついていた。この子込みでもらってくれるんだよって。
しかし、子が生まれたということを聞いた彼が女を急かした。
「どうするつもりなのか」と。
女は彼に縋った。女の子だったらって……だから、捨てないでと。
もしかしたら、女の子だったらここで生きていくことが出来たかもしれない。育ててくれたかもしれない。しかし、とても酷い母親であることに変わりない。自分で自分が嫌になった。それなのに、子どもの顔を見る度に「こいつのせいだ」と思ってしまう。やはり、自己嫌悪に陥る。時間だけが過ぎていく。
そんな時に噂を聞いた。
「最近、ときわの森廻りをディアトーラが始めたらしいよ。一日一度、必ず回るんだそうだ。あの国の考えていることってよく分からないけど、あんな危険な森を抜けてまで奪いたい財なんてないのにねぇ」
女は思った。
あの国には確かに魅力的な財はない。だけど、あの国に住む者たちが、この花街に来たことはないし、売られたこともない。もちろん、客なら遊ぶ金もないと言えば元も子もないのだけれど。
もしかしたら、とっても幸せに溢れている国なのかもしれない。みんなが満足して、みんなが幸せに生きているような……。
幸せになるような、そんな名前がいいな……。
臍の緒が取れた頃、女は守り袋にそれを入れ、たくさんの乳を飲ませ、彼をときわの森へと連れて行くようになった。都合の良いことに、マンジュの果てにある花街からときわの森までは女の足でも半日かからない。
途中魔獣に、そんなことも考えた。
だけど、それはもう考えないようにした。
生きるなら生きられるはず。
もし、ここで二人とも魔獣に殺されてしまったのならば、それはそれ。あの場所にいてもきっと育てることは出来ないのだ。
夜が明ける少し前に歩き始め、昼前には到着した。ギリギリまで共に過ごした。泣けばあやし、眠れば日射しを庇いその顔を見つめて過ごした。足掻き続けた時間の長さの結果が、彼女に焦りを覚えさせていた。今日こそは、掻き抱くことなく、離れる。
だけど、もう一度、乳をあげてから……。
そうやってまた何日も過ぎていった。
守り袋を握りしめながら、夕刻に帰ることの出来る時間までずっと傍に寄り添い続けた。それなのに、ディアトーラ領主は現われなかった。
太陽は容赦なく傾き始める。女は握りしめていた守り袋を見つめた。守り袋に書いていた名前が滲んでいた。
「どうか、御守りください」
ただ、それだけを祈り願い、彼から離れた。
乳を搾り終わった女は窓から空を眺めた。
あと数時間すれば、朝になる。
自然と立ち上がり、足が闇を照らす月明かりを求めた。よく眠るあの子が泣き出す時間だ。
やっぱり……。














