おとぎ話と現実の境界
ときわの森が騒がしい。とても。
それは、胸騒ぎによく似て、木々のざわめきによく似て。
銀鈴が息を潜める。
魔獣の咆吼が轟く。
影が走った。
叫びすら赦されなかった。
それは音もなく、ただ無残に。その肢体を晒していた。
ときわの森の真ん中に、大きな、それは大きな木が一本ありました。
その木は世界を覆うかのごとく枝葉を延ばし、太陽を独り占めしたいと思い、世界を統べる魔女の力を呑み込み、どんどんその枝葉を延ばし続けたのです。だけど、それは叶いませんでした。
世界を創造し、その世界を統べる魔女に邪魔をされたのです。太陽がなければ、魔女の創った世界に生きる者たちのほとんどは死に絶えてしまうのです。人の記憶と共に、過去を支配するその魔女は、やはり人と共にあったのかもしれません。木は魔女を憎みながら、その枝葉の生長を泣く泣く止めました。自分に何も与えない魔女に怒りを覚えました。このまま枯れてしまうなんてまっぴらでした。だから、枯れて果ててしまうよりは、呑み込んだはずのその魔女の力とともに、望まれていた命を吐き出し、機会を窺うことにしたのです。
長い長い年月が過ぎました。
一人の魔女が木を眺め「おかあさん?」と言い、泣き出しました。
魔女はその木から吐き出されたのです。木が彼女の母を呑み込んだからです。だからそんな風に呼んだのです。魔女のくせに暗闇が怖くて泣いていたのです。
木は馬鹿だなと思いました。
木は、やはり彼女が持ってしまった魔女の力が欲しくて、再びその枝葉を彼女に向けようとしましたが、届きませんでした。彼女は小さく、木の伸ばし続けた枝葉は彼女に触れるには遠すぎたのです。
馬鹿だな……。
木は仕方なく、その泣き虫な魔女に木漏れ日を与えました。
たったそれだけのことで喜ぶのであればと、森をこれ以上奪わないのであればと、強く儚い魔女を見つめました。きっと憎しみと怒りを持ち続けるには、あまりにも長い年月が過ぎていたのです。
ディアトーラの聖書にあるトーラ。それは全てを司る力。全てを自由に操ることの出来る大いなる力。決して求めてはいけないもの。そして、愛し慈しむことを説いている。
そして、多くを望むことを禁じている。望めば、世界の均衡が崩れてしまうと。
魔女が流した涙が泉をつくり、森の中で湧き出でて、新しい時間を流し始める。
いつか、そのか弱い流れが海を作るようにして。
木は、新しい夢を見るためにあぶくを一つ、泉から浮かび上がらせた。
ルディとルタが見下ろしている先には、人間の死体と思われる一部分たちが散り散りに散乱していた。
「迷い込んだのかなぁ」
それは、魔獣に食い荒らされているもの。動物であれば、骨くらいは遺っていただろう。ルタは答えない。
「最近あんまりなかったんだけど……」
ルディがしゃがみ込んで死体の検分をしているが、回収できるような状態にも思えない。ルディが知っているかぎり、ときわの森の最近は静かなものだった。危険なものがないわけではないが、迷い込んでしまった旅人でも森から吐き出され、助けを求めて領主館まで来ることすらあった。ここまで酷いのは、本当に、なかった。そして、ふとルディの視線が止まった。これが身につけていた衣服の一部だ。何かの模様に見える。葉? 花弁?
「この者は一人で、ディアトーラを通らずに迷い込んだのでしょうか?」
ルタの呟きにルディの視線が上がる。
「だと思うけど……。領主の庭に忍び込んだ形跡はないし」
「……」
「きっとマンジュの方から入ってきて、ここで力尽きたか、襲われたか……だろうね」
マンジュはときわの森を挟んで向こうにあるエリツェリとは反対側のディアトーラの隣国である。もちろん、ディアトーラほどときわの森に隣接しているわけではないから、森に入ることだけを考えるのならば、ディアトーラの方が便利だ。もちろん、その侵入を領主が許すわけもないので、正攻法ではない。腹に一物を持つものは、マンジュ側からわざわざ危険を冒してくることもある。
「そうですわね……」
うつろな表情を浮かべたままのルタを見て、ルディが不思議に思った。
「大丈夫?」
「えぇ……身元、分かると良いのですけれど……」
その落とされた言葉は優しさが始まりだ。だけど、すぐそばから別の意味も含まれてくる。
「弔ってあげないとね……」
ディアトーラ領であり、その領主が領民ですら許していない場所への侵入が許されるわけではない。だけど、それがこのような形で贖わなければならないはずもない。
森に棲む女神さま。
魔女さまではない、その森の化身にルディはまだ出会ったことがない。
ルタはもちろんその女神さまのことをよく知っているのだろうけど……。
そのルタはいつもの覇気がない。おそらくこの状態を見てではないはずだ。
そう思い、ルディは彼か彼女かの残骸を弔うために立ち上がった。
ときわの森のその奥には小さな青い屋根のお家がありました。
泣き虫の魔女はその後、物知りの魔女に出会い、そのお家で仲良く一緒に暮らすことになりました。ある日、泣き虫の魔女が物知りの魔女に尋ねました。
「どうしたら、みんなが幸せになるの?」
と。
物知りの魔女は、伝えます。
「分からない」
とだけ。
物知りの魔女ですら人々が望む幸せというものが、何を指しているのかが分からないのです。泣き虫の魔女はそんな物知りの魔女を見て、ふと思い出しました。そして、嬉しそうにしました。まるで答えが分かったよと言いたげに。
「分かった。きっと、いっしょにお菓子を作れば幸せになれるよ」
泣き虫の魔女は、物知りの魔女の作るお菓子を食べるととても幸せになります。作り方を教えてもらいながら、一緒に作るともっと楽しくて嬉しくなるのです。
「だから、今からお菓子を作ろうよ」
それは、物知りの魔女も同じなのです。
二人は仲良く森の奥で暮らし続けていました。
ずっと、ずっと昔のお話です。
「ねぇ、ルタ……」
「どうされました?」
遺されたものを森に埋め、祈りを捧げる。そして、木々の間に見える空を見る。
「この人にも家族がいたんだよね……」
「そうですわね」
遺された衣服の一部。特定は難しいかもしれない。目印になるかもと置いた大きめの白い石の下に、それをそっと潜ませる。
「希望ってなんだろう?」
「望める望みがまだあること。可能性が0ではないこと。きっと、ラルーならそう答えたことでしょう。でも、それが幸せに繋がるのかどうかは、分かりませんわね……」
同じように空を仰ぎ見たルタは、どこか寂しそうに見えた。望める望みがある限り、絶望がつきまとうことだってあるのではないだろうか。幸せと繋げるから反発し合うのではないだろうか。ルディはルタを見ながらそんなことを考えて、別の答えを伝える。
「謎かけみたいで、難しいね」
応えをくれたのは、森の葉擦れの音だけだった。そして、その風がルタの髪を結う白いリボンを微かに揺らした。
『おとぎ話と現実の境界の国』了














