「森の女神」と「森の魔女」
「いたっ」
いつの間にかうとうとしていたセシルは針に指を刺され、目を覚ました。手元の明かりはまだ消えていない。そんなに眠っていた訳でもないはずだ。ほっと息をつく。
セシルの手にあるのはルタが使った刺繍のヴェール。このままにしておいても使いようがないので、花嫁のヴェールは姑が乳児用のドレスに仕立て直しをする。しかし、セシルはヴェールの端にある刺繍部分を使いながら、一本のリボンを仕立てようとしていた。
ルタ様は髪が綺麗だから。
白いリボンもきっとお似合いになると思う。
そんなふうに思ったのだ。それは、リボンを仕立てることで、自分を納得させているのだろうと思うと、ルタに対しての罪悪感が生まれるのも確かだ。
初代領主夫人であり、ルタの双子の姉である『ルカ』には子がいなかった。そして、長い年月時を止めて生き続けたルタに、子が授かるかどうかは分からない。
「急に時間が動き出したこの体が、どれだけ人間であるかわかりません……」
ルタの言葉は淡々と、その瞳はとても切なく、その視線はセシルへとあった。ルディの言うように、別に血縁にこだわる必要はない。領主器足る者を探せば良いだけ……。
そして、多く残したヴェールの余り布を見つめながら、自分の諦めの悪さにほとほと呆れる。きっと、残りの布も大切に仕舞っておくのだろう。
そして、セシルは欠伸を噛みしめた。
しかし、眠い。
最近、アノールは外に出ることが多いし、ルディはときわの森の見回りを強化している。それも、気になることではあり、でも、麦の収穫も近く、夏至が過ぎれば、収穫祭の準備が始まる。ルタ様に頼んでいることもあるが、ルタ様は領民の護衛も手伝うし、ときわの森の女神さまを探しに出かけることが多いし。
とりあえず、外回りに力を貸せないセシルは家内の仕事を一人で担っているのだ。
セシルは靄の掛った頭で眠気覚ましに女神さまを思い出す。
森の女神さま。魔女さまではなく。
なんてお名前だったかしら?
リディア神の化身で、……あぁ、リリア様。
若かったな、あの頃は。なんでも出来ると思っていて、努力や正しいことは必ず分かってもらえると思っていて。自分が正しいと思ったことは、正しいと思っていて。
ラルー様はあの時、私を叱ることなくただ聞いてくださった。
そして、セシルは十五歳の自分の浅はかさにクスリとする。
あの時、セシルはリディアスへの留学が決まって、とても不安で、どうしようもなかったのだ。それを、ときわの森の魔女のせいにした。
魔女さえいなければ、ディアトーラがリディアスに目をつけられることもなかったのにと。そして、父アースが言う森の中央に佇む大樹を思いだしたのだ。
森を司る大樹。魔女が生まれた木。そして、女神と魔女の象徴の木。
それさえなければ、魔女はいなくなるのではないだろうか。
リディアスが恐れる魔女はトーラなのだ。
セシルはトーラに会ったことはなかった。いないんじゃないだろうかと思った。大人がみんなして他の何かを隠しているだけで。
だから、セシルは鎌を持ってときわの森の大樹の麓に立ったのだ。
今考えれば、どうして鎌だったのか。多分、自分が持って入ることの出来そうな重さだったのだ。あと、魔獣対策。斧を振り回すことは難しいけれど、鎌なら十五歳のセシルでも振り回せそうだった。
そして、振りかざした鎌はその太い幹に刺さり、抜けなくなった。
なんだか怖くなった。急に背中が寒くなり、血の気が引いた。別に何も考えなしで、腹も括らずなんてことなかったのに。セシルは、十五歳なりに腹を決め、腹を括り、行動した。それなのに、なんてことをしてしまったのだろうと、後悔していた。
どうしてこんなことしてしまったのだろう。
慌てて鎌を引き抜こうとするが、手に汗が染み出して、滑ってしまう。それでも、引っ張って引っ張って、手が滑り、大きな尻餅をついて「痛っ」と小さく叫んだ。お尻がじんじんするのと同時に涙が溢れそうだった。それなのに、追い打ちを掛けるようにして、可愛らしい悪魔の声が聞こえてきたのだ。
「あなた、だぁれ?」
それがリリアだった。
「リリアの大切な木を傷つけた、あなたはだぁれ?」
背後にいると思っていた。それなのに、その時は目の前にいた。
透けるような白い脚があった。光のような金髪が影を作る。覗き込まれたその瞳は、深い緑色。人間ではないその耳は尖っていた。
「あなたが、トーラ……なの?」
セシルはリリアと名乗る彼女の質問には答えずに、彼女に問うた。
「ううん、リリアはリリアなの」
そう言うと、リリアはセシルの胸に足を乗せ、そのままセシルを蹴り倒した。尻餅をついた状態からだったが、頭を打ち付けて、その痛みにセシルの目の前が暗くなった。
ただ、頭がじんじん痛かった。どうして痛いのか、初め全く思い出せなかった。なんだか頭が痛い、そして、目が覚めた。それだけが認識できる。少しずつ整理する。わたしは、どうしてこんなに固い場所で眠っていたのだろう、というところから。しかし、それは否応なしに思い出されることとなる。光が戻ったセシルの瞳には、リリアの顔が映った。リリアがセシルの胸の上に座っており、セシルの顔の横にはラルーがいた。
「目を覚まされましたわね」
ラルーに出会ったのはこれが初めてだった。
「初めまして、わたくしはこの森の魔女、ラルーと申します」
「ラルーはこの子知ってるの?」
「えぇ。クロノプスの子ですわ」
セシルが名乗る前に、リリアがラルーを見上げて話に割り込み、ラルーがそれにさらりと答えた。
「じゃあ、なんで木を切ろうとするの?」
リリアの声は先ほどよりも幼く響く。
「そろそろ、下りてあげてくださいません? 頭も打っているようですし」
「いやーの。だってまた切ろうとしたら大変なの」
かわいく頬を膨らませているその姿でも、セシルには恐ろしい者が発する、恐ろしい言葉にしか思えない。
「もう、しませんわよね」
それなのに、ラルーの声は全く緊張感無く、穏やかにセシルに向けられる。その緊張感のなさに、セシルは慌てる。
森の魔女もきっとセシルを積極的に助けようとはしていない、そんな気持ちになったのだ。
だから、響く頭を我慢して、セシルはがくがくと頷いた。リリアの深緑の瞳がもう一度セシルに近づく。さっきよりも怖くない。だけど、まだリリアの匙加減一つでセシルの命なんてどうにでもなりそうだった。セシルは声を出せなかった。その様子を見たリリアがにっこりとお日様のように笑う。
「じゃあ、遊んでくれたら許してあげるのっ」
リリアがぴょんと立ち上がり、やっと胸いっぱいの息が出来た。
「遊ぶって……」
しかし、息を整える隙さえ与えずに、リリアがセシルに言った。
「追いかけっこするのぉ」
しかし、そこからが本当の恐怖の始まりだった。
「追いかけっこするのぉ」と言うリリアに森中走り回されて。息が切れても追いつかれ、捕まったら許さないからねと追いかけてくるし。隠れてもすぐに見つかるし、休む間もなく走り続ける。
リリアは満足したのだろうか。
結局、日暮れ近くには完全に力尽き、息も絶え絶えに倒れたセシルが次に目を覚ましたのは、ラルーの背中の上だったのだから、リリアが諦めたのか満足したのか分からなかったのだ。
息のような悲鳴を上げて、目を覚ましたのだけは覚えている。
「起きましたのね」
「……」
セシルは黙っていた。
「木を切ろうとした理由、教えていただけませんか?」
「……」
やはり黙るセシルにラルーは続けた。
「あの木はリリアにとって命と同じものなのです。それを傷つけられて怒ったのでしょうけど、そこに至るまでは魔獣には遭わなかったでしょう?」
セシルはラルーに見えるはずもないのに、黙って頷いた。魔獣のいるときわの森の奥に入り込んだというのに、魔獣は一匹たりとも出てこなかった。
「理由なく誰かを傷つけないと約束しているのです。できるだけ人間を迷わさないように、魔獣を嗾けないように彼女なりに約束を守っているのです」
その約束をしている誰かがワカバだということは、この時は知らなかった。そして、ワカバが大切にする木でもあることも知らなかった。
「だって……」
ラルーの「ふふ」という笑い声が聞こえた。
「だって?」
「ごめんなさい。そんなに大事な物だって知らなくて。でも。だって、あの魔女の木があるからわたし、卒業したらリディアスへ留学しなくちゃならないんだもの。きっと、みんなわたしのこと、魔女だってからかうわ。仲良くなんてしてくれないわ。リディアスの人たちは魔女を嫌ってるんですもの。きっとひとりぼっちよ」
「セシルは、魔女が嫌いなの?」
ラルーが『セシル』と呼んだことにドキリとした。
「わたしのこと、知ってるの?」
「えぇ。もちろんですわ」
セシルは魔女が嫌いではなかった。魔女に出会ったことはなかったけれど、一度も嫌いだと思ったことはなかったし、嫌いになる理由もなかった。
「嫌いじゃない、です」
「嬉しいですわ。クロノプス家とはなんだかんだと過去に因縁がありますから」
そうは言うものの、ラルーのその声はまったく抑揚なく響く。
「人間とは愚かで弱く、そして強かな者なのです。今回、木を傷つけたことは愚かなことだったのかもしれませんわ。そして、一人になることを怖がるのも弱いと言えるのかもしれません。だけど、とても強かに出来ているのです。魔女が嫌いじゃない、本心からそんなことが言えるのですから、あなたは充分に強く生きていけますわ。雪に折れぬ柳のように、強かに。クロノプスの子なら生きられるはずですから」
その日から、ラルーが時々セシルに会いに来てくれるようになった。
たくさんのことを教えてもらった。リリアのこと、そして今のトーラのこと。
ラルーが言う『あの子』という幼さを秘めたトーラをお目にしたことはないけれど、セシルの中ではそれはとても大きな存在として、あのリリアと並ぶものとして強烈に胸に刻まれた。どんな『時』もこの世界に侵入させない絶対的なトーラなのだそうだ。だから、あのリリアがワカバとの約束は守るのだ。
そんな偉大なトーラに仕える魔女のラルーに、セシルは留学の日にはお守りの袋をもらった。
草木染めした守り袋には葉っぱの刺繍がされており、その中にラルーの調合した『調和剤』が入っていた。
守り袋を作ってくださったのが『ワカバ様』だという。その時に初めてお名前を聞いたのだ。
セシルがリディアスでひとりぼっちにならないようにと、トーラであるワカバ様が縫い合わせてくれた守り袋だった。
森にはディアトーラの『魔女』とリディアスの『女神』が棲んでいる。人間では到底考えられないくらいの力を持って。その二人が大切にしている木を二度と傷つけるわけにはいかないのだ。
そう、ラルーがとても嬉しそうに語る魔女が悪魔なわけがないし、魔女との約束を大切にしているリディアスの女神の化身がいるのだ。もし、リディアスで一人だったとしても、何も後ろめたいことはない。セシルは今もそう思っている。
「こんな感じでいいかしら?」
リボンの形に誂え直したヴェールの一部には、葉っぱの刺繍を施した。ワカバ様の瞳の色で。春に芽吹く希望の色で。
調和薬はなくなってしまっているが、同じ刺繍が為された古びたお守り袋の中には、今、ルディの臍の緒が大切に包まれている。
同じ模様があれば、きっとルタ様も心穏やかに安心してここで過ごしていける。しかし、眠気に勝てず、セシルは大きな欠伸をした。














