リボン
「開けますよ」
グレーシアの声だ。
「どうぞ」
リディアスから帰ってきたばかりで、さらにはときわの森へ。疲れて寝転がっていたルカは、ゆっくりとベッドから起き上がり、扉の前のシアを見つめた。
「なに?」
「兄さまにお話がありますの」
ルカは学校のことかな? と思いながら、立ち上がり、グレーシアに椅子を勧めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
十年ほど会っていないのに、グレーシアは全く変わっていない気がする。椅子に座れなくて「だっこしてください」とは言わないけれど。ちょこんと満足そうに座る。
「あのね、兄さま」
「うん、なに?」
グレーシアがぼんやりと天井を見上げて、「お気を悪くされないでくださいね」となぜか防御線を張る。
「うん、たぶん、大丈夫」
グレーシアの言葉にいちいち反応していては、身が持たない。するとグレーシアが息を吸い、続けた。
「ずっと、シアはずっと怒っているのです」
その言葉に「え?」と思った。
久し振りに会って、しかも、わざわざ夜中にやってきて言うべき言葉なのだろうか。そんな疑問さえ浮かぶ。いや、ずっとグレーシアの手紙の返事を出していなかったからなのかもしれない。だけど、書きようがないのだ。「おリボン付けてくださいませ。頭がかわいいのですよ」と書かれた手紙の正解が全く分からない。いや、『付けます』が正解だろうが、絶対に書きたくなかった。
だから、とりあえず、謝ろうと思った時に、グレーシアがさらに続けた。
「久し振りに会って、再確認しましたの。兄さまは欲張りなのです。トーラの教えでは、違反だと思うのです。だって、シアなんて領主の器じゃないとはっきり言われますのよ」
「えっと、シアは領主になりたいの?」
話の流れ的にはこうなるはずだ。
しかし、やはり、グレーシアだった。
「全くそんなこと思ったことありませんわ。わたくしは、リディアスの学校へ行って、たくさん絵を描いて、宮廷画家になって、兄さまの結婚相手を探すのです」
「ごめん、全然、意味が分からない」
怒るグレーシアの顔を眺めると、ロアンの言葉を思い出した。
『君と妹ってずっと会ってないんだよね。そして、その再現率。もはや天才としか言えない』
そんな風に才能をロアンに認められたグレーシアは、ずっとリボン付きのルカを描いた手紙を送り続けてきたのだ。初めは嫌がらせかと思っていたが、あまりにもそっくりすぎて、嫌がらせ以上にグレーシアの執念のような思いがあるのだろうな、と思うようにしたくらいだ。もちろん、それが今のグレーシアの言葉に繋がるとは思えないのだけれど。
『ただ、僕は君の妹を知り、自分の妹達が、それほど変わっていなかったことに気付いたよ。本当にありがとう』
そんなグレーシアなのだ。あのリディアスで行われた慰労会でちらりと会ったくらいの人に、そこまで思わせてしまう。
「えっと、シアは領主になりたくない、それで良いんだよね」
「もちろんです」
「じゃあ、欲張りなところを聞かせてくれる?」
今度は首を傾げて、どうして分からないの? という表情を浮かべる。
「父さまも母さまも、兄さまのことばかり心配なさっていますわ。今日だって、兄さまが帰ってきたことばかり、……お話しされています。シアなんて、もうすぐ一人でリディアスの学校へ行くのですよ。それなのに、準備はしたか?とか、向こうでは好奇の目に晒されるかもしれないけれど、気にするなとか。それなのに、シアは大丈夫だと言うのです。シアは好奇の目に晒されたくはありませんのに……」
それは、無理。シアそのものが不思議だもの。
即答しそうになったルカは、少しの間考えてしまった。
「シア、あのね、ディアトーラってだけでみんな好奇の目を向けてくるんだよ。それに、クロノプス家ってリディア家とも繋がりがあるでしょう? だから……」
ルカは当たり障りのないところだけ、グレーシアに伝える。
「それは、兄さまも同じでしょう?」
そして、ほんの少しグレーシアの勢いがなくなる。
「それは、そうだけど……だから、気にするなってことじゃないの?」
「兄さまの時はもっとみんな心配していたのです。シアはずっとみんな一緒になるように、おリボンを付けていたのに、いつもシアだけ仲間はずれなのです。どうして、兄さまはずっと不満なのですか? 満たされないのですか?」
グレーシアはルカが目を丸くしていたことに気付いただろうか。いや、涙で滲み始めていた視界に映るそのルカの姿など、見えるはずもなかっただろう。
仲間はずれ……。
そして、グレーシアの発した言葉がルカの心を刺した。しかし、ルカが傷ついたのではない。
「シアも、もっと心配して欲しいのです。だから、兄さまが今も、うじうじナメクジなのが、とても欲張りに見えてしまいます。またリディアスへ帰って、連絡も寄越さなくなるのでしょう?」
そう言うと、椅子の上で膝を抱えて堪えきれなくなったようにして、泣き出してしまった。もしかしたら、本当にグレーシアのことを勘違いしていたのかもしれない。
「ごめん、シア」
「シアはちゃんとお手紙も書くのです。良い子になるのですわ。だから、シアも心配して欲しいのです。ひとりぼっちは、寂しいのです。だけど、求めてはならない、が女神さまの望みなのです。シアは、悪い子になってしまいました。だから、心配してくれないのです」
「シア、それは違う。あのね、僕、あのふたりの本当の子じゃないんだ。だから、父さまも母さまも気を使ってくださっているだけで、シアのことを心配していないなんてこと絶対にないから」
涙が溢れて止まらない蒼い瞳が、ルカを見つめた。
「兄さまのことはちゃんと知っていますわ。でも、本当の子ってなんなのですか? 心配してもらえないってことなのですか? 一緒になりたくておリボンを付けていても、シアはずっと仲間はずれなのです。それなのに、父さまと兄さまは、まだ頭におリボンすら付けてくれません」
それは、ルカが十歳の頃に思った疑問と同じだった。
本当の子、ってなんなの?
まさかグレーシアがそんなことで悩んでいるなんて、思いもしなかった。
心配してもらえていないなんて、そんなことない。
言葉が出てこなかった。そんなことないと言うその言葉が、まるで鏡のようにルカの前に映し出される。父も、母も、シアも、みんなルカを家族として扱っている。
ルカだけが、今のグレーシアのように仲間はずれだと思っているだけ……。
グレーシアの言う欲張りの意味が分かった。
「本当に、ごめん、シア。兄さまが悪かった。悪い子は兄さま。だから、心配されるんだ。でもね、リボンはちゃんと持ってるんだよ。身につけてないけれど」
「……兄さまが悪い子なのですか?」
「そう」
シアがきょとんとする。「じゃあ、シアが良い子なのですか?」
「シアが悪い子なわけないじゃないか。だから、心配されないの」
まだ納得出来ていないようだが、首を傾げたグレーシアが口を開く。
「でも、シアは兄さまが悪い子だとは思えませんけれど……」
「うん、兄さまもシアが悪い子だとは思えない」
それから、ルカはリボンの付いているグレーシアの頭に優しく手を置いて、言葉を足した。
「わかった……リボンちゃんと身につけるから。これで一緒だから、もう泣かないでよ」
「頭に付けてくださるの?」
相変わらずのグレーシアにルカは言葉を濁す。
「頭は無理だけど、……ちゃんと考えておくから」
「やっぱり、兄さまも父さまも、同じなのです。優柔不断で、ずっと付けてくださらないのですわ。ずっと考えておくのですわ」
ルカはグレーシアの地雷を踏んでしまっていたことに、やっと気付いたが、既に時遅し。そんなことを言ったグレーシアが、また泣き出してしまったのだ。
その後、グレーシアが大欠伸をして立ち上がるまで、ルカはずっとおろおろし続けるのだった。














