特別な日…5
夜に向かう少し前、太陽が沈み、海に溶け出す。
滲み出たオレンジが、海を染めて、太陽を包みこむようにして、沈んでいく。
昼間遊んだ浜辺で、ルカとグレーシアはその両親に挟まれて、そのオレンジ色に膨らんだ太陽を見ていた。初めは、どこでヤドカリを見つけただとか、貝殻が落ちてたとか、お喋りが止まらなかったグレーシアが、大きな欠伸をしながら、ルタに凭れかかり、「たいよう、とけちゃうね」と呟いていた。
海はリディアスにも、ディアトーラにもないものだ。とても不思議な。空よりも小さいはずなのに、空よりも深く色を変え、全部を呑み込んでしまいそうなもの。
「そうね」
凭れかかるグレーシアの肩をトントンとさせるルタは、彼女の温かさに不思議と心救われる。ルカの声がした。
「父さまは、あの太陽の向こうへ向かわれるのですか?」
「方向的には、あっちかな」
ルディは、太陽が沈んだ場所より、左を指さし、ルカに教えた。
「どこにあるのかも、分からないくらいに遠いのですね」
「そうだよ。遠い。でも、どこにあるのかは知っているから、大丈夫」
ルタは少しうつらうつらしてきたグレーシアの肩を抱きながら、カンテラの灯を見つめた。
太陽と同じ色の火である。しかし、太陽と違い、星にも敵わない、そんな火。
太陽の姿が見えなくても、まだ明かりを残す空には、星が数個しか見えないが、その星は歩むべき道の目印として、輝いている。
「ルカにはもっと前に言っておくべきだったと思う」
ルディが海を見つめたまま言う。ルカは黙ってそれを聞いていた。「はい」なのか「いいえ」なのかが、分からなかったのだ。
「でも、言えば、残るって言ってたでしょう?」
「はい」
そこに迷いはなかった。ディアトーラに残る口実にもなる。それに、……。しかし、ルカは言葉を紡がず、そのまま何かを探すようにして、砂浜を見つめた。
「ルカ、本当に戻りたくなったら、いつでも帰ってきていいのですよ」
ルタの優しい眼差しが、俯いたルカに注がれていた。
「はい。大丈夫です。しっかりと学んで参ります」
違う。いや、違わない。役に立てるようになって参ります。だから、……。
言葉にならない気持ちがあるのは、知っている。だけど、言葉にすると壊れてしまいそうなこともルカは知っている。そんなルカに、ルディが白い包みを差し出した。
「戒めの懐刀だからね。昔、父さまのお祖父さまがくださったんだ」
「いましめ?」
ルカはじっとその懐刀を見つめながら黙っていたが、新しい言葉に目を覚ましたシアが、首をちょんと傾げ、ルディに尋ねた。
「そう、シアにはまだ難しいかなぁ」
ルディはグレーシアの頭に手を載せると微笑んだ。
「シア、わかるもん。ねぇ、かあさま、シアは、もうおねえさまですわね」
「そうね。シアはお姉さまですわね」
ルタがグレーシアの言葉に笑いかけると、『ほら』という表情でグレーシアがルディを見遣る。
「じゃあ、一緒に聞いてくれる?」
そして、そんなグレーシアを抱き上げたルディが、そのまま彼女を膝に抱えた。
「うん、きく」
にっこりとルディを見上げたグレーシアを認めたルディが、話し出す。
「ルカは、この意味がもう分かってるんだろうけど、リディアスには本当にたくさんの人たちが集まっているんだよ。あの国の良いところだと思うけど、ディアトーラにとって良いことばかりじゃない。攻撃してくる者も、陥れようとする者も中にはいる。でもね、人を傷つけるのは簡単だけど、傷つけたら終わることもある。刃を向けるともう取り返しが付かないんだ」
ルディの見つめる先には、過去がある。
ディアトーラで過ごした日々、リディアスの学校にいた頃の日々、そして、ルタと過ごしてきた日々。
「父さまは、ずっとこの刀を持っていたけど、この刀身を見たことがない。……今までの人生の中で、それだけは自慢かな」
そう言いながら、わずかに苦笑したくなる。
あの春分祭の日、リディアスで剣を叩き折ったあの時。この刀の重みを感じたから、止めることが出来た。
しかし、あの時を思えば、自慢には出来ないのかな、とも思えたのだ。
「十五歳のルカに、餞として贈る」
鞘を入れている織物の袋には新しくムカデの文様を織り込ませている。ルカは黙ってその袋を受け取り「ありがとうございます」と答えた。
「にいさま、みせて」
深刻な表情をしているルカと違い、グレーシアがその贈り物の袋に手を伸ばす。ルカはルディを見遣り、渡しても良いかを表情で確認してから、その袋をグレーシアに渡した。
「開けちゃ駄目だよ。危ないから」
「うん。シアはぁ、おねえさまだから、おやくそくできるの。なかにはイマシメがはいっているのね。イマシメはあぶない。シアはこの虫さんはきらい。うねうねしてて、おにわをはしっていくし、あしいっぱいあるし。うねうねしてるし。さわっちゃだめだし……どうしてこんなにあしがいっぱいなの? ねぇ、かあさま」
一生懸命に袋を観察しながら、グレーシアは最後に質問をルタに向ける。いつものことに、ルタもにこりと笑ってこたえる。
「どうしてでしょうね。いつか、分かったら教えてくださいね」
「はーい」
元気な返事をして、グレーシアは唐突に話を変える。これも、いつものこと。
「シアはぁ、おはながすきなのですわ。このおリボンもすきで、かあさまはおはながすきで、おりぼんもすきでー、シアといっしょで、とうさまは、このむしさんがすきなの。シアはむしさんもすきだけど、ちょうちょさんのがすきで、えっと、にいさまは、このむしさんがすきなの?」
いきなり質問されて、ルカが戸惑いながら答える。
「……えっと……」
言葉に詰まったルカにルタが代わりに言葉を繋げた。
「母さまは、ムカデになんの頓着もありませんわ。それに、父さまもムカデを見て、悲鳴を上げていましたわ」
――あれは、いきなり枕元に現れたからで……
とルディは言い訳したくなる。
それに、刺されると思いっきり腫れるんだからね、とも言いたくなるが、とりあえず言葉を呑み込んで笑ってみせた。気を使って答えられなかったルカに、それはあまり関係のないことなのだ。
「ははは。そうそう、僕もムカデは苦手。ルカは、ムカデが好きなの?」
「……好んで愛でようとは」
「そうなの?」
グレーシアはきょとんとしながら、兄のルカを見上げて「にいさまも、この虫さんがきらいです」と、袋のムカデに向かい、ルカの代わりにはっきりと答え、分かったように肯いた。
「シアは、わかったのですわ。イマシメは、だからあけてはならないのですね。このむしさんが、いっぱい、はいっているのね」
正解を導いたはずなのに、何故かグレーシア以外のみんなが笑う。きょとんとした後に膨れたグレーシアの頭を撫でたルディが、「シアは偉い」と笑うのを止めた。
シアの言う通りかもしれないと思ったのだ。開けてはならない、堪えなければならない代物。あふれ出て止められなくなれば、失われてしまうもの。
「笑ってごめんね、シアの言う通りだよ。きっと戒めを破るとムカデに刺されるんだ。みんな刺されるのは嫌だよね」
ルタも思った。
本来、その紐を解くことに意味はない。自分の中にあるムカデが暴れて、人を刺さないように閉じ込めておくのだ。
「そうですわね、シアの言う通り、刺されるのは嫌ですわね」
そんなふうに言われ、グレーシアは満足そうに肯いた。
「一緒だね」
「シアもっ」
「……うん」
しかし、ルカの声は、とても小さく沈む。
あの頃なら、ルカもと言って笑ったのだろうな……。
以前なら、いっしょ、と喜んだのでしょうね……。
二人の子どもは、そのふたりの寂しい笑顔には気付かず、それぞれの表情を浮かべていた。
「でも、この模様はクロノプス家の者であることを示す、とても大切な模様だからね」
ルディは視線を袋に落としたままのルカに伝えた。
クロノプスの家族に、波の音が寄せて、返す。
静かな海はただそれぞれの思いを波に沈め、内に秘めていくだけだった。
そして、朝になると、海は一転するのだ。太陽を呑み込んだはずの水平線からは、目映いほどの光を生み出し、瞬く間に星や月、闇夜を押しやり、夜の帳を上げる。空を青く染め始める。
港に押し寄せる波は朝陽に光り輝いていた。そして、岸壁にぶつかり、青が弾け、まるで、細かく砕いたガラスを鏤めたように、光が重なり合いながら、その門出を祝福しているようにすら見えるものになる。
それは、沈めた思いを希望に変えて、人々に与えるかのごとく。
港では、ルディ夫妻が出航を待っていた。子ども達とはタミルの別宅で、挨拶を済ませた。
リディアスが用意した正装の類いは先に船に積まれてあり、ルディの手荷物は鞄二つ。一つは生活用品が入っており、一つは相手側に献上する品物、と言っても、今回は本当に手土産程度のものが数点入っているだけだ。それらはアリサとミルタスとルタが選んだものでもあった。
「ルタ、必ず元気で戻ってくるから、僕の場所は空けておいてよ」
「あら、ルディはたった一年で、わたくしにさえ居場所を取られてしまうような、そんな元首候補だったのですか?」
不敵に笑うルタに、ルディは静かに微笑む。
本気でかかってこられたら、敵わないかもしれないけれど、ルタにその気が無いことくらい分かっているし、ルタが各国と上手くやれないわけがない。それに、ルタはルディの真似などせずとも、ルディの不安を掻き消すことができるのだ。
だから、胸を張って答えられる。
「まさか、逆立ちしてても、奪い返せるよ」
そう言うとルディはルタを抱き寄せ、その肩で続けた。
「だから、ぜったいに無茶はしないで」
ルディの腕の中で、ルタが言葉を返す。
「必ずのおかえりを。そして、奪い返してください」
ルディから離れ、満足そうに笑ったルタは、深々とお辞儀をして、ルディを見送った。
「太陽を生み出し、呑み込む場所」【了】














