特別な日…3
海を眺められる砂浜に突きだした展望テラス。潮風が浸食させるらしく、薄い水色のテーブルは塗料が剥げて浮き上がり、表面をぽこぽこさせていた。タミルの弟がここを利用する前には、それら塗料を一度削り、塗り直すそうだ。
ルタとミルタスは、砂浜へ降りるための階段で子ども達を見守りながら、立ち話をしており、ルディはというと、暇を潰すようにその浮き上がった塗料をそのままくっつきはしないかと、指で塗料を押していた。
そこには運ばれてきたばかりのまだ湯気の立つ花柄のカップが四つあり、戻ってきた後の子ども達用には、見慣れない赤いジュースも置かれてある。またグレーシアが騒ぎそうだ。
赤い汁の出る柑橘らしい。
給仕に様々指図し、下がらせたタミルがやっと席に着くと、ルディはその遊びをやめて、まずはタミルに感謝を述べた。
「タミル、紹介してくれて本当にありがとう。助かった」
「いやいや、お互い様ですから。せめて言葉が分かる者を紹介したかったのですが、フローロア自体が、ほとんど海の外と関わりを持ってませんからな」
タミルは穏やかだった。
ルディの行くフローロアは豊かな国である。温暖な気候であり、土地も肥えている。羊毛と綿花を使った染織産業が有名である。基盤がしっかりしている分、繋がりを持とうと思えば、ディアトーラと同じくらいに時間を掛けなければならないかもしれない、と言われていた。
「ルディ殿が一番の大抜擢ですからな」
「はは、親戚だから断れないだけだよ……」
乾いた笑いが零れた。不服はあるが、フローロアの現状を調べ切れていないという責任は、あの時『情報』を任されたディアトーラにある。だから、ルディは大きく反論出来ないのだ。考えようによっては、他の国が任されなくて良かったとも言える。だから、親戚でもなく、ただの貿易商だったタミルなんてもっとだろう。
「タミルの方が大抜擢だよ」
リディアスと海の外の国が繋がっていなくても、貿易商同士がアイアイアで繋がっていることもある。
何の繋がりもない船で行くよりは、安全だとリディアス国王であるアルバートが言ったのも、それが理由だ。だから、今回の出航はアイアイアの船だ。
タミルは自分の実家の力を借りてちゃんと通訳も付け、護衛も数名準備するとのことだ。
ルディの場合、付き人はルディの向かうフローロアへ一度行ったことがあるらしいズッカという商人だけだ。その際に出会っていた誰かが彼を覚えているかもしれない、タミルに頼み込んでやっと見つけたそんな人。
初めてと言ってもよい海の外へ視察に行く。もちろん、普段から一人で出歩く元首として不思議がられているが、たとえそうでも、せめて言葉の通じる誰かを付けてくれてもいいんじゃないか、とリディアスへは不服を持ってしまう。
しかし、誰もが二の足を踏んだ言葉も分からない海の外への抜擢だったため、どこの国からも同情こそあれ、羨望の眼差しが全くなかったことは、僥倖と言って良いだろう。
この抜擢が原因でまたありもしない噂が立つことがない。
しかし……。
海にも賊がいるらしい。
海にも魔獣がいるらしい。
確かに、わだつみ、という神様がいるくらいだから、ときわの森と変わらないとは思ったけれど。
リディアスにもワインスレーにも賊くらいいるのだし。
ルタ曰く、わだつみは自然崇拝の中で生まれた神様だろうから、お目にはかかれないだろうとのことだけど。
タミル曰く、リディアスの砂漠地帯にいる夜盗よりはましなのではとも。
「噂ではフローロア元首の兄君がすべての鍵を握っているそうですな」
「うん、どんな人だろうね、元首よりも鍵を握ってるって」
もしかしたら、リディアスは、暗に僕を殺す気なんじゃないか、とまで勘ぐってしまう。
しかし、リディアスがまったく高みの見物か、と言えばそうではなく、アリサの長女の婿殿や、アノールのすぐ上の第三王子の穏健派四男や、第二王子の目端が利くとされている次男、そして、国立研究所、所長候補だろう有力者達も、もちろん交易を繋ぐための視察に駆り出されているのだ。
「タミルも気を付けてね」
「うちは、元々バーグ家と関わりのある国でもあります故。心配と言えば、海の上の海賊と魔獣、国家元首の機嫌取りですな」
ルディが真綿に包まれた鋼だとすれば、タミルは穏やかな口調で話を進め、豪快な風呂敷のように、いつの間にかすべてをかっさらっていくような性格だ。
この外交に求められていることは、表面的な『穏やかさ』なのだろう。
「ご機嫌取りはお手の物でしょう?」
「ははは、貿易商の頃と勝手が違わなければ良いのですが」
見れば、カップのお茶はすっかりなくなっていた。
潮風とともに耳に届く単調な海の音と変わりやすいその色は、ルディを心配と不安に陥れるのだ。
何を喋っているのかは分からないが、同じ潮風に乗って子ども達の楽しそうな声も聞こえてくる。ルディはその声に誘われるようにして、ルタ達の傍に立った。
ルカに見守られながら、グレーシアとタンジーがしゃがんで何かを触っている。あんな風景も暫く見ることが出来ないんだな、と吐き尽くしたはずの溜息を吐いてしまう。
「子ども達は良いですな」
タミルがミルタスの傍らに立ち、同じように視線を投げる。
おそらく、アルバートの御世に国交を結ぶまでは、終わらせておきたいのだろう。
それも分からなくはない。交流を本格的に進めるようになるのが次代だったとしても、やれるところまでは整えてやりたいと思うのが親心である。
だから、ルディもこちらの安全保障という点を交渉材料にして、ルカの保障をさせたのだから、文句は言えないのだけれど。まぁ、それも身内だからごねられたことでもあるのだけれど。
「……ほんの僅かな時間で打ち解けるんだもの。羨ましい」
ルディがそんな彼らを羨めば、ルタがクスリと笑う声がした。
「なに? 僕面白いこと言った?」
「いいえ、羨ましがらなくても、ルディもすぐに人と打ち解けますわよ」
ルディの傍らにいたルタが笑いの意味を伝えると、ルタと話をしていたミルタスも続ける。
「ルタ様の言うとおりでございます。それよりもうちのタミルの方が、大風呂敷を広げてこないか、心配ですわ」
「確かに。博打打ちのところは認めるが、立場は弁えていますよ、元首様。しかし、実際に、ルディ殿は人の懐に入り込むことをお得意とされていますからな。私にはどうにも敵わぬところはありますな」
「なに? タミルまで……」
どうして、からかわれているのか、全く分からないルディは僅かに頬を膨らませるが、答えが出ないことも知っている。ここに来るまでの間、三人でこそこそ話していたことが関係しているのかもしれない。なんとなく除け者にされることには慣れているのだけれど、結局いつも褒められているのか、からかわれているのか、分からないまま終わるのだ。
だけど、いつもならそこで話が終わるはずなのに、ルタが話を続けた。それは、ルディにとって意外なことだった。話を続けたのがタミルではなく、ルタであったことも、そのルタが真剣な顔をしていることも。
「褒めているのですよ。その特性が買われたからこその抜擢です」
ルタに褒められることなんて、子どもの頃以来だ。だから、素直に感謝することにした。
「……ありがとう」
「だから、不安がらずに、無事に帰ってくるのですよ」
「う、うん」
そんなに不安そうな顔をしていたのだろうか。思わず頬に両手をやり、自分を確かめる。
「そう、ルディ殿は大丈夫ですよ」
ルタの声の下から、なぜかにやつくタミルの声が続き、ミルタスが遠慮がちに続けた。
「タミル様も、ご無事で」
「こんな時に一人にさせて申し訳ないな」
言葉には出さないが「いいえ」と、頭を僅かに横にしたミルタスの瞳には決意に満ちた色が見える。任される側も不安だが、ミルタスの場合、ここに残ってエリツェリを一人で支えるという不安も残るのだ。政治の表舞台で足元をぐらつかせずに、動けそうなのはミルタスと、ソレルの夫くらいなのだ。ソレルは気持ちが弱くて、夫人同士の会話くらいなら失敗せずに動けるだろうが、それ以外は動けない。それをタミルが上手く隠しているのだ。その他はお使い程度。ディアトーラで言えば、テオやフレドでも務まりそうである。
その分、ディアトーラはアノールが元首として残っている。ルタもいる。そのルタの話し相手として、セシルもいる。各国元首の顔の特徴と名前と好物を空で言えるほどのカズもいるし、テオもフレドも、万屋の家族もいる。
失敗が許されないのは、同じなのだ。ディアトーラはまだましな方。それに、残される方が、ルディの心配の半分を背負っている。
そう思った時に、背中を抱きしめられた。ルタだ。
「どうしたの?」
そして、不思議な返事が聞こえてきた。
「大丈夫ですわ…………もう、つまらない不安はなくなりましたか?」
「そんなに、急にはなくならないけど……」
そう言いながら、ルタに向き合うと、ルタが不思議そうにきょとんとした後、残念そうに呟いた。
「『大丈夫』だと助言いただきましたが、……不安を取り除くための人間の儀式には、やはり、わたくしの身丈が足りないのですね……」
そのまま、ルタに眺められたタミルが、声を上げて笑い出した。先ほどルタに相談されたのだ。いや、相談と言うよりも、初めはお願いだった。
どうしたらルディの不安が拭えるのかと。だから、タミルとミルタスは尋ねた。
ルタ様が不安な時は、どのようにして、その不安を解消されるのですか? と。
ルタが答えた。
『どうしようもない時は、なぜか不安に気付くルディが、そっとわたくしを包みます。『大丈夫だから』と伝えられます。ルディはいつも温かくて、安心出来ますわ。でも、ルディを包むのに、わたくしでは身丈が足りないと思うのです。グレーシアなら包めますけれど……』
タミルもミルタスも、そんなことを真面目に、恥じらいもなく伝えられるルタのちぐはぐさに、どこか安心を感じながら、二人して『身丈云々のそこは大丈夫』と保障したのだ。
「ルタ様、私ではいくら身丈があっても役にも立ちませんよ」
しかし、ルディは、そのタミルの口調と笑いに口を尖らせた。
ルタは言葉を尽くして、それでも不安なルディのことを心配してくれているのだ。だけど、タミルに笑われるのは、何だか違う。ルディは首を傾げるルタを見ながら、思った。まぁ、百歩譲って、タミルに寄り添うミルタスが、ルタを微笑ましそうに見ているのは許せる。ルタの理屈と行動が、ルディにも不思議なことは不思議なのだから。
しかし、そんなに大声上げて笑うことじゃないと思ったのだ。
「いくらタミルでも、これ以上笑うのは許さないからね」
タミルを睨んだルディに、「これは失敬」と咳払いをして、タミルが謝った。
「とんだご無礼を。ルディ殿は本当に大切にされておりますな。それに、私の不安は今のお二人ですっかり吹っ飛びました。感謝申し上げます。ルディ殿、お互いに頑張りましょうな」
「えぇ、頑張りましょう。でもね、ルタ、こうやって抱きしめるのは、人間の儀式じゃなくて、家族だけだからね」
ルタは、やはりきょとんとする。そして、ルディは、久し振りにルタのその顔を見た気がした。不思議な勘違いと少し頓珍漢な解釈。伝えてもうまく伝わりきらない部分が、ルタにはやっぱりまだある。
だから、ルディはそのルタの両手を取って、「でも、もう大丈夫。ルタのおかげで不安もなくなったから。ありがとう」と笑って見せた。
しかし、何よりもルタが一生懸命に考えてくれたその気持ちが、単に嬉しかった。
もちろん、ルタにはそのルディとタミルの言葉の意味が分からなくて、不思議そうに「タミル様の不安も取り除けたようで、光栄でございます」とだけ続けていた。














