表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

中編

 俺は沈み込む。

 身体全体を染み込ませるように。

 俺は沈み込む。

 深い、深い、海の底のような、それでいて、とても、とても、真っ暗な空間のような――そう、潜在意識の奥底へ。

 そして、俺は感じる。

 脳の底流の中に確かにいる存在を。細胞の狭間で見え隠れする存在を。

 それは、妄想だ。

 妄念や邪念や雑念によってとらわれ、引き起こされる妄想だ。

 ふたたび、俺は妄想に沈み込むことになる。


 

 八月十三日。午前十時十分。対、妄想。


「やあ、こんにちは佐藤さん。何してるんだい?」

 木々がいっさいなくなった雪山のような、真っ白い空間がある。

 その空間の中で、目の前に佐藤さんが見える。

 だから俺は心なしハイテンションに近い高揚感で彼女に声をかける。

「…………はぁ……。あ、……はぁ、……き、桐原ぁ……く、んぅ。はぁ、…………べ、別に何もぅ……くぅ! し、してないよぉ……」

 彼女は身体をくねらせながらくねくねハニーで答える。

 佐藤さんは下唇を思いっきり噛みながら、両手は股間の辺り、顔を真っ赤に燃え上がらせて、腰を横に振っている。

「どうしたんだい? 佐藤さん? 三点リーダーの多用は作品をチープにするから、あんまりよくないよ?」

 俺は彼女が佐藤さんで佐藤さんでないわけがないのだから、とても心配して声をかける。

 心なしハイテンションに近い高揚感の俺はメタ発言をものともしない。

 無敵だ。

 無敵艦隊にスターをとって無敵モードで乗り込んでいるくらい無敵だ。

 今なら壁にはさまれようが、谷底に突き落とされようが、負ける気がしない。

 すべての枠にとらわれない=俺なのだ。

 漫画版忍たま乱太郎にありがちな、枠線ワープや枠線破壊を行える男の子なのだ。

「そ、そうだ、はぁ、ねぇ――っつぅ。……はぁ、ご、ごめんねぇ、はぁ」

 佐藤さんは佐藤さんだから可愛らしくお辞儀をして謝る。

 ペコリ。

 謝ることはいいことだ。

 謝ることから誠意は始まる。

 誠意ある態度はすべてをよい方向へと導き出す。

 佐藤さんはよい子だ。とりあえずよい子なので、なでなでしてあげる。髪がさらさらささらなので、気持ちいい。

「わはぁ……」

 なでなで佐藤さんは安らいでいた。キタキツネを飼うってのはこんな気持ちなのかと思った。

「わかってくれたならいいよ。それなら――」

 俺は佐藤さんだから、当然のように、

 右手の掌を表に返して、差し出して言う。

「これからは、俺様のことをご主人様とお呼びなさい」

 そして至極当然のように、

 俺は、左手の掌を表に返して、差し出す。

「…………うぅ…………う〜〜〜〜う〜〜いっいぇーい!! わっかりましたぁーご主人様♪ キラリ☆」 

 佐藤さんは右足をダンと地面に打ちつけ、その反動で三回転ジャンピングして飛行しまくった後、

 上から両手を俺の両手に叩きつける。

 バチン。

 これはさながら、ハイタッチのようだ。

 でも、しかし、残念ながら、このタッチはハイな所ではなく、中くらいな所でやってるチュウタッチだ。

 ハイタッチはドリブルシュートを決め終えた後に、高らかと手を上げて行うものなのだ。

 それは、鉄則なのだ。

 だけど、擁護するならば、気分的にはチュウくらいの気分ではなく、ハイな気分でのタッチだった。

 ハイな気分で行えれば、ドリブルシュートの高揚感を補うことが出来る。

 だからこれは、いわゆる、チューハイタッチだった。

 初めてのチューハイタッチだった。

「はぁ……はぁ……ご主人さまぁ……。はぁ、か、身体が、あつうござんす」

 佐藤さんがベロンベロンに酔いつぶれ、誘ってんじゃねえってくらい、はぁはぁしながら服を脱ぎ始める。

 これは、チューハイタッチに含まれるアルコール成分によってこそなせる業なのだ。

 万歳チューハイタッチ。

 God,job チューハイタッチ。

 体操着すがたの佐藤さんは短パンを脱ぎ捨て、上着と下着とくつ下のみになり、俺のストライクゾーンを直撃。

 しかし、その後も服をバンバン脱ぐ。

 最終的に、佐藤さんはくつ下さえも脱いでしまい、俺の手ぬぐいできめ細やかな肌をパシンパシンやりはじめた。

 ほろ酔い気分で、もはやホロホロな佐藤さんだ。

 だから佐藤さんはペローネ様より可愛くてコロポックルより可愛くなかった。

「……はぁ、……はぁ、主さまぁ……わ、わっちの、大切なところが、ジンジンするぅー。た、大切なところが、ジンジンするぅー」

 ホロホロ佐藤さんが大事なところを真っ黒にしながら、ご主人さまを主さまに変えながら、暴れだす。

「それは、ジンを飲んだからだろ」

 素早く冷静な俺だった。

 俺は十五歳で、ジンもウォッカも飲んだことがないから分からないけれど、ジンが佐藤さんをちっちゃくしていることくらい明白であった。

「よくも、佐藤さんを……」

 俺はジンを恨む。

 しかし、そんなことよりも今は佐藤さんを止めなくては。

 だから暴れる佐藤さんを、俺は抱きしめる。

 精一杯の力で、強く、温かく、抱きしめてやる。

 溢れるほどの思いがこぼれてしまう前に。

 抱擁する。

 彼女が安心するために。

「大丈夫」

 声をかける。

「……う」

「ぜったい、大丈夫だから」

 優しく、落ち着いて、怖がらせないように。

「……う、う?」

 ぐちゃぐちゃでくちゃくちゃな声を漏らしながら、彼女は俺の中でうずくまる。

 そして、瞳を潤ませながらこちらを見てくる。

 信じかけている瞳。信じようとしてくれる瞳。

「ぜったい、まもって、みせるから」

「……ぜったい?」

「そう、絶対」

 俺は、断言する。

「…………ホントに?」

「うん、本当に」

「…………じゃぁ、まかせた」

「うん、ぜったい……守るから」

「……わかったよ」

 佐藤さんは真っ直ぐとこちらを見据える。

 佐藤さんの眼が見える。

 そして、俺は彼女の変化に気づく。

 眼が……。

 あれほどうつむきがちだった眼が、変わっているのだ。

 その眼は己のあるべき道を見つけ、それに見合う覚悟を秘めた、大人の眼だ。

 佐藤さんは理解したのだ。自分の行く末を。将来を。

 一流パティシエになる未来を。 

 今こそ、佐藤さんはジンの呪いから解放される。そして、大人の女性への階段を駆け上がる準備が整ったのだ。

 おめでとう佐藤さん。

 おめでとう佐藤さん。

「おめでとう」

 俺は拍手を佐藤さんにおくる。

「おめでとう」

 源間先輩は拍手を佐藤さんにおくる。

「おめでとう」

 真子先輩は拍手を佐藤さんにおくる。

「おめでとう」

 竜太先輩は拍手を佐藤さんにおくる。

 みんなに囲まれ、佐藤さんは笑顔で前を向く。

 先輩に、ありがとう。

 同級生に、ありがとう。

 そして、全ての剣道部員に、ありがとう。

 もう、佐藤さんは子供じゃない。

 塩ラーメンに砂糖をぶちまけて、佐藤ラーメンをつくるような子供じゃない。

 塩ようかんに砂糖をまぜて、佐藤ようかん――ぶっちゃけ普通のようかんにするような子供じゃない。

 スイカに砂糖をかけて、佐藤スイカ――真子先輩に砂浜に埋められるような子供じゃない。

「さあ、いこうぜ」

「うんっ」

 そして、俺たちは上りきる。

 長い、長い坂道を――。

「めぇめめめめめめめっっっっっっっっ、面っっっっっっっっっとぅ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 そして、俺は吹き飛ばされる。

 長い、長い、長身の先輩――上條竜太先輩に。



 八月十三日。午後十三時。対、真名子真子先輩2。


「……ん」

 俺の意識が元に戻り始める。

 身体に染み込んでいた妄想はすでに霧散して、俺自身は現実に帰還している。

 もう、大丈夫だ。

 そして、俺はおぼろげな状態ながらも、なんとか頭が回り始めると、何が起きたのかを思い出す。

 稽古中の失神。

 おそらく俺は、掛かり稽古の最中に、竜太先輩からの体当たりをくらい、そのまま気絶してしまったのだろう。

 夏場で、しかも最近の稽古は激しいものであったとはいえ、我ながら情けないものだ。夏の終わりにある大会まであと二週間だが、こんなものじゃやっていけない。

 それにしても、どれくらい寝ていたのだろうか?

 そして、今、ここはどこなのだろうか?

 俺は、完全に覚めていない意識をなんとか奮い立たせ、現状把握を行おうとする。

 すると、ふと、なにやら頭の下に、ひんやりとしながらも温かく柔らかい感触があるのに気がつく。

(何だ?)

 頭にもやがかかっているみたいで、正確な判断はつかないが、どうやら俺は、何かを枕のようにして、仰向けの状態で寝ているらしい。

 誰かが、横になれるところまで運んでくれたのだろうか。

 ありがたいことだ。

「あら、やっと目が覚めたようね」

 不透明な感覚の中、聞きなれた声が耳に入る。

 この心地よい透き通った声は――。

「……真子せんぱい?」

「そうよ、みんな大好き、クールビューティー、年下キラーの真名子真子先輩よ」

 目を開ける気力がわかないため、顔は見れないが、そのもの言い、その口調は確かに真子先輩であった。

「…………先輩が、……俺の看病を…………してくれたの……ですか?」

「ええそうよ」

 真子先輩は肯定する。

 マネージャーが部員の面倒を見るのはよくあることだが、それでも俺にとって嬉しいことであった。

「…………ありが……とう……ござい…………ます」

「気にしないでいいわよ。それよりも、桐原くん、いけないわ。三点リーダーの多用は、作品を安っぽくしてしまうから、やめなさい」

 何気なく発せられたその言葉に、俺は軽く絶句する。

「どうしたのよ?」

「い、いえ……俺の潜在意識は先輩に汚染されているんだなぁ……って」

 おどろいたぁ。おんなじこと言ってやんの。

「なにいってんだか、そんなことよりとにかくね、作品の質を落とさないためにも、あなたが今やるべきことは、三点リーダーを止めて――」

 一拍。

「早く、元気になりなさい」

 真子先輩の言葉が耳に響く。

 あぁ。

 そうか。そうだよな。

 助かる。ホント助かるし。

 ありがたいひとだ。

「じゃないと、ヤカンに入ってる熱湯を耳に注ぐわよ」

「ぎゃー!!」

 焦った俺は、意識をむりやり覚醒させ、目を開けて、必死に頭を起こす。

 そして、『もふっ』とした感触のものが顔に当たる。激突する。

「ふぇっ?」

「ふふっ、無理はしなくていいわ。まだ、寝てなさい」

 真子先輩はそう言い、起き上がりかけた俺を元の位置に戻す。

「む。……ん! え?」

 重たいまぶたを開き、大分意識がはっきりしはじめた俺は、そこでやっと、自分がいったいどこで、つーか、何で寝ているかを思い知らされる。

「こ、これは……」

 目を見開く。そこには真子先輩の顔がある。

「どう? ハッピーでしょ。狂おしく身をよじらせる程に幸福でしょ?」 

 なんと、俺が今から今まで、ずーっと寝ていたのは、真子先輩の膝の上だった。

 まさに、俗に言う、膝枕だった。

 しかも、先輩は体操着のままだった。

 つまり直で膝があたってる。

 膝in俺。いや、膝on俺。

 ビバふともも。ビバふくらはぎだった。

 驚いている俺を尻目に、といっても顔がとても至近距離で向かい合っているのだが、構わず真子先輩は微笑をしながら俺に話しかけてくる。

 先輩の吐息が鼻筋にあたり、背中がゾクゾクっとする。

「さあ、桐原くん。体操着と短パンを装備している私の膝の上で、めくるめく欲望の渦に飛び込みなさい。私の、引き締まっているにもかかわらず、ぷにぷにな太ももと、ふにふになふくらはぎを堪能しなさい」

 先輩の顔が接近してくる。

 先輩の香りが鼻をおかしくさせる。なにやらクラクラしてくる。

「さあ、私の下半身は下着と短パンのみよ。あなたは私の股のところに顔を埋めて、ぐりぐりっとやって汗のにおいを嗅ぎながら、すーすーしなさい。すーすーやりなさい」

 先輩の顔がさらに近づく。

 これは、何だ。

「さあ、それとも私の胸がいい? さっきぶつかって『もふっ』としたのを何回もやりたい? ふんわりやわらかな形のいい胸で『もふっ』としたい? もふもふしたい?」

 まだ、妄想が続いているのか。

 俺は混乱する。

「さあ、どちらでもなく、先ほどから接近している私の唇がいい? 近づいてくる私の唇をはむはむしたい? それともはむはむして欲しい?」

 わからない。

 どうなっているんだ。

「さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ――――さあ、さて、冗談はこれぐらいにしましょう。水かけるわよ」

 真子先輩は、隣になぜかあったヤカンを手にとり、中身を俺の耳に流し込んだ。

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 俺は、膝から転がり落ち、床に転げまわる。

 転がり続け、転がり続け、壁にぶつかると、俺はようやく動きを止める。

「大丈夫よ。中身はただの冷水だから」

「いや、それでも! それでも! つか、だいじょぶなのほんとですか!?」

 俺は、叫ぶ。

「完璧に完全にモーマンタイよ。それよりも、本題に入るわ、桐原くん。そこに座りなさい」

 真子先輩はどこからか座布団を取り出し、俺に座るように命じる。

 俺は言われたとおりに、座り、ようやく、元気になり、落ち着きを取り戻した。

 そして、今自分が何処にいるのかも判断できるようになった。

 ここはおそらく女子剣道部員の部室だ。

 大きさは男子の部室と変わらないが、内装にところどころ女子高生らしい雰囲気がにじみでている。あとちょっとやけに制汗剤くさい。

 女子の部室は、入部してから、何度か訪れたことはあったから間違いないだろう。

「それで座りましたけど、どうすればいいんですか?」

 当然の疑問を真子先輩に投げつける。

「簡単よ、倒れた理由をしゃべりなさい」

「はい、あれは先輩にハイキックをされたから――」

「いや、そこまで戻らなくていいわ」

 真子先輩が突っ込みをいれてくれた。

 珍しい光景だった。

「なんで、稽古中に失神したのかの理由よ。話なさい」

 命令口調だったが、その声色はいつもと異なり、真剣なものだった。

 そのため、俺は真子先輩にしっかりと今までの出来事を一部始終すべて話した。

「……なるほどね。やはり、そうか……」

 俺が話し終えると、先輩は一人うんうんと頷き、何か小さい声でつぶやいている。

「どうかしたんですか? 先輩」

 俺が声をかけると、真子先輩は一瞬真顔になった後、すぐに表情を戻し、逆に俺に向かって問いかける。 

「ねえ、桐原くん。多分、問題ないと思うのだけれど、今回の件で、佐藤さんのことを嫌ってたりしないわよね?」

 どういうことだ?

 よく、わからない、問いかけ。

 確かに普通に考えれば、もし佐藤さんが俺の手ぬぐいを盗んでいるのだとすると、盗んだことを理由に、俺が彼女のことを嫌う可能性はある。

 まあ、別に、嫌うつもりはないけど。

 しかし、何故、真子先輩がそのことを問うてくるのか。それがわからない。

 わからないなら、わからないなりに深く考えず、俺は、とりあえず正直に答えておく。

「はぁ、別に嫌いにはならないですよ。むしろ好感度がアップするぐらいです」

 すると、真子先輩はとても安心したような顔をし、そして、俺に抱きついてきた。

「なっ!」俺は驚く。

「えらい! えらいわよ! 桐原くん。流石だわっ、さすが心が広い男よあなたは」

 真子先輩に抱きつかれたまま、俺は頬をすりすりされる。

 俺の心臓は膝で寝ていたときよりもバクンバクンと脈を打っている。

 そして、真子先輩はひとしきり大仰な言葉で俺を褒め称え終えると、俺から身体を離した。

「な、なんなんですか? いったい……」

「ふふ、気にしないでちょうだい。女はくだらないことで大慌てする愚かな存在なのよ」

「? そうですか」

 よくはわからないが、真子先輩は元に戻っていた。



 八月十四日。午前七時二十分。対、源間将平先輩2。


「まただな」

 翌日。またも俺の手ぬぐいがなくなっていた。これで、残り一枚だ。

 昨日は途中で気絶してしまったため、俺は、結局、佐藤さんに手ぬぐいについて聞くことができなかった。

 そして、今。俺は佐藤さんに手ぬぐいについて聞くかどうかについて悩んでいる。

 もしかしたら、何かの間違いかもしれないし。

 本当だとしても、下手に指摘してしまっては、佐藤さんは傷ついてしまうかもしれない。

 まさに悩みどころだった。

「でも、枚数も少なくなっているしな」

 どうするか。

 すると、部室に長身の先輩が入ってくる。上條竜太先輩だ。

「やあ、桐原くん。昨日はあのあと大丈夫だったかね」

「はい、大丈夫です。昨日はご迷惑をかけて、本当に失礼しました」

「いや、構わないさ。その反省を生かして精進してくれ」 

 昨日の失神は俺のミスだ。

 俺はそのことを自覚しているし、竜太先輩もわかっている。

 だから、竜太先輩は俺の謝罪を受け取り、意識的に自らは謝らないように努めてくれている。

「それで、どうだったかね。手ぬぐいは?」

 昨日の話から竜太先輩は、そのことを思い出し、俺に問いかける。

「いや、なんか、いろいろありまして……」

 俺は少し口ごもる。

 昨日のことを説明するとなると、いろいろとごちゃごちゃしていて話ずらいのだ。

 真子先輩に一度説明しているから、ある程度の整理はできてはいるが、どうしても、話にくい。

 それに、妄想や失神のことも混ぜなければいけないので、できれば話したくないという気持ちもある。

 ……むしろ、そっちが本当の理由かな。

「……そうか、まあ、仕方がないさ。話たくなったら話してくれたまえ」

 俺の気持ちを察してくれたのか、竜太先輩は突っ込みすぎることなく引いてくれた。

 俺は一安心し、そして、小さく感謝する。

「さて、稽古がはじまるぞ、桐原くん」

「はいっ」

 竜太先輩と共に部室を出ると、主将――源間先輩がちょうど集合の掛け声を上げた。

 部活の開始だ。

 一通りの準備運動を終え、素振り、そして面をつけて稽古だ。

 切返しを行い、面打ち、小手打ち、胴打ち、突き打ちと基本の確認。その後、連続技、応じ技、などの応用技に入り、そして、前半の締めくくりに掛かり稽古を行う。

 若き剣士達は、お互いに切磋琢磨しながら、身体と身体を当てる。

 汗が弾け飛び、夏の暑さを実感する。

 竹刀がしなり、交わり、重なり、ぶつかり合う。

 部員たちは声を掛け合い、互いを鼓舞する。

 主将が激をとばし、部員たちはそれに答える。

 先輩が太鼓をならし、部員たちはそれに答える。

 夏の剣道。そのものであった。

「……ふぅ」

 心地よい疲労感に、手ぬぐいのことも忘れかけていたが、俺は、またも佐藤さんの手ぬぐいが黒くなっているのが目に入ってしまった。

「またか……」

 しかたがない、聞こう。

 練習が終わったら、佐藤さんに尋ねよう。

 俺はそう心に決心する。

 なのにしかし。

「な……!」

 視界の先にもう一つの黒い手ぬぐいが見える。

 俺の手ぬぐいだ。

 俺は佐藤さんのほうを見る。

 それもまた黒い。

 つまり、黒い手ぬぐい――俺の手ぬぐいをつけた人が、二人居る。

(何だ……?)

 稽古で流したものとは異なる冷えるような汗をかきながら、俺は、佐藤さんではないほうの黒い手ぬぐいの方を向く。

 そして、その手ぬぐいをつけている人を見る。

 佐藤さんではなく、俺の手ぬぐいをつけた人は。

「源間先輩……」

 汗をかきながらも、精悍な顔つきの青年、源間将平がそこには存在していた。 







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ