雪の空と繋がる空
―――空は繋がっていると誰かが言っていたと思う。
それは本当だろうか。少なくとも、この雪が降りしきる曇り空と繋がっていても、嬉しくないなと僕は思った。
揺れる電車の外を眺めながら、ふとそんなことを考える。
車窓にわずかにはりついた雪が、水となって線を引いて流れていった。
僕がこれから行く場所は、これよりもっとひどい雪が降るのだという。
冬場は雪かきも大変で、これからは僕も朝早くから手伝わないといけないという話を聞いて、早くも憂鬱になっていた。
クリスマス前の日曜日。つい先日終業式が終わったばかりの僕は、わずかな荷物をバッグに詰め込み、新幹線の通る市の駅に向かう電車の中にいた。
周りを見ると、私服姿の同年代か少し上くらいの年齢の男女が、数多く乗車している。
きっと遊びに行くのだろう。近隣で一番の繁華街は、この電車の終点駅にある。
もっとも、僕は駅から出ることなく乗り換えるため、そこに行くことはないのだが。
この街は新幹線の窓から眺めることで見納めだ。そのために窓際の席を予約していた。
僕は今日、生まれ育った街を出て行くことになる。
とはいえそれは、僕の本意ではない。ある事情があったからだ。
脳裏に浮かぶ一人の少女。とても小さく、まるで小動物のようだけど、儚い笑顔で綺麗に笑う女の子だった。その笑顔が好きだったから、ただ守りたいと、そう思っていた。
春乃ひまり――それが僕が守ろうとして、でも守れなかった幼馴染の名前だった。
ひまりと僕は、別に昔から仲が良かったわけじゃない。
家が隣同士というわけでも、親が仲が良かったわけでもない。そもそも僕の親は見栄っ張りで、外面だけはいい人達だったけど、好んで近所付き合いをしたいという人種ではなかった。
幼い頃のひまりは、近所の公園でたまに見かけることがあったとか、それくらいの関係だったと思う。
その関係に変化があったのは、小学校に上がってからのことだ。
僕が家に向かって歩いていると、ある家の前で小さく蹲って震えているひまりがいた。
お腹でも痛いのかと思って駆け寄ると、門の内側から犬の吠える声が聞こえ、その声にひまりは面白いくらいビクリと反応した。
…なるほど、犬が怖いのか。
そう思った僕はひまりを起こし、手を握って強引に犬の繋がれた家を横切ったのだ。
これなら怖くないだろと僕が言うと、ありがとうとひまりは泣き腫らした顔で小さく笑った。
それから毎日、僕とひまりは手を繋いで犬のいる家を横切った。
高学年に上がってもそれは続き、同級生にからかわれたりもしたが、僕は気にしなかった。
いつまで経ってもひまりの手は僕よりも小さいままで、手を離したらまた蹲って泣いてしまうような気がしたのだ。
―――ひまりは僕が守らないと。
なんとなく、そう思っていた。
あまり認めたくないけど多分、初恋だったんだと思う。
それから僕らは中学生になった。
同じ中学に進んだ僕らは、小学校からの関係はそのままで、だけど別のクラスになっていた。
それが始まりだった。僕の手の届くところに、ひまりはいなくなっていた。
クラスの中でも背が小さく、臆病なところのあるひまりは格好のターゲットだったのだろう。
ひまりはいじめにあったのだ。同い年である僕でも理解できないほど、狡猾で陰湿なやり口だったらしい。今思い出しても反吐が出そうだ。
そしてなにより、そのことに気付くことができなかった自分自身に、今でも腹の底から煮えくりそうなほど腹が立つ。
僕はひまりのいじめに、一年以上も気付けなくて。
ようやく事態を理解できたのは、ひまりが僕の手を取ることなく、家に引きこもるようになってからのことだった。
―――なんで気付けなかった
―――予兆なんて、いくらでもあったはずだ
―――なんのために毎日一緒に学校に行っていたんだ
―――ひまりは僕が守るって、思ってたくせに
僕は自分を責めることしかできなくて、ひまりの両親の言葉も、耳に入ってくることはなかった。
だからあんなことをしたのだろう。今考えても、随分思い切ったことをしたと思う。後悔は、してないけど。
ひまりが引きこもってから1ヶ月。夏休みが開けたちょうどその日。
僕はひまりをいじめていたやつらに報復した。精神的なものではなく、肉体的に。徹底的に。
ひまりをいじめていた連中のなかに、男子が含まれていたというのも大きな理由だった。
僕の中では男は女の子を守るべきという考えが、知らず知らずのうちに刷り込まれていたのだ。
やはりこれも、ひまりの影響が大きかった。
僕の中で異性に関する大部分の感情は、ひまりのことで占められていた。
どうしても許すことのできなかった僕は、こっそり野球部から持ち出した金属バットを片手に、やつらの背後から踊りかかった。
自慢ではないが、僕は体格と体力には多少の自信があったのだ。あとはまぁ、火事場の馬鹿力というやつだろう。
やつらのうち2人は病人送り、数人は骨折という大立ち回りを演じてみせた。
時代劇なら報復を果たしてこれにて御免、なんて展開もあったかもしれないけど、残念ながら現実はそう都合よくはいかない。
相手の親には訴えられ、学校や周囲からの評価も地に落ちた。
僕としてはまるで納得がいかなかったが、相手には多額の賠償金を払うことで手を打ったらしい。
親にも殴られ、学校では腫れもの扱い。
僕の居場所は、もうどこにもなかった。
でも、僕はそれでも良かった。
少なくとも、ひまりのことは守れたと思ったのだ。
これでもう大丈夫だと。ひまりの帰る場所は守れたと、その時の僕は思っていた。
そのことを伝えにいったときのひまりの言葉を、今でもよく覚えている。
―――なんでそんなことをしたの?
―――私は真也くんにそんなことしてほしくなかった
―――私が告げ口したら、真也くんもいじめるって言われたから、私ずっと我慢してきたのに
そう言って、彼女は崩れるように泣き落ちた。
小学生の時のように、小さく蹲って、小さな声ですすり泣いて。
守りたいと思っていた子に、いつの間にか僕は守られていた。
それからのことはよく覚えていない。
ひまりはたまに学校にくるようにはなったけど、僕と話すことはなくなっていた。
学校にも一緒に行っていない。周囲からの畏怖の視線から隠れるように、僕は日々を送っていた。
だけどそんな日々は長くは続かなかった。
僕より先に、両親のほうが根をあげたのだ。世間体を重んじる彼らには、未だに向けられる近所からの悪意の篭った視線に耐えられなくなったらしい。
疲れた顔をした両親から、僕を東北の祖父母の家に預けると言われた。
そのために、冬休みに入ったら転校することになるとも。
その言葉に僕は、小さく頷くしかなかった。
転校を告げた時のクラスメイトの顔は、明らかに安堵した表情を浮かべていた。
当然だろう。僕だって暴力沙汰を起こした生徒と、いつまでも同じ教室になどいたくない。
事件と無関係なクラスメイトや最後まで仲良くしてくれた友人に向かって、僕は精一杯の謝罪の気持ちを込めて、深々と頭を下げる。
その教室の中に、ひまりの姿はなかった。
それがことの顛末だ。
守りたかった子を守れなくて、でも守られてて。
勝手に報復して喜ばれると思っていた、馬鹿な僕がいたというだけの話。
一応最後にいじめていた生徒に釘を刺し、友人にひまりのことは頼んできたが、それもどう転ぶか分からない。
ひまりは、多分僕がいなくなることを知らないだろう。
伝える勇気が僕にはなかった。
もう守ることができない、なんてことを口にする資格なんてないことは理解できていた。
不意にブレーキがかかる感触が、座席から伝わってきた。
どうやら終点に着いたらしい。僕は外していたマフラーを巻き直す。
去年ひまりからもらった、最後になるであろうクリスマスプレゼントだった。
彼女と色違いの、黒のマフラーを巻き直し、他の乗客に紛れて電車を降りた。
周りの人みたいに笑顔でいることは、できなかったけれど。
降り立った駅の構内は、多くの人で賑わっている。
子供連れの家族やカップルが行き交い、繁華街のある北口方面へと歩いていく。
家族と恋人。どちらも僕が壊したものだ。まぁひまりとは、恋人なんかじゃなかったのだけど。
僕は切符を片手に新幹線乗り場へと足を向ける。楽しそうな人たちを見るのが、今は辛かった。
BGMとして響いているクリスマスソングが、このままだとトラウマになりそうだ。
そのまま歩き出そうとして―――
「真也くん!」
一人の少女の声で、立ち止まった。
「ひまり…?」
ここにいるはずのない、女の子の声だった。ずっと昔から変わらない声。
あるいは両親よりも聞いてきた、とても綺麗な、僕の好きだった声。
新堂ひまりの声だった。
「なんで、ここに…」
「真也くんが、いなくなるって、聞いたから」
ひまりは息を切らしていた。急いで走ってきたのだろう。体力のない彼女にはキツかったはずだ。
僕は慌ててひまりに駆け寄った。肩で息をしていた彼女が顔を上げる。
その首には僕とお揃いの、白いマフラーが巻いてあった。
「だからって、こんな焦らなくても…」
「だって真也くん、スマホ持ってないし。遠くにいくなら、もう会えないかもって思って…」
ひまりは泣いていた。いじめられていた時も泣かなかったという彼女が、あの日僕を怒った時のように、また泣いていた。
僕が二度もひまりを泣かせたのだ。いたたまれなさから目をそらそうとする僕の顔を、ひまりが強引に掴んで自分のほうへと向き直した。正直、痛い。首がぐきって鳴った。
「おい、ひまり」
「これ、私の電話番号とアドレス!あとアプリのアドレスとネームね!」
そう言って強引に僕にメモ用紙を握らせた。
おかしい、ひまりもスマホはまだ買ってもらってなかったはずなんだが
「いつの間にスマホ買ってたんだよ」
「今年のクリスマスプレゼントに買ってもらったの!真也くん遠くに行っちゃうってお母さんに教えてもらったから、頑張ってねだったんだよ。これから学校にもちゃんと行くって約束したし」
「そう、なんだ」
ひまりは前を向くことにしたらしい。僕がきっかけだということが本当なら、嬉しいことなんだけど。
「良かったな。ひまりもこれから頑張って…」
「だから、さ」
ひまりが僕の言葉を遮った。顔が赤い。なんなんだろう。
それから少しだけ沈黙し、覚悟を決めたように口を開いた。
「真也くんもスマホを買ったら、私に教えてくれないかな…進学先、とかも」
「え…?」
「会いに行くよ。今度はあんなことしないように、私がちゃんとそばにいる。私、もう負けないから」
そう言って、ひまりは笑った。
僕が好きだった、どこか儚い、守りたくなるような笑顔で、笑ってくれた。
「でも、僕は…」
「やり方は、強引すぎたけどさ。私も申し訳なくて、話すこともできなかったけど勇気出すよ。真也くんがいない間は、私一人で頑張るから」
胸をドンと叩くひまり。
本当に大丈夫なのだろうか。彼女の姿を間近にみると、今更ながらに心配な気持ちが湧き上がってくる。
「大丈夫?ひまり一人で、本当に…」
「心配性だなぁ」
ひまりは苦笑し、その後なにか考えているようだった。
目が少し泳いでいる。ようやくなにか思いついたのか、口を開いた。
「じゃあさ、勇気の出るプレゼントちょうだい」
「プレゼント?」
「そう、真也くんとっておきのクリスマスプレゼント!」
僕は思わず訝しむ。一人で旅立つ予定だったのだ。
そんなものは手元にない。
「ひまり、悪いけど今はプレゼントなんて」
「あるよ、ちょっと屈んでくれる?」
さっきと同じように、強引に僕の顔を掴んで、強引に自分の顔へと近づけてきた。
もう目と目が合うほどの距離だ。冬だというのに、顔が熱くなっていくのを感じる。
「いや、ほんとになにを」
「プレゼント、交換しよう」
目を瞑り顔を近づけてくるひよりに思わず目を閉じた僕の唇に、柔らかいものが触れるのを感じる。
これは、まさか―――
「ちょっと早いけど、メリークリスマスだよ。真也くん」
いたずらっぽく、だけど恥ずかしそうに、彼女は笑った。
僕の乗り込んだ新幹線が発車する。
アナウンスが流れ、ゆっくりと前へと進んでいった。
いくつかの駅を過ぎ、多くのトンネルを潜れば、僕は雪国に着く。
既に向こうは大雪が降っていることは、ニュースと天気予報で確認済みだ。
きっとこちらとは比べようがないほど、空は雲で覆われているだろう。
だけど、それでもひまりのいるこの空と繋がっていればいいなと、僕は思った
短編3作目です
いろいろ書きたいのでとりあえず思い浮かんだものから書いていきます