ひらひら、ひらと蝶は舞う
『植田 なお』に告白されたのは半年前、仕事を教えたのがきっかけだった。
コケティッシュな容貌、小柄な体躯に似合わぬオンナを感じさせるプロポーション、この『商品開発部』のアイドル的な存在の彼女。
狙ってる男子社員も多い、そんな彼女に室長の俺は、好きだと言われたのだ。しかし、妻も子供もある俺は、今の仕事も立場も家庭も、棄てる気はない。
なので、紳士的かつオンナのプライドとやらを、刺激しないようにお断りをしたのだが、残念な事に、彼女は著しく、心に傷をつけられたらしく、それ以来……
毒を含む視線を、俺に対して日々送り続けている。それは触ると赤く爛れ、熱を持ち、ヒリヒリと痛み、痒みが収まらない『漆』の樹液の様に、心に染み付き、俺の神経を痛みつける。
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きゅっ、きゅっ、お掃除のおばちゃんが、隣の『商品販売企画室』との境目の強化ガラスで出来た仕切り壁を今日も、クリアになるように拭いている。
開放的オフィスとかでそうなったのだが、実際は『整理整頓』を自らさせるため、特に資料、サンプル等で雑多になりがちな、開発部を律するためだ。
効果は……室内を見渡した。まぁそこそこあるのではないか?な位だ。しかし、以前の混沌に満ちた物に比べれば、天と地の差がある。
机と机の前後、通路が真っ直ぐに歩けるから……
……おはようございますー、と肩に乳酸飲料を入れたバッグをかけ、涼やかに入って来たのは、レディさんと呼んでいる、社内販売のお姉さん。
おはようと声をかけたのは、主任の『小田 あさ美』お局様と呼ばれている、独自貴族の彼女。最近、なおとよく話をしている間柄だ。というよりは、御執心か?
……俺は日々、なおから送られる『それ』にさらされているうちに、視線の持つ力を把握出来る様になった。
目は口ほどにモノを言う、誠にその通り。一人ひとり放つモノが違う。喜怒哀楽、怨、恨、謝、執……それぞれが混じり力を持っている。
そしてこのゲーム風に、スキルか……全体を見渡す今の立場には、あっていい物だ。視線一つで人物相関がわかるから……
「失礼します。資料を『榊原くん』から預かって来ました」
レディさんが、俺の元に来た時のタイミングで、販売企画所属の契約社員『山田 たか子』が、ねっとりとした、独特の話し方で書類を俺に手渡す。
「あ!山田さんのは机に置いてますから、室長さんは、何時もの、ですよね」
人当たりの良い彼女が、たか子に先制攻撃?をしている。まぁ無理もない、噂話によると、たか子は、レディさんに『迫った』らしいから……
まぁ、性癖は自由だ、仕事さえしてくれればいいのだ。現在『渡辺 大誠』君が、インフルエンザで出社停止となっている。困った状況になったいるのだ。
渡辺君、インフルエンザなのだが、その発病前夜に、なおから『フラれた』との情報を俺は握っている。全く何をしてくれている?
今一番、春の新製品に向けて忙しい時に……恋愛は反対はしない、仕事に支障を来さねばそれでいいのだが、
若い二人は、何をしでかしてくれたのやら、お陰で渡辺のフォローは俺になる。
「うーん、固いね、榊原君にはメールを入れるから、これは植田君に渡しておいて、今日から彼女が、そっちと一緒に仕事をするように、しているから」
俺はそれに目を遠し、ファイルに再びしまうとたか子に手渡した。はい!失礼します、とそそくさなおの元へむかう。
「いやぁねぇ、なおちゃんが次のターゲットだわ」
レディさんが、俺の何時もの品を手渡してくる。あっ、やっぱり?そうだったんだ、と言うと、
お局様のあさ美を、意味ありげに見てから、そうですよ、と言うと笑顔でご苦労様ですねー、と声を残して帰って行った。
……ふ、ん、ご苦労様……俺は、なおとあさ美、たか子の三竦みをじっと見てみた。
なおを見るあさ美は、とろける生キャラメルみたいに、一度味わったら、私のコトを忘れられないわよ、なおちゃん、てなとろりとした視線で絡んでいる。
なおを見るたか子、何かあったら駆け込んでね、優しく私が慰めて、そしてアナタを一番に想うのは、ワ、タ、シ……てな、蜘蛛の巣の様に捉えたら離さない、と絡んでいる。
それに対してなおは、ノンケなので彼女達の思惑など、気にもせずに対応していた。
はぁぁ、飛び交う桃色ねっとり視線……春企画が……きゅっ、おばちゃんがマスクを着け、目だけ笑って窓を拭いている。
*****
「はいー?そんな事するの、この忙しいのに……」
相も変わらず、桃色ねっとり視線の網が張り巡らされる、商品開発部に俺の声が響く。
「ええ、営業との合同で飲み会です、室長、参加されます?」
あさ美がそう聞いてきた午後、渡辺の仕事を抱えている俺の答えはノー!と伝えると
「そうですか、私は心配なので参加しますね」
と答えると、あさ美は透き通ったガラス越しに射る様な視線を飛ばす、殺したろか、たか子!の意を感じた……ヤメロ、恥ずかしい。
「んあー!俺コンビニ迄行ってくるわ、何か欲しいものある?」
どうにかならんか、と思っていると、どうにもならん奴『高木 雄也』が、背伸びをしながら皆にリクエストを取っている。
コヤツ、頭はいい、そして突き詰める、その性格も開発部には、いいのだがそれが、今現在、仕事に向いていないのが玉にキズ、もっぱら御執心はもちろん なお。
しかし、今彼女は噂によると営業の『榊原 一樹』に想いを寄せてるとか何とか……切り替えの早いのは、彼女らしい。お陰で此方に向ける毒も、薄くなってきてよろしいのだが……
この榊原、仕事オンリー真面目な奴だ。少々臆病なところが、見え隠れしているが、仕事については若手一番、将来有望株。
おそらく恋もしたこと無いのだろう、キャッチも文章も固いの何の、教科書読んでる気になる。まぁ、それはそのうちどうにかなるかとして……
室長いります?の声に、俺はいいよと答えると、なおが隣から戻ってきた。それを目にすると、近づく高木。
「ね、なおちゃん、飲みものとか何が好き?どんなの?フレーバーは?どこのメーカーがいい?」
はぁ、出たよ、次々攻撃だよ、そこまで毎回聞かんでも、と思いながら二人を見る。
高木は、軽い口調なのだが、回転寿司のあのネタ、好きなネタの事なら、全てを調べて来ている。どんな細かい事も、俺は知ってる、なおちぁぁぁん、てな細かく救いとる様に彼女に、重く視線を送っている。
対して彼女は、やはり榊原との事があるのか、フツーの男子社員の扱いだ。そして彼女は、その次々攻撃に、次々答えている!
おいおい、お前のプライベートはないのか?無くしているのか?全て、イチイチ答えんでもいいだろう!
仕事しろー仕事ー!桃色禁止令を出そうかー!
*****
はぁぁ。俺はとことん、ヒトを見る目がない、何故に、なおを指名したのだろう、俺の目の前から少々消えて欲しかったと、邪心があったのが、いけなかったのだろう……
目の前の、複雑怪奇なグループを眺める……なおを中心とした、あさ美、たか子、高木……
なおを見る、生キャラメルに、蜘蛛の巣、細かい事まで、情報を手にいれ、自身に運び込む忍び込む蟻……
ちなみに付き合う事になった榊原は、おばちゃんが、透明度マックスにしている向こう側から、なおの方を伺い、窺い何も手につかない様子……
こいつ、こいつ、真面目な分だけあり、視線が痛い……濡れた様な、触手の様な……
榊原、こいつは、僕は結婚するまで手を出しません、いけない事だから、でも本当は、いけない!想像だけで、留めておきます!
なおちゃん好きです。側に、そばにずっといて、一人に僕をしないで、君の手を握っていたいんだ、てな感じか、粘着性バッチリだな。
「室長ー!復活しました!渡辺!今日から出社です!」
ため息と共に俺が、書類をがさがさやっていると、おお!待ちに待ってた、彼の復活のご挨拶がきたー!残業ともおさらば!
「渡辺君!待ってた!さあ!頑張ってくれたまえ!」
俺は素直に嬉しくて、何も考えないでそう、話していたとき、おはようございますー、とレディさんが、登場をした。
じゃ、仕事しまッスと、若い彼はデスクへと向かう、そして……おい、お前よ、何でだ?
「なお!ひっさしぶりー!」
「たいちゃん!お元気ゲンキー」
ハイタッチ?おい、お前ら別れたの……じゃ?はっ!
きゅっ、きゅっ、とおばちゃんが目だけ出して、営業側のガラスを拭いている。俺は何かを察した。おばちゃんの、意味ありげなモノを察した。
すっ、とおばちゃんが体を動かすと、鬼の視線を此方に飛ばしてくる榊原、何時の間にかたか子が戻り、何やら話した様だ、おい、たか子何を言った?
……大変、榊原くん、なおちゃんの元カレが復活してるわ、アナタより若いわよ、なおちゃん、たいちゃん!ハイタッチー!
きゅっ、きゅっ、と再びおばちゃんが視線を遮る様に、作業を始める。邪魔なのか、狼狽える榊原を感じる……
ニヤリと目が嗤うおばちゃん、そしてすっ、と再びしゃがむ、目を見開き、外聞等、気にならない様子の榊原。
な、なおちゃん、なおちゃん、どうして、昨日腕を組んで歩いた。甘えて来たのは、嘘?若い方がいいのか?やっぱり?
ヤることやっときゃ良かった……ダメダメ!そんなイヤらしい事を考えたら……う。なおちゃん……
ああ、榊原泣いてるな、視線が潤んでるよ、そしておばちゃん、遊んでるな、絶対に……
そして感じるよ、営業の他のメンバーの生ぬるい視線の波を、津波が此方に向かってるー
「まぁ、大変ですねー。企画営業と開発部って、総務課では『桃色販売ABCルーム』とか呼ばれてますよ」
はい、これ何時もの、と渡しながらとんでもない事を話してくれた。
「なんだー?そのこっぱズカイシ呼び名は!誰が考えたー!」
「えー!うふ、おばちゃんと私ー、眺めてて面白いので、つい、皆も注目の的なのですよ、じゃあ、頑張って下さいね」
失礼します、と爽やかにレディさんは帰って行った行く。
……どろどろとした蜂蜜の様な、甘いべたべたとしたモノ、越前クラゲの一度絡み付いたら、二度とその体から離れない。毒で痺れさす、きっと君の心をとらえて離さない。by榊原
きゅ、きゅっ、とおばちゃんが、ガラスをクリアにする。乾いた視線でほくそ笑み、拭いている。
……ブラインド、欲しいな、無理だろうな、ならば、おばちゃんに毎日拭かなくてもいいって、言おうかな……言いたいな、言いたいな……
オンナは花という。男はソレを次々に飛び回る、しかし、例外はないか?『なお』は、何なのだろう、
昨日榊原に、絡み付く様に甘えていた。そして煩悩を抹殺する様な視線で、前を見ていた榊原。
社内では、生キャラメルに蜘蛛の巣に蟻……彼女を取り巻く視線だ。ほかにも婬の視線をむけている者もいる。
その中を、ひらひら、ひらひら、舞っている様な、なお。視線に犯されるのは気にならないのだろうか……ならば、どうしようもない、榊原、オトコになれ、仕方ない。
クリアな向こうから、震える様なモノが送られている。女々しいな!さっさとモノにしろ!と激しく思う。
お前がいけない!お前がぁ!泣くな!と強く想う。
しかし、俺はその気持ちを、気づかれないように、目を閉じた。そして、
ため息と共に、飲み物にストローをさす、じゅーと飲んで行く、じゅる、じゅる飲んで、飲んで、
ちゅっと、最後を飲み干し、くちゃっとパックを潰して、ゴミ箱に捨てた。
『完』




