一気に飛ばす第3話
3歳頃からであろうか、部屋でゴロゴロとしているだけの生活に飽き、積極的に運動するようになったのは。狭いというほどではない部屋を走り回り、様々なおもちゃを考え付く限りの遊び方で使い倒し、書いてある文字をそっくりそのまますべて書き写せるほど絵本を読み込み。
しかしそれほどアクティブに動くようになってもその施設から移されることは無かった。ケガとも病気とも無縁の生活は楽ではあったものの、楽しくはなかった。それゆえに騒がしくしていればあるいはとも思ったが、どうやら一度入れられたら小学生までそのままらしい。
幸いだったのは、ある程度は望んだものが手に入る環境だったことか。危険物や生き物でも無ければ大概は欲しいものを言えば手に入るという事に気が付かなければこの年で無気力症でも発症していたかもしれない。周囲の子供はそんな感じが強い気がするが。
といっても気が付いたところで解決策があるわけでもなければ責任があるわけでもないと開き直ってひたすら好き放題を始めていた私であるが、それに感化されたのか活発になる幼児も多かったので結果的には問題ないだろう。
聞き覚えのある曲を奏で、新しく覚えた歌を歌い、思うがままに絵を描き、気の向くままに運動し、よく笑い、時には失敗ややりすぎたかと戦々恐々としたものの、ある種充実した幼少期であったと胸を張って言える程度には活発に動いた。
仲良くなった子供にはどちらかと言えば対等な関係ではなく尊敬に似た感情を抱かれていたように思うが、ある時にその感情がどことなく親に向ける感情に似ていることに気が付いた。考えてみれば母を見たことはあれど父は見たことも無く。
なるほど、もしかすればこの施設は母親だけしかいない子供たちが集められているのかと納得し、内面的には別段忌避するほどでもないので愛情というほど大したものではないかもしれないが代わりになればとその尊敬を受け入れる。
まあそれまでは無気力じみたおとなしさの騒ぎに参加しなかった子供も膝枕の上で私をパパと呼んだのには若干戦慄を覚えたが、まあそれまで子供らしくないおとなしさだった子供たちがにぎやかになっていく光景は中々どうしてうれしさすら感じるものであった。
そうしておよそ3年後、お別れの際にありえない程ガン泣きされつつも私は小学校へと足を踏み入れることになる。それまでの勘違いや無知の代償を受け取りに。