ありきたりな第1話
自分自身の死の瞬間について正確に知覚しうる存在は居るのだろうか。あるいは目覚めない眠り。あるいは最期に訪れる安らぎ。様々な表現こそあれおよそ共通する物は何も感じなくなるというものだろう。無論そうでない考え方もあるだろうが。
私の場合はそう、何とも言い難い浮遊感だった。ふわりと何かから離れたんだなと、それだけを感じた。つまるところ、私は死んだはずなのである。
死後の世界というものや輪廻転生などというものも信仰していなかった私にとって死とは停止であり無への回帰でしかなく、故に自己の意識が存続し得るとは考えてもいなかった。だからこそ当時はまだ自分が生きているものだと考えていた。
正確に自己が置かれた現状を認識したのは、それから約半年も後の事である。後から知ったのが半年という事で、実際に半年であると知覚していたわけではないものの概ねそれほどの時間が流れていた。
満足に動かせない体、快不快の二択程度まで狭められた思考、その他数え切れないほどの不便の先に待っていたのは、植物状態に近い成人男性がベッドで寝たきりになっている光景……では無かった。死とは真逆、生を受けたばかりの赤子である。
真っ白な無菌室じみた広い一室で少しでも泣けば直ぐにその原因を除かれる生活は、恐らく意識を保っていれば壮大な羞恥のあまり死すら考える物だったかもしれないが、以降の生活はかろうじて致命傷で済んだ。
意識というものがどのように形成されているかは分からないが、仮に前世とする私の一生は何も思い出せないわけでも何もかもを思い出せるわけでもない、普通の状態であった。はたしてそういった知識の専門家ではない以上どうと言えることも無いのだが。
その上でかろうじていえる事は、どうやら私は転生なるものをしたのだろうという事である。