死神は3度会釈し、視力が悪い
血の表現が少しだけ出てきます。苦手な方は閲覧をお控えください。
「……。君は……?」
何と声をかけていいかわからず、言い淀んだ。
「初めてお会いします。ドミトリー・サフロノフ氏」
その黒髪の青年は、無表情のまま静かに口を開いた。一言ずつ区切るように、穏やかな声で。
「僕は貴方を殺す為に来ました」
流暢なロシア語だった。
私は、部屋の電気をつけるスイッチに触れようとした手を止めた。
帰宅した自室に見知らぬ人間がいたことに驚いたわけでも、彼の言葉の内容に驚いたからでもない。薄暗い部屋の中、影に溶け込むように無言で佇む姿が奇妙に整合性を持っていて、電灯の照明で照らすことが不思議と憚られたのだった。
「許しも無く部屋へ入った無礼は謝ります。……申し訳ありません」
青年はぺこりと、頭を下げた。
肌の白い、東洋の顔立ち。緩くウェーブのかかった黒の癖っ毛に、古い時代の学生がするような、重たげな黒縁の眼鏡。奥の瞳も漆黒で、しかし幼さの残る顔をしている。
おそらく成人を迎えて間もない、若い男だ。濃紺のコートに身を包んだシルエットはひどく細い。頼りない少年のような雰囲気と、老成した賢人のような雰囲気が混在していた。
私は被っていた帽子を脱いだ。載っていた雪が、ぱさりと玄関の床に落ちる。
「……何と、言った?」
無言の青年に聞いた。
「はい。貴方を殺しに来た、と」
淡々と、彼は答える。その表情には喜びも苦しみもなく、ただ私に向けた静かな敬意が感じられた。
じわりと、胸の内に彼の言葉が沁みこんできた。温かいような、冷たいような、醸留酒が喉を流れていく感覚に似ている。微かな痛みと熱が、胸にじんと広がった。
「そうか」
私は戸惑ってはいなかった。心は不思議と落ち着いていた。黙ってコートを脱ぐ。肩に積もった雪が室温で溶け、水となってコートを濡らしている。軽く振って水滴を落とし、近くのホックへと掛けた。
青年は静かな表情でそれを見ている。
ついに、と私は思った。ついに来たのだ、と。
私の行っていた仕事について、友人からは身を隠せと再三忠告を受けていたのだ。それでも言われた通りにしなかったのは、ある種の意地と、仕えていた人間への忠誠心だ。正しい事をしているのだという誇りが、私を支えていた。
刺客が差し向けられるという悪夢を見続けた時もあった。毎朝部屋から出る時には、もう戻ってこないかもしれないという気持ちが心を掠めた。仕事を続けることが出来たのは、社会を正しい方向へ導きたいという志があったからだ。
この借家の部屋の家主がいなくなった時、整理がつくようにと、常に必要最低限の家具と食材しか自宅においておかなかったのは正解かもしれない。ああ、しかし私がこの場所で死ぬということは、この部屋が空き家になっても、まともに借り手が付かないだろう。結局は骨折り損だったということか。
死神、という言葉が不意に頭をよぎる。怖れていた死神が今、来たのだ。
しかし、私の心にあるのは絶望でも恐怖でも無かった。これから間もなく死ぬのだという事だけが、ただ純然な事実として在るだけだ。
深々と降る雪が、窓の外を白く染めている。部屋の中が薄暗いせいで、外の方が明るく感じられる。
「君は、誰なんだ?」
私の問いに、青年は目を伏せた。
「申し訳ありません。答えかねます」
それはそうかと、聞いて気付く。殺し屋が標的に身分を明かすことはあるまい。
「突然のことで大変驚かれたかと思いますが、どうかご容赦ください。……僕達も、最善に向けて努力いたしますので」
逃げることは出来ない、と暗に示されているような、皮肉な言葉に聞こえた。いや、実際に逃げることは叶わないのかもしれない。
私自身、仕事上必要に駆られて、この手の人間たちに仕事を依頼をした経験がある――もっともあの頃は自分が逆の立場になるものとは想像だにしていなかったが。
彼らは仕事を行う際には、2重3重に予防策を張り巡らせているものなのだ。この状況は、周到に計算され、準備されているものなのではないか。
「僕達」と青年は言った。今、私がこの青年から逃れることが出来、部屋を出たとして、それで外に出た時、私は無事でいられるのだろうか。
そんなことを考えながらも、しかしそれ以前に、そもそも私自身が逃げる気を無くしてしまっていることに気づいた。
体の奥から力が抜けていくような感覚で、自らの運命に反目する気が起こらない。目の前の青年が纏う穏やかな空気がそうさせているのだろうか。
それとももう、この果ての見えない仕事に疲れて、こうなることを望んでいたのか。
唐突に、遠く離れた地に暮らしている家族のことを思い出した。一人息子は今年で19になっている筈だ。最後に一目、育った姿を見ておきたかった。何故だろう。いままで仕事の為なら家族に会えないのも仕方が無いと考えてきたというのに。
「……寒いだろう」
自然と、声をかけてしまった。顔も思い出せない息子の存在が、目の前の青年と被ってしまったのかもしれない。
「温かいお茶でもどうだね」
自分でも、馬鹿らしいことを口走ってしまった、と思った。自分を殺しに来た男に茶を供す者などいるだろうか。しかし青年は丁寧に答えた。
「ありがとうございます。ですが、時間がありませんので、ご好意のみ頂戴します」
申し訳なさそうにしている様子は、本心から言っているように感じられた。
「そうか……」
若く美しい死神だな、と私は思った。私の命を絶つ者が彼以外の人間でなくて良かったと、穏やかに考えている自分が不思議だった。
「……それで、私はどうすればいいんだ?」
「こちらにおかけください」
青年は中央にあるテーブルの椅子を指した。
私は無言で腰かける。後ろに青年が立つ気配がした。
「言い残す事はないか、とか、聞かないのかね」
「申し訳ありません。僕はそういったことを伺うほどの者ではありません」
「冷たいな」
苦笑すると、青年はまた謝罪の言葉を述べた。私はなんだか申し訳ない気持ちになる。
「すまないね。無理を言った」
「いいえ」
窓の外の雪を見やった。白い点が後から後から延々と落ちて、それ以外全く変化の見られない外の景色は、まるで時間が止まってしまっているように思える。静謐で、いつまでも見ていたい気持ちになってくる。私は少しだけ振り返った。
「無理ついでだ。君の名前を聞いてもいいかな」
「名前は……ありません」
無表情でそう言う青年に、なおも尋ねる。
「そんなことは無いだろう」
彼は少し躊躇ったが、口を開いた。
「トオル、と申します。トオル・サワヒラ」
「トオル……日本人か」
「はい」
「そうか。ではトオル、何をするか、見せないでくれよ」
「わかりました」
椅子の背もたれに体重を預け、ふう、と一つ溜息をつく。
青年が何かを取り出す気配がした。
「目を閉じてください」
後ろから声が降ってきた。言う通りに瞳を閉じる。
直前に見ていた窓の明るさが、閉じた瞼の裏に残っていた。
首筋に手袋を嵌めた指がそっと触れる。
手のひらの温度は感じられなかった。
*
「……」
青年は黙って、男の首筋にまっすぐ突き立てられた刃を抜いた。
肉を抉る嫌な音がして、赤く染まった細長いナイフが取り出される。
椅子に腰かけた男は、首を前に垂れて何も言わずこと切れていた。うなじの傷口からは濁った血が一筋、絵の具のように背に流れており、両手はだらりと椅子の脇に垂れている。
彼は血まみれのナイフを白い布でぬぐい、懐にしまった。
死んだ男の背後に、ぺこり、とまた頭を下げる。
だしぬけに、来客を告げるベルが鳴り響いた。
青年は驚きもせずに玄関へと向かい、ドアを開けた。冷たい風と共に雪がちらちらと舞い込んでくる。
「やあ。お疲れ様」
一人の女性が、白い息を吐きながら手を軽く挙げた。青年よりも背が高い、西欧の顔立ちをした金髪の女性だ。黒いロングコートに黒いブーツと、全身黒づくめだった。
「……」
青年は黙って体をドアに寄せ、室内へと入るよう促す。
ああ寒い、とぼやきながら、女性はその横を通って遠慮なく玄関を抜けた。
部屋にある男の遺体をじろじろと見て、おもむろにその首筋に手をやる。その後、小さな黒い筒のようなものをポケットから取り出し、俯いた男の顔を覗き込んだ。
慣れた手つきで閉じた瞳をこじ開け、黒い筒を双眼鏡のように構えて、瞳孔を確認。やがて「うん、OK」と言って青年の方に笑顔で向き直った。
「不備なし。相変わらず優秀ね。でも」
唐突に眉をひそめる。
「不用心だわ。悪いけど、本部に確認させてもらったよ。……本名を言うなんて」
「……別に。平気でしょう」
合わせていた目をそらし、青年はぼそぼそと呟く。先ほどまでの冷静で穏やかな様子とはうってかわって、それはいじけたような、子供じみた仕草だった。
「今まで教えてくれなかったね。私が聞いていたのを知ってるくせに。私が知ってしまってもいいんだ?」
言い寄る女性に、青年は少し嫌そうに一歩後ずさり、しかし声色を変えずに言い返す。
「知りたくなかったの?姉さん」
「……可愛くない弟ね」
小さく肩を竦め、女性は呟いた。そして椅子の死体を指さす。
「どうして喋ったの?もしかしてこの人、あなたの本当のお父さんに似ていたのかな?」
「違うよ。あの人とは、全然似ていない」
「じゃあ、どうして?」
「……」
青年は眼鏡の位置を直した。
「死ぬ人間なら、僕を覚えておいてくれるかなと思って」
「……なに?それ」
訳が分からない、と言った口調の女性を背後に、青年は玄関へと歩き出す。
「ねえ、帰るの?久しぶりに会ったのに」
後ろから声が飛んできた。振り返り、向き直る。
「後処理、よろしくお願いします」
「……わかった」
女性がため息と共に答えると、彼は頭を下げ、外へと出た。
一歩外へ踏み出すと、雪を踏みしめる感触を靴越しに感じた。白く明るい景色に、思わず目を細める。
地面に薄く積もった雪に、幾人かの足跡が道路から玄関を繋いでいる。しかし降り続ける雪が、やがていくらも経たないうちにそれらを消し去ってしまうことは明らかだった。
ふう、と吐く息が白く見える。
青年は手袋を取り払い、上を見上げて手のひらを空へ向けた。
ひとひらの雪がそこに舞い降り、体温でたちまち溶けて、水となった。
終