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すれ違い姉弟  作者: 辻一成
第一章 それぞれの初日
6/9

第4話

  僕は愕然として立ち止まった。別に不幸があった訳では無い。安心して欲しい。単刀直入に言ってしまうと、昼食があった。いや、もう1度正しいニュアンスで言おう。僕の昼食が作ってあった、だ。確かに常識的に考えれば中学2年生の食事は趣味でもない限り家族ないしはそれに準ずる人に作ってもらうのが妥当だろう。だが僕の場合は、そして特に今回は事情が違った。まず、僕と姉は現在2人暮らしということになっている。もちろん両親は存命だ。2人から海のように深く、空より高い...というか少し過剰すぎる愛を受けて姉弟で育ってきた。そんな両親だが、共働きで現在は遠方で仕事をしている。何せ職業が特殊なので、世界各地を飛び回っているのだ。1.2年間家を開けることはザラだ。なので両親についての心配はいらないし、僕もそれが当然になっているので気に留めてもいない。まぁ姉がどう思っているかは分からないのだけど。とはいえある程度推測はできる。十中八九家にいて欲しいと思っているはずだ。両親がいないために愚弟と2人暮らしなのだから。まぁ僕が家を出ていけば良いのだろうが、残念ながら僕はまだ働くことができないので出ていくにも出ていけない。もちろん僕は姉のためなら喜んで家を出ていくだろうし、この命を捧げても構わない。構わないどころか光栄なことだ。では死ねばいいのかと言うとそうでもない。僕が死ぬことで少なくとも家族に迷惑がかかる。家の面子もあるので葬式を開かなければいけないし、両親も1度とはいえ、戻ってくる必要ができてしまう。そんな迷惑はかけられないので死ぬ事も出来ない。と難儀なことだ。まぁ嘆いても仕方ない。 そう、そんな両親がいない家庭のため、昼食は自分たちで用意している。基本的に当番制で、昼食は平日は給食だが、そうでないときは僕が作ることになっている。現在、つまりなぜかこの、昼食があるという異常事態に至った経緯を思い返そう。


僕は今日、昼食の当番を忘れ、のほほんと歩いて帰ってきてしまった。つまり姉をお腹を空かせて家でずっと待たせていたということになる。そんな償いようのないミスをしてしまった僕に姉は声をかけてくれたのだが、既に昼食をとっていた。そして今に至る。この状況を一言で言うと「詰み」だ。まだミスだけだったらただ僕の好感度が下がるだけだった。そこでミスの補完ができればよかったのだから。しかし、昼食作りを姉がしてしまったのは、僕のただでさえ少ない利用価値がまた一つ減ってしまったのだから。役立たず認証完了。そしてこの後何か姉に報いるにもやはり僕にできることなんてほとんどないので何も出来ない。八方塞がりだ。いや、もともと僕に与えられた道は八方もなかったけれど。

『ぐぅ』

 ...こんなときに腹の虫を鳴らすとはいい加減僕も無神経というかなんというか...まぁいい。自己否定は常にしている。今それをすべきでなかろう。仕方がない。腹が減っては戦はできぬとも言う。実際僕にとってこの問題は戦いだし、腹拵(はらごしら)えをしながらでも考えよう。一度落ち着く暇は流石にない。というかこの状況で落ち着けるほど精神が図太くない。

  さて、なにを作ろうか。そもそも何か材料があっただろうか。料理といえば、姉は何を作ったのだろうか。大して良い材料もなかっただろうし、申し訳ないな。まぁ姉に関しては何も申し訳なんて立たないのだけど。いい加減立ち上がろう。文字通り重い腰を上げて。

  ...腰が抜けた。初体験だ。できれば生涯体験したくない初体験。その上このタイミング。いや、今だからこそなのだろうけど。なるほど、ショックでも腰は抜けるものなのか。...これって自力で治る...というか放っておいて良いのだろうか。放っておいて立てるようになるなら何でも良いが、かといってあまり長い時間この状態なのは良くないな。姉が戻ってきたらまずい。またみっともない姿を見せてしまう。とりあえずこの場から動こう。何せ玄関だ。最も姉に出会う可能性が高い場所だ。とはいえどうやって動けばいいのだろう。足が使えないとなると腕か。まぁ何とかなるだろう。腕で地面を思いっきり押して体を浮かす。体育座りをしたような体勢を保ち、そのまま腕だけでリビングの方へ。相当気持ち悪い移動方法だ。誰にも見られたくないし見せたくない。...おっと、フラグではない。無事リビング到着。一旦休むか。体と心がすり減りすぎている。ついでにお腹も。しまった、自覚するとかなりお腹が空いてきた。うーん...あ、腰が少し動いたような。もう1度動かそうとしてみるとぎぎっという音とともに腰が動いた。やっぱりだ。無事治ったようだ。さて、食事にしよう。ついでに姉の食器の片付けも。

  先に片付けをしてしまおう。キッチンに向かう。広い家ではあるが何もかも規格外という訳では無い。まぁ少し変わっているのはリビングに直通はしているがダイニングという訳ではなくキッチンだけで1室として成り立っている。それ以外は特に一般の家庭と変わらず、普通に流しがあり、その正面に冷蔵庫。冷蔵庫の隣には電子レンジ炊飯器などが行儀よく並んでいる。お菓子などは流しの下の収納に入れられている。まぁ入っているだけでかなり前から中身は変わっていないのだが。何となくお菓子が気になったので目に付いた正に国民的なお菓子、ポタチを手に取る。かなり昔の記憶ではあるがコーンポタージュのまろやかな風味とサクサクとした食感のバランスが完璧に取れていて、病みつきになる一品だったはずだ。恐らく3.4年前からここにあったと思う。そろそろ廃棄しなければいけないかな。流石に不潔だし。けれど姉とこのお菓子を食べていたという思い出があり、幾度となく手に取っては捨てられずにいた。実際こうまじまじと見るのは久しぶりだ。ふとあの味はどのよう作られているのかが気になり、裏面の成分表示を見てみた。うん?おかしいな、賞味期限が再来年になっている。お菓子ってこんなに保存が効くものだったか。それに、何度も手にとっておいて僕は1度も成分表示を見ていなかったのか。っと、しまった。片付けをしに来たのだった。洗い物も僕の担当だ。いや、言ってしまうと家事は大体僕が行っている。唯一行っていないのは姉の部屋の掃除、姉の服の選択などの姉の衛生に関わる部分だ。恐らく僕にそんな重大なことは任せられないという意思の表れだろう。流しの隣の台、ここにいつも洗い物を置いているのだが、何も無かった。おかしいな。流しの中にも何も無いし。食器棚を見てみると、ほぼ朝見た状態だったが、一番左端の皿だけ少し水気が感じられた。つまり...まぁ予想はしていた。案の定、片付けも完璧だったということだ。姉はブレないな。また一つ利用価値が減った。仕方がない。ならさっさと自分の食事を作ってしまおうか。あぁ、何だかもうやる気も出ないしキャベツを丸かじりとかでもいいかな。別にキャベツでなくともレタスとか食べれるものならなんでも良いのだけど。冷蔵庫を探ると、一番最初に潰れたハバネロのようなものが目に入る。な...なにゆえ?流石にこれを丸かじりするのは気が引ける。辛いものはあまり得意ではない。中学校になると給食のカレーが少し辛くなるのだが、それでも駄目なくらい。もちろん家でカレーを食べるときは甘口一択だ。他には何があるだろう。潰れたハバネロのようなもの(本当になんだろうこれ)を取り出し、奥も探ってみると目に入るのは濃い赤ばかりで、キムチ、チャンジャ、コチュジャン、果てはデスソースまで。...完全に嫌がらせである。何の腹いせだろう。家には最近僕と姉しかいなかったので完全に姉の仕業だし、朝は普通に他のものもあったので昼食を作らなかったことに対する怒りの表れだろうか。。怒りの赤ということ。参ったな、これでは何も食べれない。我慢するか。いや、でも夕食の際どちらにせよ買い物に行かねばならないのか。それなら今行こう。できるだけ急いで。キッチンを出て、リビングを抜ける。リビングには少し大きすぎる木製の机があり、時計があるがテレビはない。両親曰く、「家族との会話で手一杯でしょう?」だそうだ。いつかそうなりたいものだ。と、その机に無造作に置いてある、まるで一流料理人が作ったような、一目見ただけで食べれば頬が落ちると分かるうな重を素通りして玄関を目指す。玄関のドアに手をかけ、空元気を出し、さぁ、行こう!と意気込んだところで僕は完全に逆再生の動きでリビングの机まで戻る。


 


これでやっと話が繋がった。いや、確かに現実に起こったことは分かったが何も話に説明は付いていない。30分でした行動が体育座りのまま手だけで動くと気持ち悪い移動とキッチンの探索って...作業の効率も悪いのだな、僕は。というか落ち着いて思い返すと、このうな重が僕のものだという確証は全く何も、一切なかった。となると、姉のものだろうか。しかしもう昼食はとったらしいし、他の可能性としては夕食が挙げられるけれどそれならばもっと保存に適した場所、つまり冷蔵庫に入れておくはずだ。では一番可能性が高いのは、もともと姉の昼食に作ったものだったが、予想以上に量が多かったために残してそのままにしてあるということだろうか。片付けようとしたときに僕が帰ってきたのでそれを察して部屋に戻ったのか。やや強引だけれど筋は通っている。うむ、まぁどうあれこれは姉のものだ。ちゃんと冷蔵庫に入れておこう。恐らくミシュランの査定員でも目を剥くような美しいうな重を絶対に形を崩さないように持ち上げ、冷蔵庫に運ぼうとしたが、その重箱の下にメモ用紙が置いてあることに気づいた。何だろう?こんなもの朝は無かったはずだが。


  《帰りがあまりにも遅いので昼食を作っておきます。食べて。》


 あぁ、姉さんはやはり書く字まで美しいな。このメモを回収して保存しておきたいけれど勝手にそんなことをしている事がバレたら殺されてしまう。まぁいいか、姉さんになら殺されても問題ないし欲望に忠実になってしまおう。そういえばまだ内容を受け止めていなかった。もう1度読み返そうか。


 《帰りがあまりにも遅いので昼食を作っておきます。食べて。》


 思い返すと今日は色々なことがあったな。まさか春休み明け初日にあそこまで自分のコミュニケーション能力のなさ、間抜けさを痛感させられるとは思わなかった。そのせいで疲れているのだろうか。絶対に有り得ない言葉が書いてある気がする。もう一度だけ読もうか。いやいや、まさかそんな、ありえないとは分かっているが。


 《帰りがあまりにも遅いので昼食を作っておきます。食べて。》

 

  ふぅ...。いい加減しつこいかもしれないけれど僕は姉に本気で嫌われている。それこそ本当に何年まともに話していないのだと言うほどに。正に目も当てられないくらい。この言い方だと語弊があるかもしれないので注釈しておくと僕はこの状況が不当だとか理不尽だとは思っていない。正しく僕に原因があるのだとしっかり理解している。自慢ではないがその状態でも僕は姉を何よりも優先して行動してきた。けれど姉はその逆、僕の優先順位は一番下だった。今更それに対して文句を言うつもりも、言う資格も、言う意味もないので何も言わないし気にもしていなかったが、ある意味でいえば僕がこの1年でしようとしている姉との関係改善はその均衡を崩すことになるのだ。ある意味で、というか言ってしまえばその姉の中のヒエラルキーを変えられれば僕の計画は成功したという証になるのだろうし、目指すべき目標となるのだけど、何でだろう。僕はまだ何一つその目標のための行動をしていない。にも関わらずその目標が達成できたと取れる文章が見えたような気がするのだ。次はじっくり見よう。そうだ、僕が読み取った文章通りのことが書いてあったとしても僕向けではないかもしれない。むしろその可能性の方がずっと高い。ならば何も気負うことなくじっくりと、じろじろと舐めるように見てしまおう。...止めよう。舐めるように見るのは。普通に見よう。自分で言っておいて気持ち悪い。


 《帰りがあまりにも遅いので昼食を作っておきます。食べて。》

 内容をやっと正しく理解して衝撃を受けそうになったが、いや、まだだ。これでは誰宛か分からない。ふぅ...。良かった、僕の計画の意味がなくなってしまうところだった。いや、「しまう」も何もそんなに喜ばしいことはこの世に二つとしてないのだけど。何はともあれなぜかほっとしてしまった。残念な筈なのに。全く、僕も少し興奮しすぎだな。そんなに世の中が甘くないことくらい分かりきっていたというのに。それはさておきこのメモは誰宛か分からないが貰っておこう。そんな誰かのことなんて知ったことではない。基本他人に迷惑をかけたくない僕ではあるが姉が絡めば話は別だ。

  もう1度息をつき、そのメモ用紙を保存のために持ちあげるときに見えてしまった。右下に小さく、意図的かは分からないけれど小さく小さく《影へ》と書いてあるのが。僕はその意味を先ほどの一文を理解するのにかかった時間が嘘だったかのように、《影へ》という文と言うには短すぎる、最早単語のようだけれど、とにかく、その意味を直ちに理解してしまった。「影」というのは自分の名前、でそれに「へ」がついているということは自分宛なのだと。つまりfor meなのだと。ここでなぜか英語に訳してしまった僕は恐らくかなり混乱していた。だって僕は英語なんて全く得意ではないのだから。とにかく衝撃を受けた。それもとても大きな。10㌧トラックにぶち当たったような、若しくはシロサイの群れに跳ね飛ばされたような。とにかくそんな荒々しい衝撃だった。もう、感動やら喜びやらそういう感情に行き着く暇もなかった。恐らくその感情まで辿り着いていたら僕の脳は確実にオーバーヒートしていただろうから、本能的に自己防衛をしたのかもしれない。それならば僕の、僕という自我はどうしようもないものだけれど愛する両親によって作られたこの身体はとても素晴らしいものなのだろう。普段の僕ならばすぐに思考がそこまで脇道に逸れただろうけれど、そのときの僕は何せ卒倒してしまったのだ。そんな微かな、そして密やかな自分らしさを出すこともなく意識が途絶えた。











  目が覚めると見慣れない天井が見えた。おっと、安心して欲しい。別に悪の秘密結社に囚われたとかそういうことは全くない。そんな非現実はない。少なくとも僕にとっての世界の中には。見慣れないというのはそのままの意味で、ただ見慣れていない、あまり見ない天井だったというだけのこと。その天井は卒倒したとき見えていて然るべきだったリビングの天井だった。本当に衝撃を受けた瞬間に意識がなくなったらしい。頭も痛むし、この分だとたんこぶができているかもしれない。まぁそんなことはどうでも良い。倒れた後だというのに思いの外冷静で、思考は普通に、いや、それ以上に働いていた。火事場の馬鹿力というやつだろうか、火事場はもう超えているか。そうだ、買い物にも行かねばならないし、あのうな重はどうなったのだろう。どうなったというより何だったんだろうという方が正しいか。なぜ姉は突然僕に昼食を作っておくなんて慈母のような行動をとってくれたのだろうか。慈母の「ような」というか正にそのものだと思う...いや、慈母では言葉が足りない。女神とかそんな陳腐な言葉で表現で表せるものでもない。とにかく僕の語彙、というよりまだ人類は姉を表すのに適切な言葉を持っていないようだ。全く、天才を正しく評価するのは凡人の務めだというのに。人間は怠惰だなぁ。じゃなかった、えっと、うな重だ。そう、うな重。どうなったも何も見なければ何も始まらない。立ち上がろうとして気がついた。おかしい。僕が卒倒したときのあの立ち位置から足が少し、ほんの少しずれている。しかしこれではおかしい。普通、人が倒れもっと盛大に体が動くはず。つまり、倒れている僕を誰かが少し動かしたということだ。流石の僕でも卒倒するときまで全く動かないことはないだろう。普通に倒れたはずだ。僕については今はどうでもいいな。そんなこより「誰か」って誰だ。いや、まぁ「誰か」だから誰かなのかは分からないけれど。姉...は有り得ない。理由は言うまでもないけれど不仲のためだ。しかしうな重の件がある。今はその誰かを考えている暇はなさそうだ...。いやいやいや、駄目だろう。もし強盗とかだったらどうするというのだ。まぁ辺鄙(へんぴ)なところなので強盗をするにしてもこのあたりに来るとことは無いだろう。しかし姉よりはずっと可能性が高い。だとしたら相当まずくないか?まだ家にいたらどうするのだ、もしかしたら今僕は強盗さんと一つ屋根の下なのではないか。こんなとき、最もとってはいけない行動は何だろう。強盗をとっ捕まえようとすることだろうか。流石に僕も馬鹿ではない。そんな目立つことはしない。兎にも角にも姉の安否確認。僕がするべきはたったそれだけ。猿でもできるお仕事だ。だが僕はそんな猿でもできる仕事に誇りを持ってあたろう。今は意気込みはどうでもいいな。さっさと姉の部屋に向かう。リビングを出て、玄関前の階段を一気に登りきる。もともとは両親のそのまた両親のそのまた両親の...くらいの時代からある古い家だ、もちろんリフォームなどもしたがやはり老朽化は顕著でギシギシと音が鳴った。いい加減これも危ないし変えようか。



さて、妙だろうか。今更ではあるが、僕が姉の危機かもしれないというのにここまで冷静なのが。何、理由は単純だ。以前も言った通り姉は文武両道の完璧超人。その「武」にはスポーツというよりは本当の武道という意味が込められている。いや、もちろんスポーツも大体何でもできるのだけど。多対一の戦闘経験もざらにある姉なのでまず強盗程度相手に遅れをとることは無い。かといって何もしないというのは僕の姉を思う...想う?気持ちが許さない。なので一応安否確認に向かっているというわけだ。決して好機だから姉との交流をしようという訳では無い。またうだうだと謎の言い訳を考えていたら姉の部屋の前に着いた。ここは年頃の女子高生らしく部屋の表札はデコレーションされ、兎さんやらにゃんにゃ.....失敬、兎や猫がついているということは残念ながら全くなく、ただこれでもかというくらい無愛想に「光」とだけ書かれた紙が貼ってある。そんな愚直なところも大好きだ。格好いい。さて、まずはノックから。トントンと古い良質の木材特有の小気味良い音が普通の家よりはだいぶ広いであろう廊下によく響く。返答はなかった。まぁいつものことだ。今回は部屋から出てもらうのが目的ではなくいるかどうかの確認をしたいだけなのでドアの下から覗くことにした。...あれ、電気がついていない?ということは部屋にいないということか。出かけたのだろうか。こういうときに不仲が不安を呼ぶ。普通であれば連絡してから出かけるのだろうが僕が嫌われてしまったせいでそういった確認もできない。どうしよう、姉を探してみるか?とはいえこの分なら無事ではあるだろう。探しても見つからずにまた昼のような失態を犯すかもしれない。ならば一応貴重品の確認をしておこうか。またギシギシと音を立てながら階段を降り、リビングにある鍵付きの棚まで向かう。棚を開けると、良かった、貴重品も何もなくなっていない。どうやら流石に杞憂だったようだ。部屋も荒れてはいないし。少し足の位置がずれていたというのも本当に瑣末なことで、たまたまだったのだろう。きっと少し激しい倒れ方をしたのだ。だからこそ頭も痛むのだろうし。うむ、落ち着いて考えればそれしかないような気がしてきた。どうやら僕は無駄に心配性でもありそうだ。それも無駄に、というだけあってほとんど空回りするような。

  貴重品も無事だったし、次は姉の行方だけれど、こんな時間にどこに出かけたのだろうか。まだ外食するにも早い時間だし(僕らは外食を一緒にするなど素晴らしい姉弟活動をすることは決してない。したいけれど。その上連絡もとらないのでたまに夕食が余ってしまう。)買い出しは僕の担当なので肩代わりするということもない。この地域内でも有名な姉だから地域の行事とか、友人から呼ばれたとか、そういうことだろうか。まぁ姉の行方を僕が案じても仕方がない。もちろんとても心配ではあるけれどこんなことでいちいち心を動かしていては節操がないと姉に嫌われてしまう要因になりかねない。だからこの心配性を一度自分らしさと一緒に押し殺し、するべきことを思い出す。


  そうだ、買い出しだ。冷蔵庫には辛いものしか入っていなかったしな。って、その前にあのうな重だ。そう、あの《影へ》というメモが添えられていたうな重。机の方を見やると、果たしてそのうな重は変わらずそこにあった。どうしようどうしようどうしよう。《影へ》とあるということは多分きっと恐らくもしかしたら僕宛てかもしれないので食べても良いのだろうか。もし早とちりだったらどうしよう。きっともう失敗も何もかも許してもらえないだろうし、かといって食べずに置いておいて本当に僕宛てのものだった場合は勘違いよりはましかもしれないけれどそれでもかなり姉を不快にさせてしまう。その不快さはもちろん食べてもらえなくて残念、ではなく折角作ってやったのに食べないとはなんて無礼な、という意味で。どちらにしてもろくな結末を迎えない。当然、姉にそれを聞くという選択肢はない。話しかけても無視されるだけだろうし、特に今日の僕ではまともな会話など夢のまた夢だ。

  ...本当に良い匂いがするんだよなぁ、このうな重。昼すぎくらいに作られた(はず)なのになぜまだこんな香りを発するのだろうか。このうな重が置いてあるこの空間だけ時が止まってしまっていたのだろうか。いや、まぁもちろん熱々ということはないのだけど。匂い、嗅覚といえば五感の中でも特に食欲を刺激するものだ。あぁ、失礼、これは僕の体感的なもので実際はどうか知らない。あしからず。まぁ、これだけこんなに良い香り...恐らくタレの香りなのだろうけれど、それに鼻腔をずっとくすぐられていると我慢が効かなくなってくる訳で。それに時刻は恐らくもう3時を回るくらいの頃で、お腹もペコペコで、つまり、なんだ、あぁ!そろそろ僕の中の天使と悪魔が葛藤を始める頃だ。もう食べちゃえ、いやダメだ、リスクを考えろ、リスクヘッジができない人間なんて姉に嫌われる要因を増やすつもりか、いやでもこんなに美味しそうなのに、落ち着け、欲に負けるな...云々。いよいよ頭がパンクしそうだ。もう天使も悪魔ももあったもんじゃない。そもそも天使も悪魔も僕の妄想の中のものなのだからどちらもお腹が空いているに決まっている。そんな状態で意見を交わしたところで何も生まれない。というか結果は食べる、という一択のようなものじゃないか。なんて無駄なことを...。まずい、そろそろ本格的にエネルギーを摂取せねばまずい。倒れる(気持ちのうえで)。さっき卒倒したばかりなのに。

  普通ならばやはり最適解は1度姉に確認をとることなのにそれができないという不甲斐なさ、やるせなさ、というよりやっぱり普通に寂しいし悲しい。そもそも僕のゴールは最低限姉との普通の姉弟関係を築くことではなかったか。ならば普通を目指すために普通のことに挑戦せねばならないのでは?...でもやっぱり今日の僕は特にダメだし、緊張するし。あれだ、好きな子の前では上手に喋れないような。いやまぁ聞いたことがあるだけで僕にはそんな経験はないのだけど。まぁ相手が敬愛しているし大好きな姉なのだから同じか。緊張の理由を探っている場合ではないな。仕方がない、聞きに行くか...。あ、しまった、今完全に自分で僕は自分が愚鈍で...いや、もう端的に言ってゴミだということを確定させてしまった。正確には僕の記憶力が。...ごめんなさい記憶力だけじゃなくて全部でした、謝るので怒らないで。まぁ茶番はいい。そう、姉は今出かけているのだった。なぜ忘れてしまっていたのか。卒倒したから記憶が飛んだのか?いや、そんなこともなさそうだし...。どうしよう、倒れていたときに何か危ない薬とか打ち込まれていたら。そんな冗談はさておき、本当に今、僕は何をすべきなのだろうか。姉に確認をとるべくこのまま犬の「待て」の状態でこの素晴らしいうな重を食べれることを期待して座っていればいいのか、このまま浅ましく自分の欲に従って食べてしまえばいいのか、はたまた問題を棚上げして夕食の買出しに行けばいいのか。さぁ選ぼう、三つに一つだ。三択問題、しかも正解があるとは限らないという鬼畜な。鬼畜というより問題、というより問題の製作者に不備があるという方が正確なのだけど。三択問題を解くときは基本消去法。一つ一つ潰していこう。今考察したことを洗い直していけば良い。

まず姉に確認をとるという選択。これは1度言われたこと(書き置きだったけれど)をもう1度聞き直すという失礼な行為。しかも返答を得られるとは限らない。だが返答を得られた場合正解、つまり食べるべきだったか否かを知れるという最もギャンブル性の高い選択肢。オッズは高いがリターンも大きい。次にこのまま食べるという選択。これは今、僕の欲を満たすものとしては最適。また、書き置き通りの行動をするという最も普通の姉弟関係に近いもの。けれど食べていけなかった場合は取り返しのつかない状況になる。では問題の棚上げはどうだろうか。一見何も進展しない、そして何も問題は起こらないように思える。だが買い出しから帰った時点で姉に会えるかも知れないし、買い出しに行かなければ行けなかったからこのうな重に気づけなかったという言い訳を使うことも出来...いや、やめよう、そんな汚い考えは。まぁその汚い考えを使わなかったとしても逃げの選択肢だ。だがやはり確実性は高い。最もリスクが少なくもある。

よし、決めた。買出しに行こう。結局今しなければいけない事だし、やはりリスクヘッジは大切だと思うのだ。まぁ本音を言えば失敗するのが怖いだけなのだが。さぁこの選択が吉と出るか凶と出るか。神のみぞ知るというやつだ。神が知っていたところで僕に知る由はない。教えてくれたっていいのにな。できないことをうだうだと言っていても仕方が無い。そうと決まればさっさと買出しに行ってしまおう。

うな重を最後の最後まで未練がましく見ながらリビングを抜け、先ほどへたりこんだ玄関までくる。靴箱の上に飾っているポトスの緑がやけにくすんで見えた気がした。と、突然チカチカと目がくらんだ。どうやら電球が切れかかっているらしい。確か電球のストックもなかったから買い換えねば。噂のLEDというものにしてみようか。なんでも10年は持つらしいし。そんなことを考えながらまた先ほどは意識もしなかったが改めて意識を向けると無駄に大きくて、重い、重い木製のドアを開ける。流石に詳しい材質は分からないが、恐らく高級なものなのだろう。まぁ良い、さっさと行くか。

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