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鎧を脱いで  作者: C・ハオリム
第1章 おはなしのはじまり
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01 水の中へ

すべてが終わり、そして新たなお話が始まる。

 「こんなに綺麗に住まわれた方は珍しいですね」

 アパートを引き払う時、不動産屋の若い男が感心したように話しかけるのに疲れがスーツを着ているような中年の男が「そうですか…」とかすれた声と曖昧な作り笑顔で応える。まだ肌寒い春先、夕方ともなれば薄暗くなっているが、何も無い部屋の仲は妙に明るく感じられる。何でも、いい年齢の男の独り暮らしはごみ屋敷と化していることが少なくないようであるらしい。

 綺麗に住んでいたわけでなく、殆ど住んでいなかっただけのことである。引越し屋も驚くぐらい家財道具も無かっただけのことである。

 不動産屋にアパートの鍵を渡し、さほど大きくないボストンバッグを肩にかけ、空き缶やちょっとしたゴミが入ったレジ袋を手に取ると、近所にあるにもかかわらず、昨夜に初めて立ち寄ったコンビニで購入したビニール傘を手にして古ぼけてきしむ様な音がするアパートの階段を降りていく。その後ろ姿を不動産屋の若い男は見送り小さくため息をついた。

 雨は昨日の朝から降り続いている。この雨のおかげで膨らみ始めた桜のつぼみが上司に怒鳴りつけられた新人のように縮み上がっているだろう。

 日のあるうちに自分が住んでいた町を歩くことは引っ越してから最近まで無かった。生活していたにも拘らず自分の住んでいる町という感覚も、立ち去ろうとしている今であっても何の感傷ももたらさなかった。一張羅のスーツが雨に濡れる心配のほうが大きいぐらいであった。


 「貴方の人生みたいな部屋ですね」

 昨夜、かつて部下だった男が手土産を持って尋ねてきた時に発した言葉を思い返す。その男は、なかなか出来るやつであり、それなりに目をかけてやったつもりであったが、パン屋の娘と所帯を持ち、現在は、彼の職場を離れパン職人になっていた。

 その男は、彼は仕事の面においては非の打ち所は無いが、それ以外においては全く何も無い、家族や趣味などの仕事に関係しない行動が存在しない人生を歩んでいる、自分はそのような道を歩きたくなかった、だから、彼がいる職場から去ったのであると憎しみと哀れみがない交ぜになった感情を押し殺しながら語った。

 その男の言を証明するかのように、仕事に関する荷物の方がアパートにあった荷物より多いぐらいであった。あくまでもこのアパートは生活をする所ではなく、公的な証明のため、住所不定とならないためだけの場所であった。彼の生活は職場にあった。通常は職場に泊り込んで仕事をしていた。休日も、盆も正月も関係なしだった。知らないうちにその生活を部下に強いていたことに気付いたのはつい最近のことである。


 雨がしょぼ降る中、近所の駅へと足を進める。歩きながら今までを振り返る。自分はどんな人生を歩いてきたのか。

 最初に在ったのは、負けたくない、取り残されたくないと言う不安であった。これは、彼が小学校に入った頃からずっと続いている不安である。負けない、取り残されない、そのためには、答えは明確だった、他人より励むこと、クラスメートが遊んでいる時にひたすら漢字の書き取りや算数のドリルと格闘し、基礎体力をつけるために走りこみや筋力トレーニングを黙々とこなすことだった。自分は他人より劣っている、他人と同じように行動していたらダメだ、強迫観念のように自分に言い聞かせ、ひたすら励んできた。この生活は最近まで変わることがなかった。

 気付けば、親しい友人も無く、妻子も無く、恋人も無く、親兄弟とも疎遠となり独りきりになっていた。しかし、寂しさを感じることは無かった。仕事が組織に対する己の働きが少しでも認められたならそれで満足であった。結果的には今までの人生の大半を組織に捧げてきたのである。

 先月のことである。彼は全てを捧げてきた組織に良いように切り捨てられた。小さな不祥事、そして芋づる式に発覚する様々な不祥事、彼の良かれと思ってした行動もその不祥事の中の一つだった。そして、全ての不祥事の関係者として祭り上げられ「君さえ、承知してくれれば全てはうまく解決するんだよ。」との上司の一言に組織のことを考えて飲み込んでしまった。彼にあまりにも苦い水を無理矢理飲ました組織は、左遷、そして依願退職と言う飴をこれまた無理やり彼のポケットにねじ込んだのである。今、向かっている先は、暫くの間飼い殺しにしてくれる左遷先に向かってである。

 あれ以来、数えることすら億劫なぐらいについたため息を傘に隠れるようにして吐き出す。自分の今までが全て否定されたような、やるせない気持ちはため息を吐き出すたびに増えていくようにも感じられた。

 普段なら気にしないような、小さくも無く、大きくも無い用水路のような河にかかる橋を渡る。その河や今渡っている橋の名前を彼は知らなかった。知る必要もなかった。近所に在りながらである。ふと河面を眺める、昨日からの雨で濁った水が勢い良く流れている、いっそここに飛び込めば、と考えしまう自分に苦笑しながら、ふと前を見るとベビーカーを押した若い母親とそのベビーカーで幸せそうに眠っている赤子に気付く、アレぐらいの娘や、孫がいても不思議ではないな、と自分の年齢を思い出してまたため息をつく。

 その親子連れとすれ違い暫くすると背後から悲鳴が沸きあがった。

 「っ!」

 反射的に振り返りそこに目にしたものは、金縛りにあったようにその場に立ち竦む先ほどの親子連れと彼女らの前進を阻むかのように立っている、まだニキビの後も生々しいような若造であった。

 「俺が独りってことがそんなに面白いのかっ!」

 激昂する若造は、己の言葉で更に感情を高ぶらしているように見えた。

 「待て」

 大音声で若造を怒鳴りつける。その言葉を引き金にしたのか若造は懐から見掛け倒しだが、確実に殺傷能力を有するコンバットナイフを取り出し、彼をにらみつけた。

 「じじいには関係ねぇだろうが」

 その言葉を言い終わらないうちに若い母親に大上段から切りかかろうとする。その若造に向けてゴミの入ったレジ袋を投げつける。うまい具合にレジ袋は若造の顔面にヒットする。しかし、所詮、空き缶とちょっとした不燃系のゴミである。相手にダメージを与えることはない。

 「糞がーっ」

 若造が大声で叫ぶ、彼に若造の注意が向く、これが狙いであった。この隙にあの親子がこの場を離脱してくれればそれに越したことは無い。その気持ちを察したのか若い母親はベビーカーから赤子を抱き上げると脱兎の如く走り去っていく。

 「逃げるなよ」

 若造が振り返って叫ぶ、その隙を狙って若造に駆け寄る、その間に手にした傘を閉じて、ライフルを構えるように、銃剣突撃するかのように突っ込み、ナイフを持った腕の肩口に傘の石突を叩き込む。

 「なにを…」若造が言葉を言い終える前に今度は傘の柄で顔面に突きを入れる。若造はその場にナイフを落とし、鼻からは景気良く血を噴出しながら怒りと恨みが篭った目で睨みつけてくる。

 「誰にも相手にされないのは、手前のせいだ、他人にやつあたりするんじゃない」

 怒気を込めて若造に怒鳴りつける。若造は後ろに飛び下がると身を翻して走り出した。若い母親の姿はもうそこには無く、彼は何とかあの母子を護れたかなと逃げる若造の後姿を眼で追っていた。


 「糞が、あのじじいが、殺す」

 雨が降る中、血が滲み激痛が走る肩と垂れ流しにしている鼻血を手で拭うと、狩場に赴くための足とした軽のワゴンに飛び乗り、エンジンをかける、ウィンドウ越しにさっきのじじいがこっちを見つめているのを確認する。「ふざけんなー」の言葉と同時にアクセルを思いっきり踏み込んだ。


 若造が、黒い軽自動車に飛び乗りエンジンをかけてこちらに突っ込んでくるのが見えた。ぶつける気か、相手の行動が信じられず、回避しようとしたが、年齢とあまりにも突然な行動に動きが後れてしまった。このままでは、欄干とクルマにはさまれてしまう、彼はとっさに傘を投槍のようにクルマのフロントガラスめがけて投げつけた。フロントガラスはくもの巣のようにひびが入るがクルマは止まらない。欄干との間に挟まれることを回避するため彼はクルマに飛びつくようにジャンプしたが、その身体は春まだ遠い雨が諸簿降る夕方の河面に向けて落下していった。

 全身を襲う冷たさと身体を押し流す濁流に抗って、呼吸しようと水面に顔を出した。そこに見えたのは、勢いがついて欄干を突破して落ちてくるクルマとクモの巣越しに見えた若造の笑顔だった。

 

不定期、気が向けば連載です。

初の長編となります。ご意見などありましたらよろしくお願いします。

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