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椎名ひとみ先生、といえば、この学校の数学科、いや日本の数学界において知らない人などいないはずだ。
彼女は日本の数学史に残る偉大な数学者の孫であり、本人はその祖父の才能を十二分に受け継ぎ、日本の数学界で頭角を現す数学者として、29歳という若さながら既に有名になっていたのだから。
俺はゼミ選択の際、迷うことなくひとみ先生が指導をするゼミを選んだ。
彼女の指導は丁寧且つわかりやすい。普段はあまり喋ることもないが、個別に質問に訪ねてみれば、いやな顔せず丁寧に噛み砕いて答えてくれる。
そんなひとみ先生のゼミで、俺は高度な分野を学んでみたくなったのである。
「…では、お疲れさまでした。提出日までにレポート課題を必ず出してください。添削して返した上で次回は課題を解説していきます」
とはいえ、俺はゼミ2回目にして数式の詰まった黒板を前につまづいていたのだけれど。
(これじゃあレポート出せないな)
その日、焦りから、俺は古びた教授棟の一室を訪ねた。
「椎名」と書かれた表札は随分くたびれている。
聞けば、この教授棟が新設された当時からひとみ先生のお祖父様が使っていた部屋とそこにあった遺品──数学書の数々をそのまま受け継いだらしい。
3回のノックの後、「どうぞ」とひとみ先生の声が上がった。
「失礼、します。ゼミ学士3年の成田です」
入るのは始めてではない。でも、やはり緊張する。
年季の入ったもの大量の数学書が棚に押し込まれ、新しい分は床に積まれている。
数学者の典型のような、数学書の主張が激しい部屋だ。
彼女は机の上に置かれた1冊の分厚い数学書に栞を挟み、白い万年筆の蓋を閉じた。傍らのルーズリーフに書かれたブルーブラックの数式は、あまりにも難解だ。
「…お邪魔してすみません。今は、何を?」
んー、とひとみ先生はコーヒーを2つ淹れて持ってくると、「知りたい?」と不敵に微笑んだ。
彼女の微笑みは目に毒だ。ひとみ先生は「外見に気を遣う時間など無い」と言うが美人なのである。
「…はい」
聡明で名の立つひとみ先生が今何に取り組んでいるのか、純粋に興味が湧いたのだ。
「リーマン予想って、知ってる?」
あっさり口にしたが、それは…
「…ミレニアム問題のひとつ、ですよね」
ミレニアム問題、それは数学上の未解決問題の中でも特に重要かつ高度なものでもあり、証明者には懸賞金として100万ドルが与えられるものだ。
自分もリーマン予想という名前こそは聞いたことがある。素数の分布に関する予想である、くらいの知識はあるものの、概論はさっぱり理解できなかった。
それをひとみ先生は「うん」とあっさり肯定してしまう。
「わたしの祖父はリーマン予想に取り組んでいたけど、解き切らないうちに死んでしまったの」
ひとみ先生は棚の片隅を見上げる。
そこに飾られた写真の中で、ひとみ先生の祖父である椎名教授は息をしていた。