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父はドアノブを捻る。
祖父のいた、書斎だった。
そこには大量の数学書とノートが残されている。
祖父が息づく場所だった。ここで、わたしは数学をたたき込まれたのだ。
「実感が湧かないのは俺もだ」
父が言った。
「ひとみが大学生になるなんてな、早いよな……」
がこん、と音を立ててながら父は机の引き出しを開けた。
「まさか本当にあの大学の数学科に入るなんて」
そして取り出したのは、古びた30㎝四方程の黒い箱と手紙。
『ひとみへ』と書かれた筆跡は、間違いなく祖父のもので。
「なに、これ……?」
驚きや何やらで、声にならない。
「箱を開けてみなさい」
父の言葉通り、わたしは箱のふたに手をかけた。
そこには、『入学祝』とのし紙のついたペンセット、数学の教科書が入っていた。
ペンセットにはお揃いの白い万年筆とボールペン、シャープペンが収められている。
「おじいちゃんが亡くなる前、ひとみが大学生になったら渡してほしい、って、父さんに託したものだ。そうか、ひとみに、万年筆を…」
父の口調は、震えていた。
「きっとひとみは数学の道に進むだろう、と言っていたけど、本当にそうなるとはね」
「おじいちゃんには、数学の美しさを教えてもらったから」
この部屋で、祖父は本当に美しい数式を書いたのだ。
わたしも、ようやく祖父に追いつく旅のスタートラインに立てる。
そして手紙を開き、目を通す。さらさらと書かれた、ブラックの美しい字。
数式を書き込む手は、筆跡は、確かに美しかったこと、そして黒い万年筆を握り、手紙を書き続ける筆まめな祖父を思い出す。
『ひとみへ
大学入学おめでとう。どうかこのペンセットがあなたの学びたい学問に役立つことを祈っています。
実は、ひとみ、という名前は私が付けました。1、という数字はすべての数を割ることができます。省略されがちではありますが、すべての数学的事象に対応できる、ありふれた万能であり美しい数だと思っています。そんな1のような美しい人間になることを願っています。
もし難題にぶつかっても、決して諦めないで、その手を動かし続けなさい。必ずいつか、先に光は見えます。
Never Give Up!
祖父より』
「おじいちゃん…」
ぽたり、ぽたり、と手紙に雨が降り、インクがじわりと滲む。
「これは父さんからだよ」
静寂を破り、父は懐から箱を取り出す。青い箱にシンプルな白いリボンがかけられている。
「開けていい?」
「どうぞ」
わたしは机の上に青い箱を置き、リボンをほどく。
中から現れたのは、深い緋色の万年筆だった。
「被ったね」
父は苦笑した。
「大学に入るとき、父さんもおじいちゃんに万年筆をもらったんだ」
祖父はその時、「自分の学問に役立てなさい」と言ったのだという。
「万年筆をもらったとき、大人になったような気がして嬉しかったし、真剣に学問に取り組めと言うことなんだろうとも思った。
そしてひとみが生まれたとき、自分もいつかそうしたいと思った。愛する子どもに真剣に学びたい学問に向き合ってほしいって思った。
おじいちゃんに一本とられたけどね。叶えられてよかったよ。数学、がんばりなさい」
わたしは、手元の2本の万年筆を手に取った。
それは、亡くなってしまった祖父からのメッセージで、父からのメッセージでもあった。
万年筆は軽いはずなのにそれらがずしりと重く感じて、涙がこぼれかけてわたしはそっと瞳を押さえる。
在りし日の祖父のように、ブルーブラックのインクでたくさんの数式を書こうと思った。ブラックのインクでたくさんの手紙を書こうと思った。
それがきっと、祖父の背中を追うということで、父や祖父の思いを受け取るということなのだろう。
「大人になったね、ひとみ」
父はそう言って、目尻にしわを作った。
その笑みを見届けたわたしの瞳が決壊していくのを抑え切れられなかった。
「ありがとう、ありがとう…」
2本の万年筆を握り締めながら、目から滴を落とし続けるわたしを、父はきっと、優しい瞳で見守っていたはずだ。