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指宿(いぶすき)の章 MOON

< イントロ >


今日もかれこれ数十年繰り返し続けた考察をまた繰り返す。

生について考えることは死について考えることと同義であり、その逆もまた然りだ。

容赦なく不可逆で一片の妥協も許さない境界線。それが生と死。


これほどまでに論理と精神一切のが妥協なくひとつの価値基準に準じようと素直に受け入れられるファクターがどれだけ存在するだろうか。

主題にして唯一克明とまでは言わないが、老若男女・地域・国籍問わず共通かつ不整合だらけの論理を導くことができたとしたら、それは、論理という単語の定義や理屈という単語の明確さを木っ端微塵に破壊する手だてになるのかもしれない。

私はそのいくつかの要素を取り出し植え付けてみた。すると苗は独自の主張をしながらもやがてひとつの結論へと収束していった。








《因果律》


ある物事は必ず何かしら他の物事との関連性および連続性をはらんでいる、という考えに基づいた論証法のこと。

しかしながらそれは常に経験則のみに基づいて語られ、歴史上その正当性を証明した者はいない。さらに皮肉なことに、近年、近代物理学の根幹とも言える量子力学の世界において因果律が全く成立しない種々の事例が報告されている。


しかし我々人間は因果律という偏った《錯覚》を頑に信奉する。


それも本能的に。


まさにそれこそが人間を縛り付ける因果そのものである。


それがまさに、余命わずか3ヶ月となった私が求めるものだった。





< 指宿(いぶすき)の章 MOON ― >


「これで終わりじゃないからな。覚悟しておけよ」

取り調べの警官の口から漏れるありきたりでクソッタレな台詞に腹を立てる元気も今のおれにはない。ここへ連れてこられた時は、付き添いの警官をブン殴りパトカーのドアを蹴り飛ばしすぐにでも逃げ出したいくらいだった。

しかし実際、今は警察署の前で呆然としていた。とりあえず解放された。まずはその安堵感を噛み締めた。目の奥が重くぼうっとしている、あまり物事を考えられない。

「おい、あまりここにいるなよ。釈放されたならすぐ帰りなさい」

守衛から声をかけられる。

「あ、はい、すいません……」

背を曲げ、消え入るような声しか出ない、が……

今だけだぞ、散々取り調べで消耗させやがって、第一、何時間拘束されたんだ。たかが満員電車でバカ女が悲鳴を上げたくらいで。思い出すだけでムカムカする。

しかも何の根拠でおれなんだ。みんなあのアホ女の言うことをあっさり信じやがって。周囲のクソ連中も乗せられて口々に勝手なことばかり言いやがった。

「やだ、毎日見る人だよ。痴漢だなんて」

「最低だな」

「明日から乗る車両変えなきゃ」

「キモッ」

「痴漢はバレないようにやらなきゃー」

「まったく、迷惑なことしてくれるよね」

「おい、否定してみろよ、この野郎」

「犯人の写メ撮って流そうぜ」

「ちょっと女の方タイプだった」

「いっつも怪しいと思ってたんだよね」

「捕まって良かったー」

「なんで痴漢って小太りの汗かきが多いかね」

「やっぱ人間顔に出るっていうか」

「トモくん勇気あるね、痴漢捕まえるなんて」

「あ、私もあいつにやられたことあるー」

「やっぱりサラリーマンってどこかストレスがあってさ」

「見たとこ30代?人生終わってるってカンジ」

お前ら何の確信があって優良な一般庶民のおれを卑下するような目で見てやがるんだ。おれが痴漢なんてチンケなことやるわけねぇだろ、この愚民どもが。

極めつけは鉄道事務所から警察に連れて行かれる際のあのメス豚の言葉だ。

「お巡りさん、そういや、あいつまだ捕まってないどこだったかの殺人犯にそっくりじゃない。ほら、ちょっと前まで手配書あったじゃない。ちゃんと調べた方が良いですよ」

なんだその事件は、なんだその手配書は、痴漢冤罪の上にさらに汚名をかぶせようっていうのか、お前のどこにそんな権利があるんだ。

茂みの方へ向かって怒りをあらわにする。すると業を煮やした守衛が警棒をチラつかせながら歩み寄ってきた。

「すぐ、すぐ、行きますので……」

門の方へ身体を向けるとバッグを開けて荷物を確認する。ひとつひとつ。

メンソールのタバコ、真っ黒のジッポライター、財布、定期入れ、マンガ、ゲーム機、メモ帳、名誉、プライド、自尊心、安定した日々、あのクソアマ、知ったかぶりの税金泥棒、どんなに訴えても他人事のクソ鉄道職員。

疲労で身体から漏れかかっていた恨みの欠片と汚濁を確認し、掬い、拾い上げていく。

一息つき、顔を上げて歩き始める。シャツ一枚は若干肌寒かったがそれが理由ではない。

怒りで、冬でもないのに震えた。


月は頭上で優しい弧を描いていたがおれはそれを賛美する気にはなれなかった。



家に着くと服を脱ぎ捨てすぐさまノートPCを開いた。とにかくぶつけずにはいられなかった。

テリトリーにしているチャットルーム、掲示板、SNS、ひとしきり書いたところで一度立ち上がり、冷蔵庫から取り出したビールの缶を開けた。

すると会社の同僚、杉浦からチャットが入った。

「お前大丈夫かー?今日休んだろ、もう会社で話題になってんぞ」

確かに思い起こすと今朝の一件は通勤中の出来事だったから、同じ車両に会社の人間が乗っていたとしてもおかしくない。そこから話が回ったということか。会社に風邪で休むと仮病を使ったのは無駄だったか。

「別に、完全な冤罪だよ。騒ぐ方がくだらん」

「そうは言うけどよ、処分どうなんの?」

「部長から留守電入ってた。とりあえず自宅待機」

「まじで?」

「休暇だと思ってのんびりするわ」

ビールをひと飲みする。つまみを買い忘れたことが惜しい。何か冷蔵庫にあっただろうか。

「あ、それうらやましいかも。笑」

「てかマジあのクソオンナむかつくわ」

「痴漢冤罪なんてリアルじゃなかったからなー」

「ぶっ殺してぇ」

殺していい権利があったら殺す。戦場だったら真っ先に殺す。

「一度痛い目見るべきだな」

「怒りが止まらねぇ」

「やっちゃえやっちゃえ」

「おれはどうせヨゴレだから今更不名誉もクソもねぇが」

「おま、キモヲタと犯罪者じゃ天と地ほども違うぞー。泣」

「会社辞めるかな」

そうは言ったものも世間は30代の転職に冷たい。当然冗談だ。

「そのまま有給消化に入ればよい」

「無論」

「ま、とりあえず元気で良かったぜ。ではまた」

2本目のビールを開ける。500ミリリットルにすれば良かった。

そう言えば昼は動転して考えることができなかったが、あの女、どこかで見たことがある。なんだったか。濃い化粧と全く好感が持てない真っ赤な口紅。明らかに若作りし過ぎなラメ入りのチーク。派手なミニスカートに盛り過ぎの頭が悪そうな茶髪。およそ普通の会社員とは思えない出で立ちだった。

一方、気付くと《痴漢冤罪》のスレッドの方にコメントが入っていた。

「大変な目に遭いましたね、同情します。ひょっとして今朝の京王線の上りですか?私も現場にいたかもしれません」

驚いて食いつく。

「コメントありがとうございます。おそらく間違いないと思います。現場で何か見ませんでしたか?証言していただけると助かります」

「すみません、私は現場からは遠くにしかも座席に座っていたので正直何も見ていません。何が起きていたのかも周りの方々が口々に話す内容から理解した程度で……申し訳ありませんがあまりお力にはなれないと思います。それにしても殺人事件の犯人だと疑うような発言まで……心中お察しします」

この役立たずが。酔いも助けて怒りのボルテージが上がっていく。ビールをかっ込む。本当に500にするべきだった。

「ただ、相手の女性ってあれ、芸能人の三ノ(みのわ)結女(ゆめ)でしたよね?最近見ないですけど。それは鉄道職員の方と歩いていくところが見えました。どうでしょう?以下にリンク貼ります」

三ノ輪結女、そうだ、確かに。何度かテレビで見たことがある、が、今はもう完全に全盛期を過ぎた三十路女のはず。リンクの先を見ると公式ブログで腹立たしいほどすました「私美人でしょ」とも言いたげな写真が貼付けられていた。

美人か美人じゃないか?そんなことは問題じゃないんだ。空気の読めなくなった女は怖い。間違いない、このクソアマだ。

「間違いないと思います。情報ありがとうございました」

すぐにそのスレッドはおれたちのやりとりを見ていた《冤罪撲滅派》のいいコちゃんたちの溜まり場になった。

あーだこーだ、そりゃ援護射撃は心地良いがそんなぬるいものに溺れる気はおれには無い。おれは放置して席を立ち3本目のビールを開けた。

タバコをくわえるとお気に入りの黒で塗られたジッポライターをポケットから取り出しタバコに火をつける。マットな手触りが気に入って衝動買いした代物だ。

「灰皿、灰皿……」

メモ書きやらコンビニの袋やらが散らかった机の上をかき回すと、茶封筒の下に煤けた銀色の物体が見えた。茶封筒を手に取りタバコをあるべき所定の位置へと落ち着ける。

「この封筒なんだったけか」

手でひらひらと裏表すると、切手の貼られていないその封筒の表には「206号室 指宿環 様」と書いてあった。指宿(いぶすき)(わたる)、おれの名前だ。大家からの手紙のようだ。家賃は引き落としだし自治会費は一年分を払ったばかり。どのみちたいした用事ではないだろう。

そう思い、手で適当に封筒の端を千切ると、中の紙がかなり破れてしまって一瞬焦った。しかし中身を確認すると問題は無さそうだった。


《ご連絡とお願い》


ここ最近、当アパートの住人の方とご近所の方との間でトラブルが発生するケースが増えています。

不審な人物を見かけたり、知り合いではない人から声をかけられたり、何か周辺住人の方から迷惑行為を受けた場合は、決してご自分で解決しようとなさらず、すみやかに大家までご相談下さい。


連絡先は03―××××―××××


ふーん、と紙を発掘現場へと戻す。だいぶ濁して書いているが、何のことを指しているのかはわかっていた。最近近所を徘徊しているじいさんのことだ。確か山崎と言った。

最初に山崎のじいさんの話を聞いたのは、確かうちの1階に住んでる女子大生をストーキングしてたんだとか。それで一度警察に捕まったがかなり痴呆が進んでいて、孫と勘違いしたんだとかなんだとか。その後もじいさんの徘徊は止まらず、登下校中の小学生にからんだり、通勤中の会社員に後ろから抱きついたりした。アパートの駐車場で寝ていたこともあった。

おれは面倒なので極力直接の関係を持たないようにしてきたが、隣の部屋の面倒見のいい好青年が、ボケじいさんの肩を抱いて1ブロック向こうの家まで送っていくのを何度か見たことがある。しかしじきにその好青年もその好意にも陰りが見えていった。なんでもじいさんが頭の割には身体がしっかりしていて、簡単に言うと、手が出るらしい。思いやりを拳骨で返された日には、好青年の笑顔もそりゃ苦笑いに変わるだろう。

そんなこんなで今や山崎のじいさんは近所の有名人にして大迷惑人物になっていた。それにしても家族は何を考えているんだ。あんな状態の老人を放置しているなんて……

まぁ、ボケジジイの素性などまったく知ったことではない。大家の手紙にあるとおり、君子危うきに近寄らずだ。


そのときPCの画面を見て「お、来た来た」と思わずニヤリとしてしまった。おれ主催のコアなチャットルームで常連のクソッタレどもがおれの書き込みに食いついてきている。当然ネタは三ノ輪結女をいかにして《処刑》するか、だ。

「そのメス、マジで死ぬべき」

「どーぜドブスでしょ」

「ブスなら死ねばいい」

「ブスじゃない方が殺し甲斐がある」

「男をバカにしてる雌は全て処刑だ」

相変わらずの野蛮人どもが。先ほど得た情報を付け足す。

「最新情報。処刑対象のメスはなんと芸能人の三ノ輪結女だった。確認済」

すぐに亡者どもがヒートアップする。

「うわー、落ち目のババアが痴漢でっちあげ」

「ググらないと誰だかわからんかった」

「女を利用したストレス解消か」

「火ぃつけるぞ、火」

「三ノ輪は某俳優と不倫お泊まり」

「性器だけでできてる雌ですから」

「とりあえずリンク先のブログ炎上させてくる」

「じゃそっち集合で」

「ブログじゃねぇよ、家燃やそう、家」

「コラ作ってみた。タイトルは《三ノ輪、アソコが炎上》」

リンク上のファイルを開くと、どこかのヌードモデルのM字開脚ポーズに、顔は三ノ輪の写真、アソコは《炎上画像》を貼付けたものが表示される。やっぱりここの住人はクールなクソ野郎どもだ。

「マジ最高」

「こんなアソコいらない」

「ネットから制裁を与えよう」

「マジ、殺せるしな」

「このチャットルームのチカラを使えば余裕だ」

「実績あり」

「女子高生は可哀想だったがな」

「ジョシコーセーだからって萌えるとは限らんぞ」

「いや、おれは100%萌える」

「この鬼畜が。笑」

「ただいまー。とりあえず炎上ではなくホーム画面の画像を《アソコ炎上》に貼り替えてきたぞ。やっほい」

「マジ天才」

「いつもながら神」

「そのハッキングの腕を世界平和のために使って欲しいカモ」

「キミがいると作り甲斐がある」

「一回ルーター落とすので。クソ野郎どもサヨウナラ」

机の下のルーターを電源タップから抜いてタバコに火を付ける。ブチまけるだけブチまけたら少し頭がスッキリして来た。

ケータイで別のスレッドに書き込んだ《例の殺人事件》の方をチェックする。考えてみたら事件の全貌をあまり良く知らないのだ。

すると、世の中親切なヒマ人がいるもので、こんな書き込みがあった。

「話に上がっている少女殺害の犯人は別にいます。ほぼわかっているのですが捕まっていないのです。リンクはこちら」

たどって行くとそこは個人のページで、つらつらと端から端まで述べてあったのでおれは斜め読みをする。情報をかいつまむとつまるところこうだった。


神御黒(かみぐろ)小学校少女殺害事件》


ちょうど3年前の今頃、当時小学生の少女が校舎地下の備蓄倉庫で餓死していた事件。(おれも覚えている)

事件発生当初は事故の見方が強かったが、しばらくして死体に首を絞めたような痕跡が見つかり事件化。しかし少女の死体がほぼ白骨化していたこともあり、有力な情報を掴むことができなかった。

唯一付近に髪の毛が残されていたのは当時アリバイも無く第一容疑者だったある男Y。しかしYは証拠不十分で起訴には至らなかった。Yは事件の数年前に廃校になった神御黒小の関係者で校舎に出入りするだけの理由が十分にあったためだと言われているが、Yが容疑者として取り調べられた際には痴呆が相当進んでいて責任能力に欠け、その点においても警察が実刑にこぎ着けるのが困難だと判断したという話もある。なおこれらの情報は一般には非公開である。(お前はなんで知ってるんだよ)

また周辺での目撃情報から第二の容疑者が上がるも、似顔絵が公開されたのみで結局は的外れだったのではとの見方が強い。(これのせいで……)


なお少女が閉じ込められた部屋には避難用の備蓄が未処理のまま随分と残されていて、もし少女がそれを知っていたら、どうにか生き抜いて捜索を待つことも不可能ではなかったと言われている。


残念な悲劇ってとこか。つくづくおれには関係の無い話だ。


翌日、結局2週間の出社禁止と処分保留を言い渡されたおれは大人しく家に引きこもることにした。やることなんていくらでもある。

ブログの更新、趣味でやっているプログラミングとバグ取り、サーバーの管理、サイトチェックとそれぞれの住人との交流、違法ダウンロード、オンラインゲーム、チャット、動画視聴……


やはり、やることなんていくらでもあった。


夜になってふと一息つくと家にある非常食のストックが少なくなっていることに気付き、コンビニへ行くことにした。家から一番近いコンビニは大通りに面しているのだが、不思議と気がとがめて裏道にある普段は寄らないコンビニへと歩いた。別に後ろめたいことがあるわけではないが、誰にも会いたくないという気持ちが強かった。

裏通りのコンビニはすでに時刻が20時を越えていたこともあり、人通りはまばらで、通り過ぎるサラリーマンが2人、それに中学生くらいの3人の男子たちがコンビニの向かいのの駐車場でタムロしているだけだった。店内に入るとレジには若い小柄な男性がひとり、レジの金を数えていた。立ち読みの客もいない。本当に暇なコンビニだ。

おれはそれこそむしろ好都合とまずは雑誌コーナーへと向かう。平積みにされた少年誌を広げ、毎週読んでいる2、3の漫画を読み終えると、次は青年誌のコーナーへ行き今度は全誌の表紙グラビアをサラッとチェックする。お目当ては見つからずおれは嘆息を漏らす。

最近飛ぶ鳥を落とす勢いで売れてきている注目株のアイドルグループがある。アイドルでありながらトークが面白く、単なるお飾りのアイドルグループではないところがおれ好みだ。《GALETTA(ガレッタ)》は、元は別々で活動していた仲川みなみ、柏木夏希、小嶋晴香の3人がある特番イベントをきっかけに一時的なユニットを結成し、それが好評だったことを受け正式なアイドルグループとして活動を始めたものだ。

おれはそれまでアイドルのような男に媚びた人種は吐き気がするほど嫌いだったのだが、会社の同僚、杉浦に勧められてテレビを見てみたら一気にハマった。彼女たちはアイドルらしく可愛く活き活きしているだけでなく、知的でそしてどこか親近感を覚える凡庸さも兼ね揃えていた。そこらへんにいる可愛い子のワンランク上、というのがおれ自身の評価だ。人形のような顔の整った美人が好きならば整形美女でも探せばいい。スタイルを重視するならば、欧米人のアイドルのレベルの高さったらないだろう。

しかし一般に男性が求めているものはそれではない。遠い偶像を追いかけることで充実を感じる輩もいるが、おれから言わせると信じられない。性格もわからない飛び切りの美女や8頭身モデルでありえない妄想を繰り広げるよりも、少し手を伸ばせば届きそうな気持ちを呼び起こしてくれる彼女たちを見ている方が何倍も力が湧いてくるのだ。

ガラスの向こう側では先ほどまで談笑していた中学生たちがどこかに消えていた。視界には誰もいない。裏通りとは落ち着いて良いものだ。おれは入り口側から丁寧にひとつひとつ雑誌の中身を確認していく。

GALETTAの3人は一番歳下が仲川みなみで14歳、柏木(かしわぎ)夏希と小嶋(こじま)晴香(はるか)の2人が16歳という構成だ。今年はすでに4回彼女たちのイベントに行っているが、いかにも売り出し中で頑張っている姿が印象的で、特に仲川みなみのトークが好きだ。彼女は静岡県出身で、デビュー当初はわざわざ新幹線で通って芸能活動をしていたが、その移動の際にも常に気さくに新幹線内での周囲の人との会話やファンサービスを惜しまなかった。実のところおれもわざと彼女の乗る新幹線に乗り合わせ、サインと握手をしてもらいに声をかけたことがある。どうせ「サイン、握手、さようなら」だと思っていたら、むしろこちらが気後れするくらい普通に会話をしてくれた。全く飾ったところが無く、その時に一生彼女を応援してあげたいと思った。そのくらい衝撃的に彼女のことが好きになった。

雑誌棚をひと通り舐め回して、残念ながら彼女たちのグラビアや特集がどの雑誌にも無いことを確認した。彼女たちは徐々にコアなファン層を増やしているとはいえ、まだまだデビュー1年だ。世の中をGALETTA一色に染めるところまではいかないものだ。

そうするともはやコンビニには用は無い。いつものカップラーメンとスナック菓子と炭酸飲料のペットボトルを、今日は少し多めに買って帰るだけだ。レジの小柄な男性は近づいてみると意外と若く学生バイトかと思われた。おれは籠をレジカウンターに乗せると無愛想に1万円札を置いた。彼も無愛想にバーコードを読み取り1万円札を取った。釣り銭を受け取り袋の中を覗くと割り箸がカップラーメンの数だけ入っていた。まったく、エコの精神に欠けたヤツめ。やはりコンビニは経済活動の意味では有能だが環境的ダメージについては釈明のしようも無いほどマイナスな存在だ。こんな数の割り箸は不要だなんて少し考えればわかることなのに考えることを放棄している辺りがいかにも怠惰で腹が立つのだが、何かを話すのも面倒でそのまま袋を左手にぶら下げコンビニを後にする。

「ありあとあしたー」

出口のガラス戸に写る自分のシルエットはまた若干ボリュームが増えているように見えた。「ゆったりめの服を着ているからだろう」と嘘だとわかりきった言い訳で脳内を慰める。

軽く息を吐きながら右手でドアを開けると、その持ち手の向こう側の公衆電話の脇に小学生か中学生くらいの少女がいた。毛糸のセーターの上にいかにも目立つ白いノースリーブのダウンが気候よりも厚着に思えて思わず凝視してしまった。ショートボブの横髪が顔にかかっていて表情は伺えないが、何かを待っているか、考え事でもしているかのようだった。もう23時近いのにこんなところをうろついてるということは、不良で家族から見放されているか親が夜の仕事か、それか男か。

いずれにせよおれには関係ない。

それより家に帰ったら仲川みなみのブログを読もう、と考えながら歩き出すと後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。


「指宿くんじゃありませんか」

わざわざ離れた裏通りのコンビニに来たおれの苦労は、その一撃でかき消された。おれの今の格好ときたら、下は高校のジャージで上はパジャマのスウェットだ。近所のジジババにあった方が遥かにマシだった。よりによって取引先の人間に会うなんて最悪だ。

とはいえサラリーマンたるものここで対応に問題があってはいけない。かったるいがきちんとしなくては。気持ち背筋を伸ばしながらおれよりも20センチ近く上方向に目線をあわせて話しかける。

「あー、朽津木(くちつき)先生。こんばんわ。妙なところでお会いしますねー」

仕事の帰りらしきスーツ姿にビジネスバッグ。190を越えるスラッと伸びた長身に整った顔立ちはいかにもやり手ビジネスマン、という感じだが、こう見えて彼、朽津木周一(しゅういち)は大学の研究所勤めの教授様だ。こういうあらゆるものに恵まれながら、研究などという価値がよくわからないものに熱を上げている。しゃべりも決して社交的ではなく、饒舌なようで教授特有のよくわからない話ばかり。あんなので好感が高まるとは思えない。

「このひとって実は割と不器用なタイプなのか?」と一時は軽い親近感を抱いたものだったが、あるとき「朽津木教授が元モデルと交際している」という噂を聞いて、世の中はやはり顔かとショックを受けた記憶がある。

実際、朽津木教授は研究者の世界ではかなり有名らしく、他の営業先でもよく話題に出るほどだ。「世界初の」とか「業界最大級の」とか大仰な枕詞が並んでいたが、話のちょっとした触りの部分ですらおれの理解能力をあっさり越えていていずれも「はぁ……はぁ……」と聞き流した。

しかし国内外での実績と名声に加え、黙っていれば相当な美男、とくればモテない理由は特にない。何だったっけか、朽津木教授が米国で教鞭を取っていた時に付けられた異名があったはずだ。思い出せないが何か《悟りきった者》みたいな意味だった。それは教授の専門範囲が、専門なんていう言葉が陳腐になるほど多岐に渡り、各業界でその手の第一人者を打ちのめし続けた故の異名だったはずだ。なんにせよ、朽津木教授はおれが親近感など感じて良い存在ではないのだ。はなから。考えが甘かった。

何はともあれおれは朽津木教授があまり得意ではない。なんとか精一杯の愛想笑いを浮かべるが、心の中では全力で「とっとと切り上げて帰ろうぜ!」と訴えていた。顔から出ていたらどうしよう。

「指宿くんはこの近所に住んでいるのですか。私の家は1駅先なのですが、たまたま今日は歩きたい気分だったもので」

「いやぁ、それは偶然ですね……」

そんなのに引っかかるとはツイてない。運動したけりゃ家帰ってからジョギングでもウォーキングでもやれよ。

「少し今は涼しいので空気を肌で感じることができるようになってきていますね。汗腺の開きと躁鬱とに関係性があるという論文を以前目にしましたがなるほど感覚的に同意できるものですよね」

「はぁ……」

「そうだ。すみません、仕事の話で大変恐縮ですが、先日、指宿くんが送ってくださったパンフレットを拝読しましたが、もう少し入力感度の良いものが必要でした。できればあのパンフレット以外にもっとラインナップの全体像がわかるものを用意していただけると助かります」

「あ、えーと、あれ以外の機種はあるにはあるんですけど、パンフとしては……」

「無いのですか?それはよくありませんね。私はもとより、顧客のニーズは他にもあると思いますし、何より他社はラインナップ全体の詳細比較が可能なドキュメントの用意があるところが多いかと思います。顧客満足の視点からも競合他社がやっている内容はカバーすべきかと思いますね」

朽津木教授は取引相手の中でも正直苦手な部類に入る。この人の語り口はよくわからないしマイペースで、なんとも掴み難いのだ。しかも毎度ツッコミどころが的確で右往左往させられる。

おれが自社商品を売り込みに行っているのだからその分野での《プロフェッショナル》は一応おれだというのに、彼はほとんどの場合でこちらが全く知らないような専門的なことまで調べた上で会話をしてくる。いかにも「勉強が得意です」という感じで大学教授としては模範的なのだが、商売相手としては極めて営業がしにくいと言わざるを得ない。

しかし極めてアンバランスで理解し難いことにどうやら彼はおれを気に入っているフシがある。理由はよくわからないが。毎年なんやかんやいって2、3台の大規模な測定機器を買ってくれるし、現行納入品の載せ換え提案に応じてくれることも多い。まぁ、はぁはぁ言って彼の話を聞いていれば営業成績に反映してくれるんだから、そう考えれば安いものだ。

「指宿くん、聞きましたよ。担当外れたらしいですね」

「え?」

「先日若い営業の方から電話がかかってきましたよ。これから担当が変わるので、まずは挨拶しに来たいとのことでした」

あっけに取られてキョトンとした。課長から聞いていたのは「処分保留」とだけだ。おいおい《保留》という意味を理解しているのか、あのハゲ。いや、違うな、きっと《あいつ》が言葉巧みに課長を丸め込んだに違いない。

「いや……聞いてないです……新しい担当、誰でした?」

おれは半ば確信しながら一応確認する。

「浅田拓也さんと名乗られました」

やはり浅田か、やられた。朽津木研究室は学内でも規模が大きく予算もあるようで、誰からどう見ても明らかにお得意様だ。決して突出した営業能力を持っているわけではないおれが、ここ数年安定した結果を出せているのは朽津木教授のお陰だと言っても過言ではない。

常日頃に皆に羨まれてるだろうと思ってはいたが、今回の事件にかこつけてこんな形で狙われるとは……

浅田は3つ下の後輩で、営業成績が飛び抜けて優秀なことだけではなく、その貪欲さと狡猾さにおいて周囲を大いにドン引きさせていた。うちの会社は全世界で手広く産業用の測定器や部品を売っているメーカーで、営業拠点は世界各地にあった。そうすると自然と《海外駐在》というものがステータスであるだけでなく出世の最短ルートである。他社の営業の人間と飲んだ時も同じようなことを言っていた。「行きたかないんだけどキャリアアップのためには仕方ない」とかなんとか。

しかしアグレッシブなやつにとっては非常にわかり易いターゲットなわけで、浅田はそれを狙って目下猛アピール中なのだ。

おれは自分の身の丈を知っているつもりだし、そもそも出世なんて相当の位置まで上り詰めない限り意味が無い。どうせ自分よりちょっと偉い人の愚痴と自分よりちょっと下の面倒な部下との板挟みで延々苦しみ続けるだけなのだ。おれはサラリーマンになってからそれを重々と理解した。というか実況生中継で見せつけられ続けている。誰でもわかるさ、そのくらい。

さらに言えば海外駐在と言えば英語が必須だ。大概の日本企業の海外拠点では公用語が英語で、当然取引先とのやり取りも英語だ。もう想像するだけで頭が痛くなる。

おれは、日々上司の文句をほどほどに受け流しながらそこそこの仕事をして、メシの食いっぱくれさえなければそれで十分なのだ。

世の中のほとんどの人間の仕事に対するスタンスなんてそんなものだ。しかし浅田はそれを世迷い言として信じていない。

どうやら浅田の脳ミソの中の世界を分析すると、皆が浅田並、いや、むしろそれ以上にアグレッシブに日々骨肉の競いを繰り広げ、皆お互いの寝首をかくつもりで日々虎視眈々とチャンスを待っていると思っているのだ。救いがたいバカだ。しかしそのバカな想いが浅田のアイデンティティを支えている。

《そんな厳しい世界でがんばってるおれってスゴい》という病だ。

社会人になると2年目から3年目の頃に多くの人間がかかる典型的な社会人病だが、一般に一過性で何も処方せずとも自然治癒するものだ。不幸なことに浅田はそれがたまたま長引いているだけなのだ。

おれは今までそのことを哀れみ目でもって見ていた。「浅田……早く真人間になれよ」って。それが……こんな形で自分の立場を脅かしにかかるとは想像もしていなかった。

「多分……一時的なものかと。私がここ2週間ほど出社できないもので……」

「それは浅田さんから伺いました」

朽津木教授がおれと目線をじーっと合わせたまま不自然に固まる。彼と会話しているとたまにあるのだが勘弁して欲しい。これって大抵が何か考え事をしているときなのだが周囲から見たら明らかに変な空間だ。いい歳した男性2人が向かい合い、片方はまるで処理の遅い旧型ロボットのようだ。最初は「怒ってる?おれ何かやっちゃった?」と戸惑ったものだが……まぁもう慣れた。

「浅田から何か、聞きました?」

「……伺いました」

「やつが何を言ったかわかりませんが、事実無根ですよ」

自然と語気が強くなってしまった。浅田め、おれをどこまでおとしめるつもりだ。

「私もそう思っています。そのことは、ここで指宿くんに対して私から自発的に声をかけた、ということで証明されていませんでしょうか?」

「そのとおりですね……ありがとうございます」

おれは軽く会釈した。教授様に信頼いただけるとやはりそれなりに嬉しいものだ。

「まぁ私のことを良く知っている人間は皆そう言ってくれているので、幾分気は楽なのですが」

「しかし会社でそう捉えられていないようでは問題ですね」

なるほど墓穴だった。上司の理解は得られていない、ってことだもんな。相変わらず朽津木教授の指摘は鋭い。おれは苦い表情を浮かべる。

それにしてもあのクソ上司め、浅田なんかにたぶらかされやがって。しかし「明日の早朝に上司に電話して文句のひとつでも言ってやる!」というのは今の引きこもりモードのおれには無理だ。

「はぁ……」

とりあえず深いため息をついてみる。今日何度目だろうか。

「私は以前から、こと会社という共同体は、この手の話題に対して過剰に反応を示し過ぎる傾向があるように感じていましたが、このように近い距離でその問題を突きつけられると少し思うものがあります」

「なんとか、朽津木先生からお願いできませんでしょうか……」

去年の売り上げデータなどという覚えていても脳ミソの無駄なものはとっくの昔に記憶の彼方に追いやってしまったが、感覚的には、朽津木教授の分が無くなるだけでおれの売り上げはほぼ半減する。それは絶対阻止しなければならない。おれの今後の人生が《楽をしながらボチボチ》でいけるかどうかは決して大げさではなく朽津木教授の双肩にのしかかっているのだ。

懇願の視線を送ると、彼はいつもの「計算中。しばしお待ちください」だ。あれ、考えてみたらこの人の情にうったえかけて上手くいったためしが無いぞ。

「……指宿くんのお願いは、《不名誉を取り払う》と《朽津木研究室の担当を保持する》のどちらか、もしくは両方かと察しますが、前者は言うまでもなく私には無理です。現場にいたわけではありませんし、例え現場にいたとしても痴漢冤罪というものは証明が難しいものです。そうすると後者についてですが、御社の決定事項に対して私が口を挟むというのは私にとってそれなりの事情というものが必要になります。私にはお付き合いをするメーカーを選ぶ自由がありますが、御社の人事に口出しをする権利はありません。気に入らなければメーカーを変えるのが筋と言えるでしょう。その状況であえて私が指宿くんを固辞する理由があるとしたら、そこは私と指宿くんに関する特殊な事情があり、それの固辞に対して私とっても何かしらのメリットがあると言うことです。それはつまり」

「いや、すみません。やっぱり朽津木先生にお願いすることではありませんね。自分で……どうにかします」

まったく、いつもながら頭が固い。スペックとデータと《イエスorノー》の分岐でしか物事を処理できないやつに何を言っても無駄だ。というか、普通に他意無く「うまくいくかわかりませんが言ってみます」とか適当なことを言っておけば良いのに。それが例え本当ではなかったとしてもいくらかおれの慰みになるし、この場は間違いなくうまく収まる。

そもそもおれと朽津木教授の《関係性》なんかを必死に掘り下げたところで、そんなの単なる取引先の相手というラインから1ミリたりとも前にも後ろにもズレがあるわけがないではないか。

グッと疲れた。もう帰りたい。早く仲川みなみの笑顔が見たい。

「わかりました。私もそれが好ましいと思います。それではそろそろ失礼させていただきます。長話に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」

「いえ、また、よろしくお願いします」

一応「また」を付けた。もう二度と会うことは無いかもしれないが。

朽津木教授が向こうの角に見えなくなるまで頭を下げ続ける。営業の悲しい習性だ。頭を上げるとそのまま「ふぅ」と深いため息が漏れた。気付けば白いノースリーブのダウンを着た少女はいなくなっていた。



アパートの階段を上がった2階の一番奥の角がおれの部屋だ。ドアを開け、靴が散乱した玄関を抜ける。片足のスニーカーがすんなり抜けずにひっくり返って他の靴の上に乗ったが気にしない。朽津木教授との立ち話で消耗したおれは全ての些事がどうでも良くなっていた。ああ、脳内を癒したい。

リビング兼ベッドルームでテレビをつけると画面内は華やいだ男女で溢れていた。何かの特番のようで新番組の宣伝とクイズを兼ねたよくある形式だ。もうそんな時期だったか。

狭いキッチンでカップラーメンにお湯を注ぎながら画面上を注意深く走査する。いた。GALETTAの3人だ。先々クール、先クールと連続で非常に評判が良かった彼女たちの冠番組が、とうとう今度ゴールデンに進出するのだ。この手のスペシャル番組への出演は当然と言えるだろう。

おれは彼女たちの番組は当然第一回の放送から全て生で観ている。そしてこれもまた当然ながら録画し、何度も何度も見返している。本当に彼女たちのトークは爽快だ。毎回有名ゲストを招きながら視聴者の疑問や質問に答えていく番組なのだが、彼女たちの、特に仲川みなみは一言一言に常にキレと愛嬌があり、持ち前の愛らしいルックスとあいまって今年1年で彼女の人気はうなぎ登りだ。

「それでは、残念ながらGALETTAのお三方は次の収録があるので、ここまで、ということでー」

3人がカメラに対して行儀良く会釈しながら去っていく、売れてきているのに大物ぶらない、こういう殊勝なところも好感だ。おれはハードディスクプレイヤーの録画ランプを確認し、停止ボタンを押す。

少し伸びてしまったカップラーメンを手にテレビのチャンネルを回すが面白い番組は無さそうだ。そもそもおれは録画しておいて後で都合の良いときに見て楽しむ《タイムシフト派》なので、テレビを目的もなくつけていることは普段からほとんどないと言っていい。おれからすると、テレビにどっぷり浸かりきってしまう輩の気が知れない。世の中にはもっとハラワタが煮え返るほど面白く、腸がよじれるほどくだらないことが腐るほどあるというのに。そう考えながらルーターの電源を入れ、ノートPCを開いた。

三ノ輪結女のホームページはすっかり炎上し収拾がつかなくなっていた。おれが直接手を下したのはわずかな部分だったのだが、やつらはすぐに調子に乗る。完全に遊び感覚だ。ひとつのきっかけや《しかるべきターゲット》があればそこへ向けて堰を切ったように漏れ出してくるうっぷん、不満、暴力性。ターゲットはなんでも構わなくて、要するにやつらはネットというツールを使って暴れたいだけなのだ。まぁそれにしてもホームページ炎上くらいなら他愛のないものだ。このくらいで済んで良かったじゃないか、三ノ輪結女。

ふとさっき話題に出ていた女子高生のことが頭をよぎった。あまり良い思い出ではないが、おれがこのチャットルームを仕切るきっかけになった出来事でもある。

いや、そんなことを思い出すのはやめよう。ただでさえ今は謹慎食らうわ、その隙に朽津木教授の仕事を失うわでヘコんでいるのだ。誰が好き好んでこの状況に追い打ちをかけるものか。

今のおれの姿は、ひとり三十路も越えた独身男がPCに向かいながらカップラーメンをむさぼっている、というものだ。しかしおれにむなしさはない。それを堂々と言うことではないということ、社会的には存分にみすぼらしい行為であるということは自覚している。しかしおれは人生をそこまで合理的にこなすつもりもないし、悪いこと良いことの境界を明確にすることも好まない。おれは今、上は安物スウェット、下はジャージでカップラーメンを食っているしょぼいサラリーマンだが、何が良くて何が悪いかなんてそれぞれの価値観次第であって、それが人からどう見られていようとどう言われようとそれは《おれ》を直接揺るがす問題にはならない。

他人がおれをどう扱おうと良い、なのでおれが他人をどう扱おうと良い。その際にそれぞれが感じる不満や不合理は当たり前のことで、それを発露しようとしまいとそれもまたそれぞれの勝手だ。発露しなければそれで終わりだが、発露することで生み出される衝突の積み重ねが社会であり、つまりその衝突はごく当たり前の生産性に満ちた行為なのだ。ポジティブに迎えるべきだ。社会として。

だからおれが何をどうしようと構わない。それがハッキングを正当化するだけの理由だ。とまで詭弁をたれるつもりはないが、少なくともおれの中では自己解決していた。「事実を白日のもとにさらしているだけのこの高貴な行為が何故批判されなければならないんだ」とか明らかに屁理屈にしか聞こえない腐ったジャーナリズムを掲げる気もない。「今の時代インターネットリテラシーの向上は重要な社会的課題であって、私は自らその警鐘を」とか小難しいことを言う気もない。

ただおれの主張は「むかついたら仕返ししたって別にいいじゃん」だわ。シンプル。

それにより溢れる、怒り、悲しみ、壮快、焦燥、それら全てが社会の底辺を支える構成要素だ。そこに一役買っているに過ぎない。むしろ人間として健全過ぎるほど健全な行為なのだ。

今日のチャットルームのログを見直しながらそんなことを考えていると、ふと苦笑が漏れた。以前はおれももっと卑屈な人間だった。何も行動に移すことができず、一人で抱え込んでは苦しんでいた。「王様の耳はロバの耳」だなんて穴の中に叫んだってスッキリするわけがなく、溜まったものはきちんと人に向けて出さなければならないのだ。「王様の耳はロバの耳なんですよ、スゴくないっスか?」って。それを教えてくれたのがこのチャットルームであり、前任の管理者、アカウント名《kuit》だった。

彼は特に人の心の深い位置にある内言を引き出すことが巧みで、引っ込みがちな人間を好んでチャットルームに受け入れた。そして《クチだけ》の人間を嫌っていた。そのため、このチャットルームに集まる人間は何かしら自分のスキルを活かして《行動》ができる輩ばかりになった。あるものは趣味を活かして動画や画像の作成、またあるものはホームページの作成、そしてまたあるものは社会的立場を活かした情報収集(おれはこいつのことをきっと警官だとみているんだが、本当のところはわからない)、そしておれは前々職で身につけたITセキュリティの専門知識を活かしたハッキングだ。

kuitは「何かしらの形で構わないから関わりなさい」と言った。そして、その貢献度の多寡を取り上げて誰かを贔屓するようなことはまったくなかった。彼は素晴らしい管理者で素晴らしいリーダーだった。おれは彼に感謝の気持ちを持っていて、そのため彼がいなくなった後の後任も喜んで引き受けた。

ふとその時、携帯の着信音が鳴った。画面には「杉浦良一(りょういち)」と表示されている。


「もしもし」

「おう、元気かー。ひきこもり」

杉浦は部署の同僚でおれと同じ中途採用組だが、社会人歴の上でも同期にあたる。年齢が近い人間が部署にはほとんどいないという状況と杉浦の人懐っこい性格が相まって必然的に付き合いが生まれて、以降何かとつるんでいるが、とはいえ依然なかなか掴めないやつだ。元々は全く別の業種の営業をやっていたとかであいつは随分と《濃い》営業スタイルに染まっている。「計測器メーカーの接待って地味だね。いいの?こんなんで」あいつが以前そんなことを言っていたのを覚えている。

「ひきこもりってのは身体も心も不健康と相場が決まってるだろ」

「はは、違いねぇ。それでさ、電話したのは他でもない」

杉浦がおれの人生に大きな貢献をしているとしたら、それは間違いなくGALETTAだ。やつに勧められるまでアイドルってものに全く興味が無かったおれは少なからずともやつに感謝しなければならいと素直に思う。

当然杉浦自身が強烈なGALETTAファンだということは言うまでもない。やつは特に小嶋晴香がドストライクらしい。彼女はどちらかというとGALETTAのメンバーの中では一番アイドルっぽいルックスで、小柄でパッチリした目に髪は巻き髪、声は若干アニメ声だ。とはいえGALETTAメンバーたるもの皆ひとくせがある。彼女は中学時代、なんと少林寺拳法の全国覇者だったらしい。したがって身体の鍛え方も半端ではなく、握力は50キロ以上、ベンチプレスは80キロ持ち上げるというから驚きだ。番組のトークなどでは、得意の体育会的発言で軟弱な男どもを容赦なく切って捨てる姿が見ていて爽快だ。柔らかいルックスに似合わぬ活動的な一面、そのアンバランスな魅力が杉浦の心を捉えて離さないらしい。

「今週末金曜日に、GALETTAが」

「ラジオ公開生放送、だろ?」

杉浦がいかにも「悔しい」という感じのうめき声を上げる。

「なんだよー、知ってたのかよ。さすがひきこもり、恐るべし」

杉浦から電話があった時点で予想していた話題だったが、お互いの情報入手ルートや時期の確認、それにイベントで流しそうな曲や当日のスケジュールへの洞察などを交えて2人でワイワイ話しているだけで、鬱陶しい残り3日をすっ飛ばしてもうすでにその日がやってきたかのような高揚感を得られた。

「観に行く?」

「そりゃ行くでしょ!」

「おれはひきこもりだからいいけど、杉浦は金曜も仕事だろ?」

「だからお前は場所取りだ。最前列確保がミッションだぞ、オンエアのタイミングには必ず行く!」

杉浦はバランスの良い人間だと以前から思っていた。営業成績はトップではないが常にその近辺をフラフラ。ストレスもあまり無い様子で愚痴ることも無く、たまには仕事をサボり趣味も楽しむ。人付き合いもおれのような内向的なタイプに声をかけるかと思えばノリの軽いアカ抜けた集団ともうまくやっていて、さらに特筆すべきことに、やつは部署内外のめぼしい女性とは必ず友達になっていて、オフィスの廊下や休憩室でよくお茶飲みがてらに仲良く立ち話をしている姿を見かける。

ちなみにおれはというとアカ抜けた集団とはうまくやれず部署内の女性ですら恐らくおれの名前など知らないはずだ。あ、事務処理をしてる女性は別だが。(と、期待したい)

そんなおれのような人間だけならばまだしも、バランス良くいろいろなものを楽しめる杉浦のような人間の心も掴んで離さないのだから、そういう意味でもGALETTAはたいしたものだ。

杉浦と金曜日のイベントに向けての入念な対策を練り、それぞれがやるべきことと事前にチェックが必要な項目を確認し合った後、くだらない雑談を2、3した。切りが良いところで電話を切ろうとすると杉浦が思い出したように切り出す。

「あ、そうだそうだ、浅田の件は聞いたぜ。あいつ、どうかしてるよなぁ」

「ああ、おれは気にしてないよ。どのみち誰かに任せなきゃ業務が滞るわけだし」

「親切のお手伝いだってか?お前なぁ、あいつはそんな生温いやつじゃねぇぞ」

「まぁ、わかってるけど……」

「明日おれから課長に言ってみるよ。一時的な措置ならわからんでもない。でも浅田の狙いはそうじゃない」

「いや、いいって……」

杉浦の気遣いは嬉しかったが確実に《もめ事》になる。それを処理する自信が持てなかったため、おれはこのありがたい申し出をあえて拒絶した。杉浦は本当に裏表のないやつで、おれと話している時も部署で他の同僚と話している時も、課長と話す時も、おそらく部長、社長と話す時も変わらないと思う。自らの意見を常に自信を持って主張できるタイプの人間だ。多分杉浦がその気になったらあらゆる意味で浅田なんて足下にも及ばない。

しかしおれは違う。仕事に関してはノミの心臓だ。いや、社会に対して、と言えなくもないが。杉浦がおれを表立って擁護したら部署内でそれはすぐにわかる。そうすると浅田擁護派と真二つになるだろう。浅田は少なくともおれよりは優秀な営業能力を持っているので、やつの腹黒さを認識できないバカどもからはそれなりに信頼と支持があるはずだ。課長は板挟みになり、場合によっては部長の耳にまで話が届く、そこまでいったらどれだけの人が話に巻き込まれ、そしてそこにどれだけの良い事と悪い事が発生し皆に刻み込まれるのか想像に難くない。そもそもおれが社会に示せる痕跡なんて、業界、会社、部、課、グループ、いずれの階層においても多寡が知れている。それを杉浦と浅田の影響力で分不相応に拡大しないで欲しいのだ。

おれは社会に対し不満はあるがそれを発露しない。それは社会とおれとの根絶を意味していて、その分、おれが社会から傷つけられることも堪え難いのだ。どっちが先だったかなんて忘れてしまったが、つまりはそういうことだ。

おれはどうにか杉浦をなだめると、金曜の約束だけ確認して電話を切った。

「困ったら言えよ。じゃあな」

少し疲れた。杉浦とはGALETTAの話だけをするつもりが、思わぬ方へ話が飛んでしまった。あの手の話は会社の外ではもとより、仮にオフィス内にいる時だとしも極力ご勘弁願いたい。それは別に仕事の話は億劫で面倒くさい、というわけではない。いや、それも多少なりあるのだが、メインはもっとメンタルな、愉快/不愉快の次元の問題にある。

杉浦の好意を「友情から言ってくれているんだ。ありがたい」と捉えるのが一般的思考なのだろうが、おれはすぐにそうは思えない。むしろ「こう言わなきゃいけない、と思って言ってねぇか?」という悪態が先を突いてしまう。つまりその人間の《社会的バランス感覚》から打ち出されている行為であることを最初に疑ってしまうのだ。打算、というほど汚い言葉にするつもりは全くないが、本人の示す表層と言葉の出自の違いを疑わざるをえない。

その疑いの心は虚しくそして忌むべきことだが、自分自身で容易に処理することはできない正直な気持ちでもある。しかも人は自分が言葉を発する時に、その《人情や感情》と《社会的バランス感覚》のどちらに基づき発言しているのかを大抵の場合で意識することができていない。もしくは勘違いをする。偽善とそこから生じる好意のボタンの掛け違いは、これが全ての元凶だと言って良い。そしておれはその存在を否定する気はない。

別にいいのだ。

そんなものだ。

だから聞きたくない。

杉浦とは良い関係でやっている。お互いの共通項ははっきり言ってほとんど無いのだが、《会社の同僚》と《同じアイドルグループのファン》という細い2本の糸だけでうまくバランスを取って成立させている。そこに仕事のことや個人の性格や価値観を持ち込んできたら、2人のバランスは圧倒的に崩れると感じた。杉浦の好意をおれは好意としては取れず、杉浦もそんなおれの態度に辟易するだろう。

いいのだ。だから聞きたくない。

少しため息をついて、再度の癒しを彼女たちのホームページに求めた。GALETTAのブログは常に3人でローテーョンしながら書いているもので他のアイドルや芸能人のそれと比べると非常に写真が多く、その点においても評判が良い。今日は柏木夏希の番だったがまだアップデートされていなかったのでおれは昨日の仲川みなみの日記を読む。元よりそれで構わなかったのだ。昨日は彼女1人でロケだったらしく、途中にあった神社に参拝したエピソードや移動中のインターチェンジで撮った写真などが載せられている。何でもない日常的な風景が彼女の存在だけでこんなにも楽しく輝いた光景に一変することに毎度ながら感心する。そして彼女はいつもながら丁寧な文面だ。


みなさん、こんばんわ!今日は「発掘!となりのリストランテ」のロケで箱根に行ってきました☆

今年に入ってレポーターの仕事をいただいた地域の隠れた美味しいお店を紹介する番組なのですが、みなみとしては食べ歩き番組って初めてなのでとてもウキウキ♪

1軒目が夫婦2人でやっている小さなフランス料理のお店だったのですが、とにかく素敵なご夫婦で感動してしまいました!(一緒に写真を撮らせていただきました☆)

ご主人が元々某有名レストランに勤めていて、奥様はそこのスタッフだったそうです。(キャ~職場恋愛!)

そして結婚を機に独立されてから25年、夫婦で常に同じ方向を向いて支え合っているって、なんかグッと来ますよね?

みなみも将来そんな相手が……見つかるのかしら?笑

さて、2軒目以降のお話はオンエアで!ぜひ観て下さいね☆

他にもスタッフさんと移動中に撮った写真が何枚かあるのでアップします。最近パワースポットで有名な神社に行ったり、サービスエリアで噂のB級グルメを堪能したり、ホントに最高のロケでした♪

こういう仕事が、もっともっとたくさんいただけるように、また明日からもがんばります!!


《出演情報》

本日 19時~……


ああ……癒されるなぁ……。

おれはノートPCを離れて目を閉じた。彼女がいる空間はなんて心地良いのだろう。それが例えブログという媒体を介したものだとしても、彼女が確かに彼女らしく存在していることを確認できる喜びに程度の差はない。

グルメ番組でロケに行っておきながら夫婦の人間性に目をつけてしまう大人びたところ。そして逆に恋愛でキャーキャー言ってしまう少女らしさ。その両方を兼ね揃えているところが、彼女のファン層を広げている要因だと思う。

特に彼女は同世代の女子のファンも多いという。よく《カッコいい系》のモデルや歌手ではそういうことがある。いわゆる手の届かない《憧れに基づく偶像崇拝》としてのファンだ。一方、仲川みなみのようにアイドルとして売り出しているにも関わらず女性ファンに恵まれるというのは、彼女の人間としての魅力の高さを証明していると言えるだろう。

少し気持ちが落ち着いた。

深呼吸しながらベッドにゴロリと横たわると、惰性に満ちた眠気が襲ってきた。食後だからだな。引きこもりのおれにはその強力な勧誘とわざわざ格闘するだけの理由を持ち得ない。三大欲求に身を委ねる行為は突き抜けて気持ちが良い。おれはすぐに観念し、されるがままに堕ちていった。


メールにビックリして飛び起きた時には時刻は23時を回っていた。いや、正確に言うとメールの着信音でビックリしたわけではない。着信音とバイブを感じて鬱陶しいなと思いながらケータイを開き、差出人の欄が目に入った瞬間にビックリして飛び起きた。


23時13分。

「kuitからのメール?」

おれは畏敬から来る歓喜と恐縮が共存したむずがゆさを感じていた。kuitからのメールなどこれまで一度も無い。チャットルームの引き継ぎの時ですらkuitは掲示板へのメッセージの書き込みで済ませたのだ。

おれは注意深く、呼吸にすら注意を払いながらゆっくりと文面を確認する。


[差出人]kuit

[宛先]後任の管理者様

[本文]

お久しぶり。キミの一挙手一投足をいつも見守っているよ。

そして今のキミに何が足りないか、私にはわかっている。

明日、添付の場所に行くと良い。因果の鎖がキミを待っています。

[END]


よくわからない文章だが、kuitのことだ。何か重要な示唆があるに違いない。添付されてきたファイルに示された場所には最近見た記憶があった。それは例の少女殺害事件があった神御黒小のあたりだ。さらにもうひとつのファイル。こちらはパスワードで保護がかかっていた。

「kuit、おれをなめてもらっちゃ困りますよ」

つぶやきながら舌をぺろりと出すと、先週作ったばかりの自作のパスワードクラッキングツールを走らせた。ものの数秒で画面には《クラック成功》の文字が表示される。

ロックの解除されたフォルダ内を覗くとそこにあったのは《神御黒小学校校長プロフィール》と書かれたファイルだった。開いてみると如何にも調査資料という様子の装丁に、赤で《機密》の印が押されていた。ページの左上には60がらみの男性の写真、口髭をたくわえて如何にも貫禄のある雰囲気だ。さらに右側には小さな文字で上からびっしりとその人物の情報が、これでもかというほど細かく列挙されていた。経歴、血縁者、親しい関係の友人と最近会った日時、関係者それぞれの住所と連絡先、その他個人情報のオンパレードだ。なんでこんなものをkuitが持っているんだ、とは考えなかった。kuitなら何でもあり得る。そういう男(多分)なのだ。思慮深く、弁論が立ち、かつ常に本質を捉えてくれる。どこにでもいるようで、どこにいるかわからない謎の男(多分)、それがおれの尊敬するkuitだ。

このメールもおれには意味不明だが、彼がおれに何かを見せようとしているのだろう。直々の指名だ。返事はわかりきっている。したがって即時返信なんて野暮なことはしない。おれは明日、神御黒小で彼のメッセージを受け取ってから彼への返事を書くことにした。

しかも謹慎中(正しくは出社自粛中)の今は絶好のタイミングだ。と考えておれはハタと気付く。

「kuitはおれの今の状況を知った上でこのメールを送ってきたのでは?」

それは十分にあり得る話だ。チャットルームから抜けるときにkuitは自らのアカウントを消し、管理者の権限をおれに譲ったが、その後おれは当然管理者パスワードを変更した。しかし実は既に彼にクラッキングされていた、とも限らない。一挙手一投足を見守っている、というのはそういう意味だと取れる。おれの管理するサーバーが?いや、kuitが相手ではさしものおれも敵わないだろう。そして彼が今日の会話を見ていたとしたら、間違いなく事のあらましを理解しただろうし、少なからずおれが社会的にマズい状態になっていることくらい容易に想像がつく。

しかしそんなことはどうでも良い。kuitがおれに何かを用意してくれている。そう考えるだけで心が浮かれた。

彼のことを思い出すのも本当に久しぶりだ。最近は完全に管理者としての立場に馴染んできていてある程度惰性がなかったとも言えない。しかも仮に相手がkuitだとしても自分のパスワードをクラックされていた日には管理者の名折れだ。そこも含めて今のチャットルームの状況を見直す良い機会なのかもしれない。

ちなみにこのチャットルームには名前がある。

《SOULFLY》

ソウルフライ。魂が漂ってるとかそんな意味だが、名付けの経緯は不明だ。でもなんとなく皆この名が気に入っている。

首を鳴らしながら立ち上がる。一度冷蔵庫の中から350のビールの缶を取り出すが、適当なところで切り上げて寝る事を考えてここは烏龍茶と交換した。酔い覚ましがてら窓を4分の1くらい開けて冷えた空気を招き入れ、窓際に座ると本日最後のタバコに火をつけた。




SOULFLYはkuitが管理者をやっていた頃からメンバー個々の入れ替わりはあれど、人数はさほど変わらなかった。日々コアなトークが繰り広げられ、さらには何かネタがあれば機会に乗じて世に対してアクションも行っていく。そんな集団に面白がってついてこれる人間はそれほど多くはないのだ。さしずめ、プレミアムメンバーといったところだ。総じて皆クチが悪く過激、悪ノリ好き、そして社会通念よりも自らの価値観を優先して行動するというポリシーを共有していた。

おれはそんなクソ野郎どもに愛着こそあれ嫌悪感を抱いたことなど無い。そもそもメンバー集めというものは管理者の嗜好の現れなのだ。皆が自分と同じだと日々確認してホッとできるというのも事実なのだが、彼らSOULFLYのメンバーに囲まれていると様々な社会的観念について通常よりもハードルを下げてくれるところが心地良いというのもある。社会ではハッキングやコラージュの名手だとしたところではっきり言って使い道がない。ハッキングならそれを転じてセキュリティのため、コラージュが得意ならそれは画像処理の腕が良いということなのだから出版系の仕事などが向いているのだろう。しかし、それとこれとは違う。何が違うのかわからない浅田のような輩には一生わからないのだろうが、わかるやつにはわかる。

実際おれは前々職を1年足らずで辞めている。理由は非常にシンプル。「面白くなかった」からだ。

もっと世の中「面白いか」「面白くないか」で判断して良いと思う。ほとんどの問題がそうだと言って良いと思う。なんてことを発言したら社会では一気につまはじきものだ。なので当然おれも言わない。

しかしSOULFLYでは全ての判断基準は「面白いか」「面白くないか」であり、そんな世界をおれは求めていたのだ。結局転職もうまくいかず面白くない生活を続けていたおれはふとしたきっかけで旧メンバーの一人に推薦をもらい、このグループへと招待された。

当時からすでにkuitはカリスマ的存在で、コミュニティに加わったばかりのおれにも皆の態度からありありと感じ取れた。あるものは彼に判断を求め、あるものは彼に諌められ、またあるものは、大げさではなく、彼に生き方を教わった。

とはいえkuitはおれたちを抑圧的に縛ることはなかった、そもそもSOULFLYに顔を出す頻度もさほど多くはなく、仮に来ても長時間入り浸るようなことはなかった。そうするとその間、日頃おれたちはバカ騒ぎと非社会的行動を繰り返しているわけだが、たまに彼が顔を出すと、冷静な口調ながらそれは面白そうに皆に声をかけて帰る。コミュニティの古株も新人のおれにも分け隔てなく。

荒々しく、穏やかで、まったりとしていて、激しい、そんな空間がとても居心地良かった。

おれがそんなことを感じ始めていた頃にあの《祭り》は起こった。


すでに炎上気味のプロフがある、と情報を持ち込んで来たのはおれよりも少し前にSOULFLYに加わったというzazenだった。

「メス豚はけーん」

すぐに食いつくメンバーたち。おれはそういえばその時も今日と同じカップラーメンを食べていた。

「ウェルカム!メス豚!」

「情報よこせコラ」

「おー起きててよかった」

「zazenからのネタフリとは珍しいな」

「きたきたー」

皆の反応に対して意気揚々とzazenが応える。

「そろそろおれもSOULFLYの立派な一員ってことでね。リンク送るぜぃ」

貼付けられたリンクの先は女子高生のプロフで、写真を見ると黒髪のセミロングにパッチリとした目。高校生にしては若干大人っぽい整った顔立ち。プロフの写真にも関わらずおちゃらけた感じではなく真面目そうな所作は好印象だ。細かい個人個人の趣味趣向のことを言わなかったら10人中9人は「カワイイ」と答えるレベルのコだ。

しかし一方サイト自体はどうもヒドいことになっていた。

「すげぇ盛り上がってんな」

「オウオウ豚っぷりがオウ」

「いいねぇ、こういう痴情のもつれって酒の肴にサイコー」

「もうひといきだね」

「オトコもオンナも終わってんな」

その炎上まだボヤかの内容をかいつまんで言うと、物語の始まりはその高校1年生の女子Aが部活の3年生の先輩男子Bのことを好きになり、積極アピール。その結果女子Aと先輩Bは付き合うことになったのだが、実はそのBは同じ部活の3年女子Cと付き合ってたのをわざわざ別れてAと付き合ったのだ。よくある話だ。

そしてそれをしばらくして知らされたAは複雑な気持ちを持ちながらもBと付き合い続けたが、Cの執拗な嫌がらせを受け続け思い悩む。そして勇気を持ってそれをBに打ち明けるが、BはCに怒りの矛先を向けるばかりでAの痛みに同情を感じてくれない。逆にBはCに対して気を取られる時間が増え、AのBへの気持ちは加速的に冷めていった。そしてとうとうBへ別れ話を切り出すA。当然Bはそれを拒否する。しかし疲弊しきっていたAは一方的にその場を押し切る。

チャンスとばかりにCがBへアプローチをかける。「あんなガキより私の方が良いでしょ」と言ったかどうかはわからないが、Bは再びそれを突っぱねAとの復縁を訴える。「おれは何も悪くないだろ!なんで別れるんだよ?」その一言でAはBとやっていけないと考えていたのだ。結果Bのアピールは裏目に出て、Aはより一層Bを避けるようになる。

そして現在に至る。

BとCそれぞれのAへの愛憎、それらがかけ合わさった結果がプロフへの書き込みから滲み出ていた。

SOULFLYのメンバーといってもそこは人の子、さすがの荒れ具合には目を覆う思いだった。いや、嘘ですヨダレ出てました。

さて、A本人としたらここのことは既に放棄したつもりなのだろう。しかし、依然畳み掛ける中傷と暴言は、まだ何も終わっていないということを強く主張していた。

何でそんな詳細な経緯を知ってるかって?kuitが光の速さで調べてくれたのだ。どこから情報をひっぱってきたのかなんてわからないが、ものの10分後にはこの感動小説がSOULFLYのメンバーには配られていた。

そしてそのさらに10分後には自称マルチクリエイターのnobi(三ノ輪結女の見事なコラ画像を作ってくれた天才)が装丁を付け、電子書籍が作成された。そしてそれとほぼ同時に情報屋のbobo(おれが警察だとにらんでいるやつ)からA、B、Cそれぞれの同級生たちのメールアドレスのリストが提示され、すぐさま彼らに向けてその電子書籍が配布された。

考えてみたらこの時がSOULFLYの破壊力をリアルに感じた最初の瞬間だった。

おれがそれまで見てきた常識では量りきれない非常識集団。

愉快極まりない。

しかしその時誰かが言った。

「まだちょい物足りないねぇ」

一瞬、皆の書き込みの手が止まる。その刹那におれは痛烈に思った。「おれも何かやりたい」

おれにできることは少ない。しかしそれは種類の次元で見ると少ないだけで、ここで十分に活かせるだけの深さはあるつもりだ。むしろこの瞬間にこそ最も適切な能力。

ハッキングだ。

ITセキュリティを学ぶということは、ハッキング手法を学ぶこととほぼイコールだ。特に前々職の会社は業界最高峰の技術を持っていて、つまり他社のシステムからはハッキングされず、他社のシステムをハッキングできるだけの能力におれは鍛え上げられていたのだ。その腕を用いれば個人のPCへのハッキングだなんて簡単極まりない。

おれはすぐに先輩Bのネット上での所在を捉え、都合良く起動中だった彼の自宅PCへと潜り込んだ。無防備なことに先輩BはP2Pのファイル共有ソフトを使っていたため、ハッキング作業自体はハナクソをほじりながらできるぐらい楽勝だった。

めぼしいファイルを見繕うと自分のローカルにコピーし、痕跡を消しながら撤退する。

すると、収穫は予想以上に大きかった。

BとA、Cそれぞれとのメールのログ。写真フォルダにはそれぞれと遊びに行った時の写真が割ときれいに整理されていた。そして最大の成果は《秘密》と書かれたフォルダ。「秘密にしたいものに《秘密》って書いちゃダメだろ。《不要》とか《旧ファイル》とか書けよ……」と心の中でツッコミを入れながら開くと、それは、写真だった。

画面一杯に広がる肌色。

絡み合う肌色。

時折カメラ目線で恥ずかしそうに局部を隠す肌色。

当然隠せていないものの方が大半な肌色。

そんなフォルダだった。

先ほどプロフで見た写真と比べたところ、これは女子Aのもので間違いない。

思わぬ大収穫に奮えると同時に無理矢理脳ミソに冷静さを要求する。ここはクールに行け。この《高級材料》をどう調理するかが今後のおれの立場を分ける、というくらい深刻に考えていた。誰かを頼るのはカッコ悪いが、boboのお陰で既に関係者のメールアドレスはひととおりわかっている。これは利用させてもらおう。

とりあえず一回抜いて落ち着いてから、結局おれは厳選した数枚を女子Cへと送ることにした。

あとは女子Cが何なりとアクションをおこなってそれが明るみに出れば、と考えながらタバコに火をつけ一息つく。爽快な深呼吸だ。

「おーい、ringはいるのか?」

ringとはおれのアカウント名だ。名前の(わたる)から取って、輪、すなわち《リング》としている。

「オイ、2秒で返事しなかったらコロスゾ」

おれは急いでキーボードを叩く。

「ただいまー。ミッションコンプリート。やっほい」

「ミッション?」

すでにチャットルームは別の話題へと移行しかけていた。すかさず「それは興味がありますね」とはkuitの書き込み。

この呼び水にまたおれは悩んだ。せっかくkuitが機会を振ってくれているのだから「これしめたものだ」と説明口調で今日の大収穫について偉そうに語ってもよいのだが、それは不思議と抵抗感があった。一種美学に近いものなのだと思う。自分の成果について自らで口にするという行為は、その成果自体をおとしめることになるように感じた。

その時、うまい具合に助け舟が入る。zazenだ。

「ちょっと見て見て!さっきのリンク!」

皆が一斉にリンクを探っている空白の時間、おれはすでに開いていた女子Aのプロフをリロードした。すると狙い通りの光景が広がる。書き込みには疑惑を投げかけるものも多かった。

「合成じゃないのか?」

しかし事実は事実。ねじ曲げることはできない。これは一点の曇りもない本物だ。

見るものが見ればわかるし、何よりそれらしさがあればそれで十分だ。加えて本物とあればこの破壊力はおれの想像を超えた。

クチコミがクチコミを呼び、すでにサイトは女子Aとも先輩Bとも先輩Cとも全く関係のない人間どもで溢れ返っていた。こりゃサイトが落ちるか書き込みが管理者側に消されるのも時間の問題だな。そう判断するとおれはここまでのログをローカルに記録し、チャットルームへと戻った。

その後、おれはサッカーの試合で点を決めた選手のごとくにもみくちゃにされ(チャット上で)そうしてSOULFLYのメンバーとしての立場を確立した。


そしてその翌日、女子Aは自宅で首つり死体で発見された。


以降、メンバーの誰もそのことをクチにすることはなかった。すぐさま次の盛り上がるべきターゲットが出てきた、ということもあったのだが、そもそもさすがに人が死んだ話を聞いて愉快になるほど非人間的ではない。面白くならない話題を取り上げることはSOULFLYの中では絶対のタブーだったからだ。

「面白いか」「面白くないか」

それを絶対的な判断基準として置くというのは、すなわちそういうことなのだ。

特にzazenは自分のネタフリをおれに持っていかれたのが気に入らなかったのか、結果に納得がいかなかったのか、それからしばらくの間大人しくなってしまった。


タバコの最後の一息を吸い込み灰皿に押し付けると、ふと、kuitとの直接のやりとりはあの事件以来のものであることを思い出した。管理者権限の移管も事務的だったし、チャットルームにもほとんど顔を出さなくなっていった。一度kuitがどうしているのかが気になり一番古株のboboに訊いてみたこともあったが、彼もよく知らないとのことだった。

そんな彼からの久しぶりのコンタクト。さらに明日の待ち合わせ。まるでデートの前日の気分だ。いや、まともに人並みの恋愛をしてきていないおれはそんな高尚な感覚を持ち合わせていない。

とにかく楽しみ。まぁそれでヨシとしよう。

さて、明日はいつ頃に行くのが良いのだろうか。kuitは「明日」としか言っていなかった。これはつまりおれの自由にして構わない、という意味なのだろう。とはいえ神御黒小学校はすでに廃校になっているわけだから、電気がきていない可能性が十分にある。とすると昼か。極力早いうちに神御黒小にたどり着けるよう、明日は朝起きたらそのまま現地へと向かうことに決めた。



さながら遠足の気分だ。


そういう意味合いで、案の定寝過ごした。


昨日はほぼ一日家でゴロゴロしていただけだというのに、よりによってこの大事な日の朝を寝過ごしてしまう怠惰な身体を心底恨めしく思う。

朝飯はコンビニで買えば良い。とにかくまずはヒゲだけ剃って顔を洗った。そして最近少し太腿がきつくなってきたカーキのチノパンに無理矢理足を突っ込み、上は何を着るべきか迷ったがとりあえずかしこまった体裁で襟付きのシャツにした。最後に、一昨日あたりから若干肌寒いことを鑑みて茶色のスプリングコートを羽織った。割としっかりとした恰好になっている。まるでこれから営業に行くようだ。

鏡に向かって髪の毛を手櫛で2、3回なでると右後頭部の寝癖が若干気になったが目をつぶることにした。時計の針はすでに12時を指していた。

神御黒小までは最寄り駅から急行で30分、さらにそこから徒歩かバスかという感じだった。案外近い。

コンビニで買ったカレーパンにかぶりつきながらホームで電車を待っていると、コートのポケットの中の振動を感じた。こんなときに電話だ。それも課長から。一瞬「バックれるか」と頭に浮かんだが、謹慎中の人間が「すみません、忙しくて電話取れませんでした」ではスジが通らない。とはいえ騒がしいところで電話を取るわけにもいかない。

仕方無くホーム近くの便所に入ると身を隠すように縮こまって通話ボタンを押す。

「はい……指宿です」

「もしもし、指宿くんかね。ん?周りが騒がしいが、ちゃんと大人しくしてるのか?」

相変わらずデカイ声だ。恫喝課長と呼ばれるだけのことはある。彼に中身は何もない。ただ声がデカイだけだ。

「いや……今は……食事に出ているところで……」

「ああ、それはそうだな。メシを食わなかったら死んじまうからな」

電話口でケタケタ笑っている。極めて腹立たしい。ていうか今すぐお前が死ね。

「電話したのはな、キミがこういう状態になってだな。おれも担当の再編成をしなきゃならんわけだよ。わかるか?第一な」

ここから5分くらい、やつのどっかの本からパクった組織論のご披露と、つまるところ「お前のせいで面倒なことになった」という愚痴が続いた。とにかくおれはひどく大便が詰まった人のように足が痺れるほど便器に腰掛け、頭を垂れたままひたすらに耐え続けた。なぜ5分くらいかというとその間に急行と各駅がそれぞれ1本ずつ通り過ぎたからだ。場内アナウンスや鉄道職員の安全確認の合図が響くたびにおれはバレやしないかとビクビクしたが、その間アホ課長は《どれだけ息継ぎをせずにしゃべり続けることができるか》という世界記録にでも挑戦しているように必死で、外のこともおれのことも全く意に介していない様子だった。

電話相手のことを意に介さない、って、何のために電話しているんだこいつ。幼児教育用の《お電話キット》でも買い与えてやろうか。

「……でだな。朽津木研究室の件だが」

よりによって一番聞きたくない話題だ。

「……あの……ある程度話は聞いてますんで……」

「あ、それは昨日の話か?結局どうしようか考え中でな。それで電話したんだよ」

意外な発言だった。昨日から状況が変わっている?

嫌な予感がした。

「キミがこういう状態だから浅田くんに担当を替えようと考えてた。知っての通り朽津木研究室はうちのお得意様だからな。営業の穴が空くことは許されない。営業の本質は《すぐそこに在る》ことだからな。何かあったら相談できる。何か欲しいな、と思った時にすぐそこにいて話を振ってもらえる。そういう地道な努力の積み重ねが後々の大きな売り上げを築き上げるわけだ。したがって誰かを早急にアサインするべきだ。そこで今ちょうど浅田くんが大沢工業の案件が設置まで終わってあとはアフターフォローだけという形で手があいていてな。そのまま当てはめようと考えた。至極妥当だろ?」

何が妥当だ。断言しても良い。今やつが読み上げた《文面》の9割は浅田が言った言葉そのままだ。やつには脳ミソなど無い。断言しても良い。

「はぁ……おっしゃる通りかと」

しかし面倒は御免なのだ。

良いと悪いとか、好きと嫌いとか、それらはお互い双極を成すものではなく「良い」の反対も「悪い」の反対も「好き」の反対も「嫌い」の反対も「どうでもいい」だとよく言われる。そのとおりだとおれは思う。良いとか悪いとかの結論を求めた時点でベクトルは合っている。その結果が良いのか悪いのかはあくまで結果や価値観でしかなくて、全く相容れない可能性がある、どこまで行っても交わらないようなものではない。つまり好きも嫌いも《ちょっとズレたベクトル》であって、《絶望的な逆向きのベクトル》ではない。

その点おれの持っているベクトル、特に仕事において抱えている感情というベクトルは彼らとはおよそ交わる可能性がない。おれは全てが「どうでもよい」のだから。

「良いのか?ちょっとの理不尽さはあるだろ?朽津木研究室がお得意になっているのだって、ここ数年の話だ。その間の担当はキミだったわけだ。最初の契約にこぎつけるまでのハードルや日々足を使って通い続けた成果としてお得意様関係が続いているわけだから、言い換えればキミの成果じゃないか。それを取られるだなんて納得いかないだろ?周囲にもそれでは示しがつかない」

これの9割は杉浦の言葉なのだろう。ありありとわかる。

「はぁ……」

その後はまた、今度は何分だったんだろうか、途中で数えるのが面倒になってしまうくらいの間おれの仕事に対するスタンスやこれまでの成果量、営業努力、身だしなみ、口調、製品知識、エトセトラ。途中でもうすっかり引いてしまって(実際、電話口から50センチくらい離れて)ただただ聞き流していた。この人はおれをどうしたいのか?フォローしたいのか?けなしたいのか?励ましたいのか?へこませたいのか?わからないのは当たり前だ。この人に意見なんてないのだから。それならば流してくれればいい。周囲の流れに沿って流してくれればおれはそこを流れていくのだ。

自分の意見を持たない電話口の相手と、万事「どうでもよい」と思っているおれではケリがつくわけがないと判断して切り出した。

「……あの……大変申し訳ないのですが……一旦現状として、しばらくお時間をいただけませんでしょうか……」

伝家の宝刀だ。「一旦現状」がポイントで、最終的にはこれから生まれる《現状》の流れに任せれば良いのだ。

恫喝課長にもこれはそれなりに効果があったようで、その後の小言はプラス10分程度で済んだ。

「はい、はい、わかりました。それでは失礼します……」

通話停止を押し携帯を閉じ、おれは深く嘆息した。その息に乗って流れるようにこぼれ落ちた言葉。「死ね」結局それは意味も無く宛先も無い戯言で中空を漂っていった。

おれはふと先ほどの携帯画面の残像を思い浮かべ2つの意味で冷や汗が出た。ひとつ、時間がすでに13時を回っていた。ふたつ、電池残量が既に20%を切っている。長時間通話と……よりによって昨晩充電し忘れたようだ。

最悪の気持ちで便所を出るとちょうど列車がホームに入ってきた。満身創痍でそれに乗り込むとドアから一番近いシートに向けて自由落下のごとく座り込んだ。



電車を降りるとおれはバス乗り場を探した。初めて降りる駅だったので勝手がまったくわからない。重い気持ちを切り替えて改札を出た正面にある案内板と向き合う。あのクソ課長のせいだ。畜生。

小学校が廃校になるようなところということで元々想像していたとおり、駅周辺は閑散としていた。たかが電車数駅分でずいぶんと田舎っぽい雰囲気に変わってしまうものだ。

東京都民ならばみんながみんな《都会人》だと思っているとそれは大きな勘違いだ。窓から見える光景は埼玉や千葉、その他の地方都市で見るそれよりも遥かに、なんというか落ち着いたものだった。空気が1度くらい冷たくなっているように感じる。

案内板とさほどにらめっこする必要もなくバス乗り場はすぐ発見できた。バス路線も3、4路線しかないようで迷う余地はなかった。おれはすぐに目的の乗り場を探し当てると停車位置のすぐそこにあるベンチに座り込んだ。携帯は……電池が少なくなっているから使用を控えよう。kuitから連絡があるかもしれないし。


同じ車両に乗り込んだのはおれの他には右手にハンドバッグ左手には土産物らしき手提げ袋を下げた背の曲がった老婆が一人だけだった。本当に閑散としてる。こりゃ廃校にもなるわ。仮におれが結婚していて子供がいたとしてもこの土地に住みたいとは思わない。

確か聞いた話では、神御黒小が廃校になる数年前まではここら辺もそこそこの規模の街だったんだとか。しかし当時の市長が強攻に進めた改革が軒並み大失敗し、企業誘致、イベント開催、もろもろ全てコケてしまって大赤字を抱えたんだとか。それを受けて市長はさらなる愚行を重ねた。市民税の増税に踏み切ったのだ。すると当然のごとく、土地に思い入れの薄い若い世代から順に離れていき、子供もいなくなり、彼らをターゲットにした商店が撤退し、当然税収は下がりより一層の財政悪化をもたらし、そして都内のデッドスポットが出来上がった。窓から見える光景には人影も、開いた商店も、コンビニですらまったく見られない。まるで歴史から抹消された土地のようにひっそりと、ただただゆっくりと滅び行くためにそこに在るかのようだった。

「あの……」

消え入るような声。

「あの……すみません……」

ひょっとしたらおれか?当たり前だ。このバスには三人しかいない。

「すみません……」

振り返ると先ほどの老婆が手すりにつかまった状態で中腰になりおれに目線を送っていた。おれは突然のことにかすれた声で応えた。

「はい?」

老婆はおれからの反応を得たことで、ようやく居心地の悪さから解放されたという表情を見せる。

「あの……次のバス停とその次のバス停だと、神御黒公民館ってどっちの方が近いですか?」

「あ、おれ、あの……」

「一度来たことがあったんですけど、忘れてしまって」

「あー、うん、うーんと……」

おれが言葉に詰まっていると前方で淡々と運転していた運転手が助け舟を出してくれた。

「お婆ちゃん。神御黒公民館は次の次、多坂上(おおさかうえ)のバス停ですよ。次のバス停は旧神御黒小学校前。降りても近くには何も無いですよ」

「あ、そうですか。ご丁寧にありがとうございます」

老婆は運転手に向けて深く頭を下げて、そしておれに軽く会釈して自分の席へと戻っていった。

「あ、すみません。おれ、次で降ります……」

「はい。次の停車駅、止まります」

なんとなく展開のせいで言ってしまったが、ちょっと早過ぎたようでその後しばらくの間バスは森緑の中を走った。

「失礼ですが、廃墟マニアの方とかですか?」

突如運転手が前方を向いたままバックミラー越しに話しかけてきた。

「いやぁ、たまにいらっしゃるんですよ。ほら、神御黒小って結構立派な建物ですし。それに、《いわく》も、ねぇ」

おれはしばらく考えたが結局適当に答えた。

「……ええ。そんなものです」

《いわく》とは例の少女殺害事件のことだろう。確かに廃墟と殺人事件がセットになれば、そりゃその筋のマニアは小躍りして喜ぶに違いない。

「この路線、見てのとおりですので。例え廃墟でもなんでも構わないから人気が出てくれないものかな、なんて思うんですけど」

「いやぁ、以外と有名ですよ」

おれはまた適当に答えた。次の質問のためにも。

「今日は……先客がいそうですかね?」

「うーん。いや、今日は常連さんのおじいちゃんが一人降りただけですね」

その言葉を聞いて少し安心した。kuitは少なくともバスでは来ていない、ということだ。願わくはおれより先に着いていないで欲しい。さながらデートの待ち合わせの……いや、無意味な形容は止めよう。

おれは小銭を支払い、バスを降りると、降り際に運転手に教えてもらった方角へと歩き出した。神御黒小は小高い丘の上にあり、周囲はさほど背が高くないが森林に覆われていて見える範囲には集落も無い。

「本当に、学校しかないところなんだな……」

しかも丘の上。どうやって子供たちは通学していたのだろう。通学バスでもあったのか?それとも以前はもっと開けていたのだろうか。その解答はものの数分歩いた先に校舎が見えるてくると、すんなりと理解できた。

極めて斬新な形状に広大な敷地。お台場で見たことのある建物を一瞬思い出した。何だったっけ。校舎は5階か6階建ての全面ガラス張りの構造をしていて、一方その隣にある体育館らしき建物の表面には何かしらのデザインがほどこされていたようだ。すでに塗装は剥げ、砂やツタにまみれているため、そこにあったであろうアートの兆しを感じることはできなかった。

校庭はサッカー場が2面取れるほどあり、その緑色と灰色の入り交じった残骸が示しているようにどうやら人工芝だったようだ。校庭の脇にはネットで区切られたラバーコートが4面、それぞれテニスやバスケットボール、ハンドボールなどで使うらしき線が引いてあった。線はかすれて一部やその大半が無くなっていたのだが、それらスポーツの基本的なルールすら把握していないおれにとってはその不完全な線が織り成す欠落した幾何学模様はどれも似たようなものに見えた。

とにかく広大な敷地に押しつけがましいほど近代的な建物。つまり相当なお坊ちゃんお嬢ちゃん学校だったのであろうことが容易に推察できた。送り迎えの爺やの生き霊が見えそうだ。

「これは、廃校っていうよりは廃業か……」

例の市長の時代に誘致の流れに乗って参入してすぐに撤退、というところなのだろう。ま、どうでもいいことだが。

おれは一度、この広大な神御黒小の全景が見える位置で立ち止まって考えた。この校舎の中でちゃんとkuitと出会えるのか?お互い動くものを見つけたらそれが相手であることには疑いの余地が無い状況だが、なんとなしに仮にkuitの方がおれを見つけたとしても声をかけてくるようなことはない気がしていた。わざわざおれをこんなところに呼び出して自分から「よ、久しぶり。あ、面と向かって会うのは初めてだったっけな」では全くもってkuitのイメージに重ならない。もっと遊び心を持ちながら、おれを泳がせ、用意してある何かをおれに見せ、そして最後は迎え入れてくれる。そんな展開をおれは期待していた。

そうとなったらまずは探索だ。敷地内外を探索してまずはkuitのメッセージを探そうではないか。おれは張り切って、以前は正門を構成していたらしき2つの門柱の間を通って校舎へと向かった。



鬼ごっこ、隠れんぼ、宝探し。どれも楽しかった思い出なんて無い。

平均点的なルールにのっとったゲームは得てしてその平均点から外れた人間には楽しめないようにできているのだ。運動神経もそれを補う知略も無いおれは、とにかく時間が過ぎるのを待って過ごしていたものだった。

しかし、今日のkuitとの鬼ごっこのような宝探しのような隠れんぼのようなゲームは別格だ。おれは夢中になり時間が経つのを忘れた。校舎内を隈無く捜索すると手書きの見取り図に順にバツ印を付けていった。

おれは数時間かけて全ての部屋にバツをつけていったが手掛かり無し。しかしおれは徒労感どころかほぼ全てを回りきってからこそがさらなる楽しみだとすら思っていた。

「ここにはおれの現状の理解を越えるものがある」

見落としにワクワクすることなんて普段あるわけがないが、今日に限っては見落とし、ミス、勘違い、既成概念は全てこのゲームを楽しむためのスパイスのようだった。おれは何かのレクリエーションホールらしき広い部屋で歩みを止め、タバコを吸いながら一時思考することにした。

全ての部屋は回りきった。そして取り立てて何も無いことは確認した。全て廃墟だ。ところどころ小学生が書いたらしき黒板のメッセージがあった。「これがひょっとしてkuitの暗号か」とも考えたがどうにも結びつきを見つけられなかった。純然なるラクガキにしか思えない。したがって一度その線は捨てることにした。

「そうすると……隠し部屋?」

自らのスムースな思考に感嘆する。そうだ。校舎の中を歩いて感じていた違和感は「こんな奇抜な学校の割に校舎内は割と普通だな」だった。何か仕掛けがあるくらいの方が、不思議と納得感がある。

おれはさらに重要な見落としを思い出した。

《神御黒小少女殺害事件》

そうだ間違いない。あの事件でも少女は首を絞めただけでは死なずにどこか貯蔵庫のようなところに閉じ込められてそこで餓死したんじゃなかっただろうか。

「チクショウ、もっとしっかり調べておくべきだった……」

おれは手のひらで太腿を叩いたが後の祭りだった。

しかし過ぎてしまったことは仕方がない。見つけてやろうじゃないか、隠し部屋を。

「ある程度のサイズの空間を隠すことができる場所か……」つまりは通常ならば地下、もしくはここの立地の特殊性を利用するならば山側だ。

地下なら1階の全てが候補、山側なら候補は限られる。1階の体育館側だ。効率を考えると体育館まで移動しながら1階の各所を見直していけば良い。そう判断するとすぐさまタバコを床で消して歩き始めた。


1階をなめて歩いたところでそれらしき物は見つからなかった。正確に言うと、おれは《体育館裏》に賭けていた。いや、半ば本能的に正解だと感じていた。

スッと入ってくる感覚。一本に繋がった感覚。

幸福なことにその感覚は裏切られなかった。

おれは2人がギリギリすれ違える程度の幅の通路を生い茂った草木を踏み分けながら体育館裏へと進んだ。そこには少し開けた空間があり古く錆びた焼却炉が設置されていた。ゴミの収拾コーナーかと一瞬思えたがよく考えると他のゴミを置くようなスペースは無い。如何にも不自然だ。

おれは焼却炉の扉を開けて覗き込んだ。案の定明らかに焼却炉として使っていた形跡がない。灰なども落ちていないし、汚れも無い。第一に焼却炉にしては扉も中の空間も広過ぎる。4つんばいになればかなり大柄な大人だとしても余裕で入れるサイズだ。安全性を考えてもこれが焼却炉であるはずがない。

ライトの類いは持ってきていなかったのでジッポを取り出し、火をつけた。そして注意深く焼却炉の中を見渡すとその向こうにさらに別の鉄の扉を見つけた。やはり焼却炉自体がダミーでその扉が本命だったのだ。

おれは立て膝の姿勢で焼却炉の中へ入ると自分の身長の半分程度の第二の扉を開けた。

中は真っ暗で何も見えないが、扉を開けた音の反響から、かなりの広さであることが伺えた。信じ難いがひょっとして体育館1個分くらいあるのかと思えた。

一歩目を踏み出す。第二の扉の中は余裕で立ち上がることができた。手を上に伸ばしても天井には届かない。それどころか天井は相当遠くにあるように感じた。おれは内部に向けて目を凝らしたが依然内部を見渡すことはできない。ジッポの光はひどく指向性が広く、目的のものを照らすためにはあまり役に立たないのだ。

中へ進むしかない。一歩一歩と中へ進むたびに温度が1度ずつ下がっていくように感じた。ピンと張りつめた空気の中で反響する靴の足音。その反射は音の周期をメチャクチャに乱し、まるで何人もがそこにいるようだった。

「あ」

なんとなく声を上げてみた。反響は勝手なハーモニーを生み出し、音がどこから生まれどこへ行ったのかを認識不能にした。そうすると人間の脳ミソは不思議なもので、自分の頭の中から聞こえているように感じるのだと何かの教養番組で観た記憶がある。その時はどうでも良い話だと流したが、自分が発したものを自分で享受しているだけにも関わらず、物理的空間は広いにも関わらず、心理的には狭く自分の脳みそしか世の中には存在していないような神秘性を感じると、あながちそれらも無意味なようには思えなかった。

「神秘だなんていつからおセンチになったんだかー」

もう一度声を上げる。反響音は混じり合ってまるで他の言葉のように聞こえた。自分の台詞ですらないように聞こえた。そして別の台詞が聞こえた。


「や、っ、と」


背後なのだろうか。脳内なのだろうか。やたらボヤケた感じの声が聞こえた。

頭部に直接打ち込まれたような声だ。

冷静に考えて自分の台詞ではない、幻聴でもない。

その声がどこから生まれたナニモノなのかが気になったが、おれは振り返ることも顔を上げることもできなかった。そう思ったときには既に身体が言うことをきかなかったからだ。

ただ、唯一動いた左手で後頭部を確認するようになでる。ヌメッとした感覚。連続して押し寄せる巨大な頭痛。

これは内部からなのか?外部からなのか?

いや、どっちでもいいよ。

え、なんだろ、おかしいだろ。

kuitは?

いやいや、まだおれ彼に会ってないし。

ちょっと待ってよ。おれ今日の目的がさ。

あれ?kuit?kuit?

おれは叫び続けた。


「kuit?」


きっと叫んではいないんだが、とにかく叫び続けた。



"< 三ノ輪の章 SUN ― >" へ続く


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