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気化熱は夢を冷まして

ああ、ここにいる観客たちは既に自分が何処にいるのかもわからなくなっている事だろう。瞬きの一瞬も惜しむようにして彼らは役者を見つめている。きっと、感覚は全て舞台に預けてしまっているのであろう。初めて演劇を見に来るせいか最初はキャアキャアと騒いでいた妻も、今では食い入るようにして舞台に目を奪われている。

私も、身体から離れていく五感を感じてはいた。しかし、どこか冷めた目線で舞台を見つめている自分がいつまでも居座っている。見つめているのは登場人物ではなく役者自身で、舞台ではなくステージで、その間に存在する日常を遮断する空間を見つめていた。

日常を抜け出せないでいる私には、スモークマシンが吐き出す煙の気だるい甘さがやけに鼻についた。

ホテルを背景とした舞台の上の息子は、今まで私たちが見てきた息子とは少し違っていた。少しばかり感情を作った声を張り、大げさな表情と動きで登場人物を演じている。息子自身とは違う人物としての振る舞い。それは奇妙なギャップで私の心に皺を寄せるように違和感ばかり生んでいく。

物語はクライマックスを迎えようとしていたが、私にはシナリオが一本道に作られた予定調和にしか感じなかった。泣くための会話と出来事、笑うための会話と出来事、その間を取り持つのは架空の非日常。きっと、そんな風に感じたのは私だけだろう。舞台と観客の熱が高まるのを感じると、そのたびに、その熱を持たない自分がつまらない人間のように感じた。

最後のセリフが終わり、幕がゆっくりと降りていった。大団円を迎えた舞台を彩る様に、観客からは割れんばかりの拍手が送られていた。

感動と笑顔に包まれたその拍手は、いつまでも続くような錯覚さえ覚えさせるほどであった。

場違いに無感情を抱えた私も、熱のない拍手を送った。


ホールから1歩外へ出ると、涼しい風が私を迎えてくれた。背中から先ほどまでの観客と舞台の熱気を感じ、舞台を見ていた時の居心地の悪さを思いだした。ホールから出てくる観客は皆、ざわざわと興奮した様子で外へ向かっている。

私の後ろに続いていた妻は腕時計に目を向けた。

「じゃあ、アタシはこのまま電車乗って行くからね」

「ああ、帰りは遅くなるのか」

「そうね、夕飯は篤史と済ませてもらえると助かるわ」

妻はこの後古い友人と約束があったらしく、興奮で頬を紅潮させたままパタパタと会場を後にした。自分の妻ではあるが、いつも彼女のバイタリティの高さには感心させられる。周囲との感情のギャップに神経をすり減らしていた私は、ホールを出たすぐそばの硬い椅子に身体を預けた。

会場のエントランスは壁も天井も白く、いくらか疲れていた私にはまるで発光しているかのように眩しく感じた。

少し離れた向かいの壁に、今回の公演のポスターが貼ってあった。舞台に立っていた息子の篤史がそこに載ってる。数年前まで毎日のように顔を会わせていたものの、ポスターを介して顔を見るとそういった現実感が薄れていくものだなと思う。

ポスターの篤史を見ながら、ふと、いつだったか私も演劇をやっていた事を思い出した。もう何十年前の話だろうか、私はスポットライトを浴びるような役者ではなかっただろう。

何を目指していたんだろうか、今となっては思い出せない。

なぜやめてしまったのか、強い決意があったようには思うが、やはり詳しくは思い出せない。

ぬかるみの足跡がいずれ形を失っていくように、私の記憶も形を失っていた。あるのは小さな水たまりばかりで、そこに溜まった水も少なくなっている。その水がキラキラと輝いていたかどうかも、今となっては思い出せない。

私の人生の一部に存在したはずの時間は、思い出にすら足るものではなかったのだろうか。おぼろげな寂しさは、鈍くやわらかな痛みを胸に与えた。


じわじわと胸に広がる甘い感傷に浸っていると、ゆるくアーチを描いた左の通路から、女性の声と聞き覚えのある声が響いてきた。嬉しそうにはしゃぐ声と、謙虚に挨拶をする男性の声。

ああ、この声は篤史のものだ。そう感づいたとき、丁度篤史の姿が見えた。

「ああ、親父」

軽く篤史が右手を上げる。合わせて、私も右手を上げ、笑顔を作る。

連れ立って姿が見えた女性は、篤史を応援しているファンの一人なのだろう。ペコリと会釈すると、はしゃいだ子供が駆けるように通路の向こうへと走って行った。

「なんだ、人気者じゃないか」

篤史は照れ臭そうに頭を掻く。

「あはは、ありがたい事にね、こんなアマチュアでも追っかけてくれてるみたいだよ」

息子が演劇を目指すと一方的に告げた時、私は悪い未来ばかり想像してしまっていた。道半ば挫折し、辛い思いをするのではないだろうか。もしかすると、そこから立ち上がれなくなってしまうのではないだろうか。

そのような心配を重ねていただけに、今日の観客の反応と、ファンが居ることには純粋に安堵感を覚えた。

「あれ?母さんは一緒じゃなかったんだ?」

先月篤史から送られてきたチケットは2枚あった。手紙も何もなく、恰好つけて送ったのであろうが、やはり私たちの反応は気にしていたようだ。

「母さんは友達と約束があるそうでな、もう行ってしまったよ」

そう伝えると、篤史の表情は安心したように見えた。

「そっか、母さんもまだ若いなあ、親父も元気そうで安心したよ」

篤史と会うのは2年振りだろうか、心なしか大人になったように感じるが、一々親を心配する様子に、なんとなく親離れできていないような印象を受けた。

ふと、いつも手をつないで歩いた幼少期を思い出し、思わず顔がゆるんだ。

「母さん結構感動していたよ、劇団に入った時は文句と愚痴ばかり垂れていたが、ありゃあお前の一番のファンかも知れないな」

照れくささからか、ははっ、と鼻で笑うようにして篤史は苦笑を浮かべた。

「まあ、しばらくすればまた文句ばっかり言うんじゃないかな?」

憎まれ口を叩くと篤史は私と目線をそらし、短く切りそろえた髪を掻き上げ、体を伸ばした。その仕草は間を取り持つための様に見える。

「親父さ、飯食った?」

親を食事に誘うのに照れを感じたのだろう、私にはそう思えた。そういえば、今まで篤史との食事はいつも私から誘っていた。

「まだだな、もしよかったら一緒に行くか?」

篤史は笑みを浮かべ、私の方を向いた。屈託のない笑顔は昔の面影がそのまま残っていると思う。

「親父、天麩羅好きだろ?丁度この近くに天麩羅の美味い店があるからさ、そこにしよう」

今日の会場は私の生活圏内から離れていて土地勘もなかった。もしかすると、今日の店は偶然近くにあったのではなく、篤史が前々から調べていたのかもしれない。

一々芝居がかった格好をつける男になったものだ。息子の成長は嬉しくもあり、透けて見える稚拙な計画性にほほえましさも感じた。

「わかった、そうしよう」

息子の可愛らしい計画に、私は乗っかることにした。

「よし、じゃあちょっと準備するから、親父は出てすぐの喫茶店に居てくれよ!」

言うが早いか、篤史は嬉しそうに小走りで駆けて行った。こういった行動力は母親に影響されたのかもしれない。

私は、篤史に演劇の話をしたことはなかった。だが篤史は篤史なりに、私の水たまりを覗き込み、役者に興味を持ったのかもしれない。それは私の考えすぎかもしれないが。

彼には、私の歪な水たまりの水は輝いて見えたのだろうか?

硬い椅子から立ち上がり、私は会場を出ることにした。

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