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相川律の機嫌は最悪だった。
鬱陶しい天気が続いている上に、ここのところ、ずっとスタジオに缶詰状態なのだ。それを選んだのは自分自身だが、腹立たしいことを抑えられる理由にはならない。
スタジオ作業が思うようにはかどれば、機嫌も上昇するだろう。だが、そうそう自分の思い通りに行ってくれるはずも、なく。
調整盤の空いた場所を、苛立たしげに指先で叩きながら、律はブースの中の人物を睨みつけるようにして見ていた。
こと音楽に関しては我儘を押し通し、周囲には理不尽大王の異名までいただいてしまっている相川律である。その妥協のなさが人気を呼び、現在、人気絶頂の音楽ユニット、《DARK BLUE》が存在するのだ。
だが、しかし。
今回に限っては、周囲のスタッフは律のその妥協のなさを恨むしかなかった。
事の起こりは、今から数ヶ月前。《DARK BLUE》のツアー中のことである。
そこで起きた一大珍事件は、既にスタッフの語り草だ。そのせいで、今のこの状況があるのだから、当然と言えば当然だった。
《DARK BLUE》の追っかけだった片想いの相手を追いかけて、飛び込んで来た珍客。それが、現在ブースの中にいる眉目秀麗な少年である。名前を、桜井健太と言う。
その外見とは裏腹に珍妙な性格の持ち主であるらしい彼は、あろうことか、その場で律に勝負を挑んだ。そのうえ、面白がった律がそれを受けてしまったことから、話は始まったのだ。
律が出した条件は、一つ。
まずは同じ位置に立てと、彼に言った。
つまり、芸能界にデビューして、《DARK BLUE》に追いつけたら勝負を受けて立ってやる、というとんでもない条件である。《DARK BLUE》はミリオン・ヒットを連発する有名アーティストであり、普通なら簡単には追いつけないし、追いつこうなどとは思わない。
幸か不幸か、律たち《DARK BLUE》の所属する事務所、桜井・プロモーションの社長の息子であった彼は、どういう手段かで父親を丸め込み、自分のデビューの段取りを取り付けた。
が、問題はその先だった。
一押しアイドル、ということで枠を取ったのはいい。それに、《DARK BLUE》がデビュー曲を提供することになった経緯も、まあ、特に気にするようなことでもない。そういうことは、よくある戦略である。
だが、しかし。
本当にスタッフを震撼とさせたのは、更にその先の展開だったのだ。
彼のレコーディングに立ち会ったスタッフは、全員がその場に凍りついたという逸話がまことしやかに流れてはいた。しかし、誰もその真実を語らない。
そんな逸話の果てに、全員一致、暗黙の了解でOKテイクとしたものにストップをかけ、平然とリテイクを指示した律の押しの強さに、結局誰も逆らえなかった。不承不承ながら、夜を徹しての作業に駆り出されているのである。
「……ストップ」
地を這うような声で、律がつぶやいた。
「り、律さん……?」
スタッフが恐る恐る声をかける。だが、彼はわなわなと震えているばかりで、その先が続かない。
何だか、次の予想のつきそうな展開に、スタッフは諦めの溜め息をつく。
「同じ所を何度外せば気が済むんだ、テメェはーっ!!」
ここに卓袱台があったらひっくり返しそうな勢いで、律が怒鳴り散らす。無駄に声量のある律であるからして、その怒鳴り声は半端ではない。
この作業が始まってから、何度となく聞いて来た罵声ではあったが、その勢いが衰えることはない。むしろ、疲労がたまって苛々が蓄積された分、迫力は当初よりも倍増中である。それはそれで、感嘆の域であった。
「俺だって、好きで音程外しているわけじゃないですよ!!」
ブースの中からも同じように怒鳴り返す声が響いて、二人は、ブースの内と外で息も荒く睨み合った。
「……ったく、ハイハイ、一時休戦。律もね、そうカリカリするなって。休憩しようぜ、休憩」
そこに割り込む、のんびりとした明るい声。
「……海斗」
振り返ると、そこに見知った顔がいる。
《DARK BLUE》における律の相棒、西沢海斗である。その明るい語り口そのままに、持ち前の長髪をオレンジの鮮やかな髪色に染めた彼は、《DARK BLUE》のギタリストだ。
律にとっては学生時代からの親友(悪友)であり、音楽をやる上で欠かせないパートナーであることは間違いのない事実だった。
「お前、いつの間に来ていたんだ?」
海斗がスタジオにいたことに気づかなかった律は、驚いたように問いかける。
「んー、一時間くらい前かな? 何か、真剣だったし、声かけづらくてこっそり後ろで見てた」
ほれ、差し入れ、と持っていた箱を差し出す。
小さなクーラーボックスを開けると、中にはいくつもアイスクリームが入っていた。
「ほーら、健太も休憩入って。今のまんまじゃ、お互い煮詰まるだけでしょ」
既に煮詰まっているのは周知の事実だが、そんなことを気にしていては始まらない。
海斗はボックスの中から適当にアイスクリームを選び出して、憮然とした表情でブースから出て来た健太に、それを手渡す。健太は黙ってそれを受け取った。
「疲れた時には、甘い物が一番!」
「そりゃお前の論理だろ」
すかさず突っ込みを入れて来る律を、海斗はじろりと睨みつける。
「んじゃ、食うな」
取り上げようとすると、律は子供のようにうなった。その様子に、妙な頭痛を覚えてしまう。
如何せん、この男は外見と中味にギャップがありすぎる。人形のような端正な顔をしていながら、口を開けば子供じみたことを言うのもしばしばなのだ。
「……うるせえ、食ったもん勝ちだ!」
そんなこんなで全員がなし崩しに休憩に入ることになり、海斗は黙々とアイスクリームを口に運ぶ律に苦笑した。この様子からして、レコーディングはうまく行っていないのだろう。
今までの流れから、ある程度は予想していたことではあったが、手痛い現実である。
「……どうよ、それで?」
「どうもこうもあるか。一向に進まねえ」
一応、本人を気遣って小声で聞いた海斗に、律はちらりと健太を見やってから答えた。こっちも小声である辺り、一応、少しは気にしてみるつもりらしい。
桜井健太のデビュー・プロジェクトは、デビュー曲を提供した《DARK BLUE》の律の一言で頓挫したままである。刻一刻と時間は進み、最後のタイムリミットまであとわずか。
だが、律の納得するような出来の楽曲は、上がって来ない。律が苛々するのも仕方がないと言えば、仕方がないのだ。
「お手本でも聞かせてやれば?」
「……俺が、か?」
「当然。それ以外に誰がいるっての。イメージが固まるとは思うけど。闇雲に歌わせたって無駄だよ、あれじゃ」
タイトルの意味は終わらない夏だったはずだが、その仕上がりを待っていたら、夏が終わるどころか始まる前に秋になってしまいそうである。
何が何でも、当初のデビュー予定日に合わせてトラック・ダウンを終えてしまわないと、プロジェクト自体が闇に消える可能性だって、あるのだ。
「シャレにならないだろ、それは……」
と、海斗はげんなりしてつぶやいた。それを聞いた律が、肩をすくめて見せる。
「ま、何とかするさ。手は考えてある。デビュー・イベントまで告知打ってんだから、何とかしないと」
「……マジで?」
「うん、握手会とかやるらしい。予約者と当日購入者に整理券配って、全国三大都市だったかな」
「じゃ、本気で間に合わせなきゃまずいってことか」
「そりゃあ、まずいね」
と、律はにやりとする。
デビュー記念ミニライブ、ではないだけ、健太にとっては幸運なことなのかもしれない。
律は食べ終わった容器をゴミ箱に投げ入れると、小さく溜め息をついて立ち上がる。
「おい、健太!」
足早にブースの向こうへ行きかけながら、律は怒鳴るように健太を呼んだ。
「今から俺サマが歌うから、よく聴いておけ! これが手本だっ!」
「あーあー、マジ切れ寸前って感じ……」
「……海斗さん、あれの手綱握っておいて下さいよ……。俺ら、完徹二日目っすよ……」
「そうは言ってもなぁ、あいつ、こういうの始まったら止まらないって知ってるだろ」
俺だって、あいつの鶴の一声で着たくもないフリフリ衣装を着せられたり、いろいろと大変なんだぞ、と、海斗は付け加える。
おかげで嫌なことを思い出したが、仕方がない。律の理不尽ぶりに振り回されるのは、学生時代からのお約束である。しかも、それがそんなに嫌じゃないから始末に負えない。
些かげんなりしながら、椅子に身体を投げ出す海斗の耳に飛び込んで来たのは、律の歌声だった。
歌っているのは、健太に提供したデビュー曲である『Everlasting Summer』だ。律が歌うと、全く違う歌に聴こえるのは彼の天賦の才の為せる業だろう。
「……相変わらず、すげえ声量」
感心したようにつぶやいて、海斗は、傍にいる健太に視線を移した。面妖な顔で歌を聞き入っている健太に、話しかけるでもなく言葉を発した。
「あそこまで歌えとは言わない。っつか、それ、お前には逆立ちしたって無理だし。けどさ、アイドルって言葉に寄りかかるな。確かに、アイドルには歌唱力なんて関係ないし、+αで勝負なんだけどさ。アイドルであるための努力ってのをさ、して欲しいわけ」
「アイドルであるための、努力……?」
「まさか、何にも努力しないでアイドルでいられるとは、思ってやしないだろ? 正直言って、歌なんか今の技術だったらいくらでも誤魔化せるんだよ。だけど、そこで妥協したらいつか足元をすくわれる。律がバカみたいに真剣になっているのは、そういうことなんだよ。お前が一番を目指したいって言うなら、そうあるために努力をしろってこと。お前がアイドルになろうとしている理由は俺にだってわかってるけどさ、それだけが目的だって言うなら、悪いけど、律との勝負なんか一生無理。追いつけない。追いつかせない。俺の言う意味、わかるか?」
「わかります、けど……」
健太が言いよどんだ、その先。彼が何を言いたいのかはわからなかったけれど、元気付けるように呑気なことを言ってみる。
「上手いか下手かなんて、関係ないの。アイドル力ってのは、そんなもんじゃないんだよ。お前、上手く歌おうと思いすぎて萎縮しすぎ」
「おら、そこ! 俺の歌を聴けっ!!」
「……ハイハイ、律さんのお歌はお上手ですよー。世界一、宇宙一」
「海斗、お前、俺をバカにしてるのか!?」
「してませんって」
そんなふうにどたばたしつつ、トラック・ダウンのタイムリミットまで、あと少し。