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「うーん、ひっさしぶりに現実に帰ってきた気がするなぁ」
ヘッドディスプレイを外しながら俺はこきこきと首を鳴らす。ぼんやりとした視界がだんだん覚醒してくる。ふと、カレンダーを見るともう3日が経過していた。我ながらずいぶんと長居してしまっていたようだ。最近、食事はずっと冷凍食品だったはずだから新鮮な食材は無いな。ここ最近はそんな枯れた食生活だったからここはひとつ、新鮮な食材で英気を養うとしようか。
時計を見ると4時を回ったところだった。近所のスーパーにでも行くとしようか。
さっと立ち上がり、部屋着から着替えることにする。大して気を使うとこでもないしポロシャツにジーンズといった、まさにモブ着といった服を身に着ける。ゲームとかアニメとかの背景に描かれる登場人物そのものじゃないかと自分でツッコミを入れてしまった。まぁ美人の幼馴染もいないし、突っかかってくるお嬢さまの知り合いもいないからその通りだけどね。
後ろのポケットに財布を突っ込み、個人用端末を左のポケットに入れる。これが俺の外出スタイル。ついでにトートバッグを持ち玄関を開け、てくてくとスーパーに向かうことにした。
今日は豚のしょうが焼きに赤だし味噌汁に決定。特売だったみたいで豚肉が安かったのはありがたかったな。米だけは買い置きがまだ残っていたから買っていない。次の買い物の時には買わないとまずそうだな。右肩にかけたバッグには豆腐や豚肉が調理されるのを待っている。30分もかかってないから帰ったら1時間くらいテレビでも見るかな。でも下ごしらえだけはやっておくか。そんなことを考えながら家路についていると、キキーッという甲高いブレーキ音が聞こえてきた。おいおい、こんな近所で事故でもあったか? とりあえずやることは野次馬といこう。
いつもの道から少し外れた交差点が事故現場だったようだ。そこには倒れたバイクとボンネットが思いっきりへこんでいる自動車。そしてピクリともしないバイクの運転手が横たわっていた。道路にはヘッドライトや指示器の物と思しき白やオレンジのガラス片が散乱している。集まった野次馬たちは口々に大丈夫とかひどいとか言っているが通報はしたのだろうか? まぁこういう時は自動車に乗っていた人がやっているはずだ。それか最初の野次馬1号がね。何度も同じ通報をされちゃ救急隊も迷惑だろう。そう考えて俺は何もしないことにする。
それにしても倒れている人は生きてるのか怪しいもんだ。ヘルメットのせいで顔が全く見えないからわかんないけどさ。ここまで微動だにしないってのはそんな最悪の展開を予想してしまうじゃないか。もうなんだか熟語になってそうな「意識不明の重体」かもしれんけど。
すると、これまでにも何度か聞いたことのある、間延びしたサイレンの音が聞こえ、だんだんと近づいてきた。えーっとこれ何だっけ? ドップラー効果とかだっけな。なんかうにょーんって感じで独特なんだよね。
救急車が着く少し前には警察もやってきていて、道路整理を行っていた。車の近くにいる、口に手を当て真っ青な顔をした女性が自動車のドライバーだったみたいだ。隣にいる警官にしきりに首を振っているけど混乱しているみたいだ。まぁ当事者だからそれも仕方ないかな。話が聞けなくておまわりさんも大変だなぁ。
救急車の後部ドアを開け、ストレッチャーと共に降りてきた救急隊が迅速に行動している。ヘルメットが外され、ようやくそれが男性だとわかる。けれど、持ち上げられたストレッチャーから力なくだらりと腕が垂れ下がったのが見えてしまった……。
そして救急車に乗せられる寸前、彼の胸から拳大の光球が3つ浮かび上がり、そのまま螺旋を描きながら空へと昇っていくのが見えた。
……家に帰るともう6時近く。急いで夕飯の準備に取り掛かり、少し遅くなったが電子レンジの味気ない温かさではない、作りたての温かい料理を味わうことができた。人間、たまにはこういう食事を取らないとダメだね。
テレビのローカルニュースでは、アナウンサーが今日の事故を取りあげていた。やはりあのバイクのドライバーは亡くなっていたようだ。そんなもの、あの場所で見ていた人ならみんな知っているだろうけど。まぁどんなに技術が発展しても事故は無くならないからね。悲しいことです。
夕食の片づけをし、風呂に入り終えるともう9時過ぎだった。そろそろログインしなきゃな。あの2人はもうログインしてるのかな? まぁ入り浸ってるからサラさんも大学生くらいかもしれない。シンさんは言わずもがな。とりあえずはログインしてフレンドリストを確認してみるか。そう思って部屋に戻り、ヘッドディスプレイを持ち上げた時、ぐらりと世界が揺れ、ディスプレイを落としてしまう。
いや、世界じゃなくて揺れたのは俺の視界だ。立ちくらみがして一気に視界がブラックアウトしていき、足からも力が抜けて立っていられなくなってきた。これはなかなかきつめの貧血だな。視界がもう中心しか見えてません。虚弱体質でもないのにと思いながらも住み慣れた我が家、見えなくても感覚でわかる普段のベッドに寝転がった。心地よい柔らかさに包まれ、ゆっくり深く呼吸して貧血が収まるのを待つことにした。
5分か10分か、目を閉じたままだから正確にはわからないけど、それくらいはもう経った気がする。こめかみから圧迫されるような鈍い頭痛は止まってきたけど、冷や汗が体中から噴出してきている。ついでに心臓の鼓動が大音量で鳴ってるみたいに感じる。せっかく風呂に入ったのにこれじゃ台無しだな。もう1回入るか、それともタオルで拭いて終わりにするか迷うな。指も震えてるみたいだし、今日はちょっとばかり大人しくしておこう。体調が悪いときは機器の使用は止めろって警告にもあったしね。ちょうどいいし今日はこのまま寝ておけばいいや。きっと朝には治ってるさ。そしたら朝食食べてシャワーを浴びてからあっちに入り浸ればいいや。うんうん、そうしよう。
そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか意識を手放していた。
――少し時は遡る
「少々、感覚を馴染ませておくとするか」
窓も、入り口さえも見当たらない真っ白の部屋の中で男は呟く。
まるで古代ローマのトガのような1枚布を着たその男は、何も無い宙空で指をいくらか動かすと満足そうに頷いた。
「――管理者権限の使用を確認しました。……例外無く発動しています」
抑揚の無い無機質で、男声と女声が混ざったような、しわがれた老人のような高い子供のような、そんな声が部屋に響く。その不思議な声が止むと、乾いた銃声のような音と共に部屋からは明かりが消え、何も見えない真っ黒な空間だけが広がっていた。




