パフェ.1 ミルクパフェとコンビニ弁当
新月の晩、とある一人の女性が怯えた様子で道を歩いていた。
彼女の左手には白いハンドバッグ、右手にはコンビニ弁当の入った袋がゆらゆらと大きく揺れている。
彼女は早足で歩いていた。
しかし、急ぐ用事があるわけではない。
ただ……急ぐべき状況にあるからこそ、早足で歩いているのだ。
額に汗が浮かび、うっとおしく感じて、乱暴に右手の甲で拭う。すると、メイクが台無しになったような気がして、さらに苛立ちがつのった。
(どうして私がこんな目に合わなきゃいけないっていうの!? 特に金目の物なんて持ってないのに。)
後ろを振り返る。
しかし、誰もいない。
前へ向き直って歩き出すと、微かにコンクリートを擦る音が、再び背後から聞こえてきた。
誰かにあとを付けられている。
つまり、ストーカーがいるのだ。
(あたし、ここであいつに殺されるのかしら。無理、そんなの絶対にイヤ)
こんな時は携帯電話を持っていれば通報出来たのだろうが、生憎、彼女は“今は”携帯電話を所持していなかった。
家に置いてきてしまったようなのである。
(こんな時に、もう本当に最っ悪!)
後ろのストーカーに殴りかかりたい衝動に駆られながらも、彼女は早足で歩いた。
背後から一定の距離を置いて迫り来る足音を感じながら、目的地へ急ぐ。
平原梓は今週分の蓄積されたストレスに加え、仕事帰りの疲労から、ひどく苛立っていた。明確な理由もなくウンザリしていた。
しかし、突然の思いつきで、ほんの少しだけ気分は良かった。荒れていることに変わりはなかったが。
(このストーカーに目にもの見せてやるわ……。あたしに惚れたんだか知らないけど、一生後悔させてあげるから)
頬が緩むのが自分で分かった。
もしも普通の人が見たら、不気味ににやけている怪しいオバケのように見られるかもしれない。
しかし、今はそのように見られても気にならない気分だった。
胸が高鳴る。
この先の十字路を右へ曲がれば、すぐに交番がある。
怯えた可哀想な女性を演じれば、きっとすぐにこの愚かなストーカーを追ってくれる、または即逮捕してくれるはずだ。
(あと少し……)
角を曲がると、すぐに前方の明かりが目に入った。
涼やかな夜風が、あともう少しだと背中を押す。
平原はその瞬間、思い切り走り出した。目指すは前方の明かり、交番だ。
すると、テンポが急に加速した甲高い音に気がついたのか、後ろの足音は忍ばせる様子もなく、急速に近づいてきた。
追いつかれまいと平原も懸命に走る。が、目的地まではあと少しだというのにハイヒールの踵が文字通りに足を引っ張った。
短距離においては相当に早い部類に入る平原だったが、お気に入りな上に値が張るハイヒールを見捨ててまで全力で走ることは出来なかった。
故に、彼女は覚悟を決めた。
(あたしをストーキングしたことを後悔させてあげるわ。一生忘れられない日にしてやるから……覚悟しなさい)
平原は内心ほくそ笑んだ。
すぐ後ろにまで迫った足音を確認すると、突如立ち止まり、彼女の腰の辺りの高さに右拳を構える。突然の彼女の動きに動揺するも、全速力であろうストーカーの勢いは殺せるはずもなく、獲物は難なく彼女の攻撃範囲に入った。
あとは、少し押すだけだった。
「がっ……!」
鈍い音が響き、右拳には確かな手応えを。胴には確かに一撃の余韻の振動が渡った。
ストーカーはガックリと膝をつく。
平原は改めてストーカーを見た。
腹部を押さえて悶える様子は、とても……快感だった。
ストレスで凝り固まった胸に充足感が乾いた大地に染み渡るように広がっていくのを感じながら、ストーカーの特徴を一つひとつ観察していく。
少ない街灯で薄暗いが、帽子はピンクのキャップ。髪は短い。服は緑のジャケットで、下を数回折ったジーンズを履いている。靴はありふれた赤と黒のラインが入ったスニーカーだった。
総合すると、少し派手好きの若者といったところだ。
平原はとりあえず、近くに交番もあるということで連行していくことに決めた。
自分の妖艶な魅力に惚れてストーカーという哀れな生き物に堕落してしまった男を救うためにも、と特大の善意と好奇心を持って、この男の襟首を掴んで立たせようとする。
「ほら、もう逃げられないわよ。お姉さんと一緒にお巡りさんのところへ行きましょうね~」
完全に子供扱いだった。
ストーカーはその扱いには何の反論もせず、ただただうずくまって自身の腹を押さえていた。
平原はマズイ、と思った。
もしもこのストーカーが臓器を損傷したりしていたら、正当防衛が成り立たなくなるのではないか。そもそも、一方的にあたしが襲ったことにされるのではないか。
もっともな不安が頭をよぎる。
「ちょ、ちょっと……大丈夫? 立てないの……?」
流石に心配になり、かがみこんでストーカーの様子を伺おうと顔を覗き込む。
その刹那――
右手に食い込むような強い痛みが走ったかと思うと、ストーカーは脱兎のごとく交番とは逆の方向へと走り出した。
右手を見ると、あるはずのものがなくなっていた。コンビニ弁当が入ったビニール袋だ。
あのストーカーは、コンビニ弁当が入ったほうの袋を奪って逃走したのだ。
「ひゃっほーう」
ストーカーは小学校低学年が国語の教科書を読むような棒読みの声を上げて逃げていく。
だが、その一言は彼女の頭に血を昇らせるには十分だった。
「あんの野郎!」
平原はヒールを脱ぎ捨て、走り出した。
柔らかい床ばかり踏んでいる彼女の柔らかな素足は当然、コンクリートの上を走ることに適するはずはなく、ましてや安物の薄いストッキングでは足を荒い地面から守れるはずもないわけで、一歩進むごとに、加速するごとに小さく傷が増えていった。
しかし、彼女は痛みをほとんど感じてはいなかった。
彼女の頭には一つの考えしか巡っていなかったのである。
――あのひったくり、ただじゃおかない。
それから町中を駆け巡り、やがて弁当泥棒の姿を見失う頃には明け方になっていた。
空が徐々に淡く、濡れた画用紙に絵の具を数滴落としたように明るんできている。ほんの数十分前にはまだ真っ暗な深夜の一時頃だったような気がしていたが、実際は何時間も経っていたようだった。
平原は電柱に手をつき、ため息をついた。
弁当泥棒は見失い、お気に入りのハイヒールも戻ってみたらなくなっていた。その上、何時間も走り回ってお腹が空いている上に、喉がカラカラで苦しかった。
仕方なく、トボトボと帰路につく。
この散々な時間の中で少しでも救いがあるとすれば、今日が週末で明日も日曜で休みだということぐらいだ。今日が始まって二つ目のため息が出た。
自分の姿が惨めだと思った。
まるで戦場から返ってきたばかりのOLだ。
靴はなく、ストッキングもビリビリに破れている上に黒く汚れ、スーツもところどころ裂けていたり汚れていたりしている。髪はひったくりが変な道ばかり通っていったせいでクシャクシャで、手鏡で確認するまでもなくメイクは崩れる以前に泥で汚らしく塗り直されているはずだ。確かめようにも、ひったくりを追っている途中の攻撃手段として投擲してしまったために、手鏡はないわけだが。
それからフラフラと汚れた白いハンドバッグを抱えて歩いていると、いつの間にか自分のマンションの部屋の前まで来ていた。
ハンドバッグから部屋の鍵を取り出し、開ける。
ガチャ。
小気味よい音で鍵が開けられる。
それがなぜか、耳だけでなく胸に響いた。帰ってきた、という音だった。
外を惨めな姿で歩いたせいで、些細なことにも感傷的になってしまっていたが、彼女にとっては今この瞬間――週末の帰宅ほど嬉しい瞬間はない。
差し込む朝日に目を細めながら、中へ入る。
いつもの暗闇に、手探りで電気のスイッチを探り、明かりを灯す。
すると、馴染みのいつもの光景が広がっていた。
靴がないので、仕方なく冬用に置いていた毛糸のサンダルを履いて中へあがる。
とにかく喉が渇いていた。
キッチンで冷蔵庫から天然水『栄光の神秘』を取りだし、コップに注ぎながらリビングへと歩いていく。
そして途中でグイっと一杯。
「ぷは~……やっぱり水よねぇ。もう水だけで生きていけそう。うふふふふふ……」
怪しげな笑い声を上げながらも上機嫌にリビングへ通じる扉に手をかけ、開けた。次に真っ暗な部屋を手探りでスイッチを探し、電気を点けると――固まった。
とりあえず、目をこすった。が、消えない。
冷たい水を飲めば、朦朧とした頭も冴えるだろうと水を注ぎ、一気に冷水をあおるも、ソレは消えなかった。
平原梓の動きを一瞬で止め、その圧倒的な存在感で目を奪う、明らかに異質で明らかに場違いで明らかに何かが間違っている、テーブルの上に異様な威圧感と共に鎮座するモノ。
“パフェ”だった。
平原は目を疑った。
自分の頬を試しに叩いてみても、一向に消える気配はない。
それと同時に、昨日の朝にテレビで流れていた報道を思い出す。
――『泥棒』。
「まさか……」
平原には信じられなかった。
いつもはテレビで流れる事件の報道を見て「美味しそう」だとか「変なの」とか笑って見ている側だったはずが一転、自分が被害者になることに。
しかし、もしかしたら流行(?)に乗った友達か知り合いの悪戯なのかもしれない。
テレビや新聞、同僚との会話でも出てくる『泥棒の手口』を思い出す。
『現場には必ず巨大なパフェとカードを残し……』
「嘘、よね……」
本当に『泥棒』が入ったのなら、きっとカードも残しているはずだった。
平原は圧倒的な威圧感を放つパフェが鎮座するテーブルへと近づきつつ、願った。
これがあの『泥棒』ではありませんように。友達のサプライズか、せめて模倣犯でありますように……。
パフェのすぐ前に来たとき、足がズキリと痛んだ。もしかしたら、ひったくりを追いかけていた時に付いた傷のどれかが開いたのかもしれない。
足元に目がいった時、どこか見覚えのある袋が椅子に置かれていること気がついた。
もしかしたら、と足の痛みに耐えながら近寄り、袋を覗く。
「……!」
意外だった。有り得ない出来事だった。
ひったくられて、返ってこないと思っていたコンビニ弁当が買い直したように綺麗な状態で入っていて、その袋の後ろには誰かにネコババされたとばかり思っていた高価なお気に入りのハイヒールがピカピカに磨かれて置かれていた。
これは純粋に嬉しかった。
いったい誰がというと『泥棒』ということになるのだろうが、このサプライズで日本中を股にかける大犯罪者に対して、平原は感謝の気持ちで胸が一杯になっていた。
ふとコンビニ弁当の上に二枚のカードが置かれていることに気がつく。
いったいなんだろう、と先程の不安を忘れ、ただただ好奇心で二枚のカードを手に取って読んでみた。
『ひったくりに遭っているところを目撃してしまったので、全部取り返しておきました。夜道には気をつけてくださいね。』
(なんか凄く良い人なんだけど……!)
心配までしてくれる一枚目のメッセージカードに感動しつつ、二枚目を読む。
『残念ながら、あなたの大切な物を頂戴しました。罪滅しにパフェを作ってみたので、良かったら召し上がってください。今回はミルクパフェです。ホットミルクも横に置いておきました。眠る前に飲むと、質の高い睡眠が取れるはずです。それでは、良い夢を。泥棒より』
(大切な物……?)
辺りを見回す。確かにパフェの横には白い液体が入ったマグカップが置いてあった。しかし、他には何か荒らされた様子はない。
だが、曲がりなりにも特大というレベルでは収まりきらない巨大なパフェと、あのカードを残していった大犯罪者『泥棒』だ。何か証拠を残すような真似などするはずもなく、すると当然、荒らされた痕跡など残すわけがない。
そうなると頼りになるのは、自分の心当たりだけだった。
(大切な物、大切な物……『君のハートを頂いた』とか、そういうのじゃないわよね。だからって、ブランドの服とかネックレスとかを盗むようなら別にあたしのところじゃなくてもいいだろうし……)
考えれば考えるほど分からなかった。
『栄光の神秘』をコップに注いで、三杯目の水を飲み干す。
その時、大切なことに気がついた。
「あ、警察に電話しなきゃじゃん!」
平原は玄関の固定電話のところまで行くのを面倒がり、携帯電話で110番に通報しようと汚れたままのハンドバッグを漁る。
が、バッグに手を入れた時に思い出した。
ひったくりにストーキングされた時に後悔した、携帯電話を家に忘れてしまったことを。
『大切な物を頂戴しました』……
嫌な予感が頭をよぎる。しかし、自分にとっては当たり前すぎているけれど『大切な物』の条件に限りなく当てはまっているような気がした。
(いや……ないでしょ。ないない)
内心否定しつつも、完全には否定しきれない不安がついてまわって、結局携帯電話を探すことにした。先に警察を呼んだとしても、絶対に人に見せられない画像や文章のデータがいくつも詰め込まれているために、たとえ知らない人でも、これから二度と出会うことがない人でも、見られるのはどうしても嫌だった。
はやる心を抑えつつ、いつも置いているベッドの横のコンセントに繋がれた携帯電話の充電器の傍を探す。ベッドの下も探す。
やがて不安が押さえきれなくなって、家中を探し回った。
平原の大捜索が終了したのは、部活動に励む子供たちが家を出るぐらいの――十二星座占いが始まる時間だった。
「どうしよう……本気で無い!」
今度こそ彼女は固定電話を利用して警察に通報した。
その時の最後の言葉は、
「絶対にあたしのケータイだけは見つけてよね。じゃないと、会社とかネットで警察の悪口を大量に広めてやるから!」
ただでは終わらない二十代後半のOL、平原梓。
彼女の朝は、『栄光の神秘』を二リットル飲んで始まる。
ものすごい長文になってしまいました……。
ここまでお付き合いしてくださった方は本当に尊敬します。
そして感謝します!
なんだか本当に最期の“あとがき”っぽい書き方になっていますが、まだまだ続きます。
平原がここまで引っ張るキャラだとは予想外でしたが……次からは、もっとコンパクトにまとめてかかりたいと思います。