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プロローグ

 ――傘を忘れた。

 彼はアパートを出て一時間後にそのことに気がついた。

 空を見上げる。

 隙間なく敷き詰められた灰色の重々しい空は、やがて雨が降り注ぐ事を示唆するようだった。

 男は諦めて、歩き出す。

 今さら来た道を戻るのが面倒だった、というのもあるが、それとは別に彼を動かす大きな理由がある。

 約束があるからだ。

 彼はある人物と約束を交わした。

 電子メール上のやり取りで確定した、物物交換の約束。

 交換、とは言っても既に向こうからはもらっていた。

 あとは彼が向こうが――顧客が求めているものを届けるだけだった。

 肩から掛けたバッグには、その物が入っている。

 硬いコンクリートにブーツの踵ががぶつかり合い、馬の蹄が立てるようなパカパカとした音を響かせている。

 テンポを上げてみた。

 リズム良く、軽快に、飛ぶように……それから、

「痛ってぇ……!」

「あっ」

 気がつくと、男のすねを蹴り飛ばしてしまっていたようだった。

 いつの間にか現れた男は実に痛そうにしゃがみ込み、膝をさすっている。

 表情は長い前髪で伺えない。

「その、すみませんでした。大丈夫ですか?」

 ゆっくりとした、和やかな口調で彼は話しかける。

 対する男はバッ、と顔を上げて彼を思い切り睨みつけた。

 彼は男の目を見て、ああ失敗したなぁ、と内心呟く。

「いきなり何しやがる! 仕方なく、ただでさえ忙しい時間を割いて、わざわざ俺様が伝言を伝えに来てやったっつーのに……」

 伝言? 一体誰が、そしてなぜこの人を使ったんだ。そういえば、この人はそもそも誰なんだ。

 疑問が渦巻く。

 せめて今日の予定を潰すような伝言でなかったらいいな。

 彼はぼんやりとして、能天気に願った。

「誰からの伝言ですか?」

 すると彼は困ったように額にシワを寄せた。

「あー、クメイからだと言えば分かるって言われたんだが……お前、わかるか?」

「クメイ? あぁ、あの人か。わかりますよ。色々とお世話になっていますし。それで、伝言とは?」

 クメイは今回の仕事の話を回してくれた人であり、現在彼が飢え死にをせず、世知辛い人々の荒波に取り残されてお腹を空かさずにいられるのは、その人物による援助が大きい。

 義理的にも、個人的にも、伝言であれば全力で聞かなければならないだろう。

 お願いや問題が発生してピンチになっていたとしたら、尚更のこと力にならなければ……。

 彼は密かに恩返しの決意を固めた。

 対するすねの痛みから立ち直った様子の男は、妙に晴れやかな彼を不審げに見つめつつ、ポツリと話し出した。

「んじゃあ、言うぜ。『今月に入って、連中が星の対応を待てずに超凄腕のトカゲを飼い始めたらしい。凄まじい速さで追いかけてくる可能性があるから、車の準備は怠らないように』だとよ。あと、他の連中にも一応連絡をしておいたから、マジでやべぇときはメールを一通送信すれば助けに入る

、だそうだ。」

 絶句。

 彼の動きが完全に停止する。

 それはわずか一・二秒の出来事だったが、それ程までに彼には衝撃の伝言だった。

 トカゲは探偵を意味する。

 這いずるように迫ろうとしてくる上に、捕まえても、ダメージを与えても、しっぽが切れても動き続ける厄介な敵対勢力。

 その中でも、優秀なトカゲ……わざわざこの誰かさんを使って伝言を伝える程――これまでに一度もないほど警戒した様子で、その存在を知らせてきた。

 これは……危機だ。

 人生の危機。チームの危機。そして何より、

 ――お菓子の危機!

 彼は内心、狼狽えていた。

 お菓子が食べられなくなる……。

 それは甘党であり、お菓子が関わると精神年齢が極端にガックリと地に落ちる程にお菓子を愛している彼にとっては、死活問題だった。

 刑務所に入れば、きっとお菓子は出ない。

 しかし最大の問題は――お菓子を作れなくなることだ。

 透明な卵白が自分の手によってふんわりとした甘いメレンゲへと変貌したり、お菓子の家を作って模様替えを楽しんでみたり、自分で綿密にプロデュースしたパフェをみんなに楽しんでもらうことができなくなる。

 これは、これは……絶対になってはならない事態だ。

 緊急事態……。

「おーい、だいじょーぶですかぁ~? 駄目だなこりゃあ」

 どこからか声が聞こえたが、正直どうでもいい。

 一番の問題は――そうだ、一番の問題、それは、

「そうだ……届けなくては。これを」

 生気の抜けた顔でフラフラと彼は歩き出す。

 当初の目的を達成するために、ある人物へ物を届けるために。

 背後でスニーカーが灰色の地面を擦る音が近づいてきていた。

 彼は、急いではいたが振り返った。

 嫌な感じがしたからだった。

 果たしてそれは――嫌な感じであった。

「もう一つ、言い忘れてたんだけどよ。どうしようもなくなった時――まあ、俺はいつだっていいんだけどよ――とかに、俺を使う選択肢も一応はあるから覚えておけ、だそうだ。代価は、砂糖五キロとアーモンドプードル三キロな。ああ、それと今から俺を雇ったっていい――」

「君の手は借りない。伝言ありがとう。去ってくれ」

 まくし立てるようによく話す男に彼は冷たく言い放った。

 彼は緊急事態が発生したと聞いた時以上に、不満が、苛立ちが、不愉快さが胸を侵していた。

 早くどこかへ行ってしまえ。

 普段は温和で、眠そうにしている彼は冷たく心の中で責めた。

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