09:ころぼっくる
松の茂るうつくしい島々。
逆さまに見ると、天の架け橋に見える海岸。
海上に浮かぶ、古の神殿。
三大祭りとか、六名山とか、百景とか。
動物、植物、風景、文化。思い出すだけで、幸せな気分になります。
私はここ数ヶ月間の、旅の美しい風景を思い出しながら、じっとたき火を見つめました。
まわりには、鬱蒼とした木々が生い茂っています。
日はとっくに暮れて、たき火の向かい側には、私の旅の道連れである、鬼の鹿角さんが座っております。
――遭難しました。
いえ、正確に言うと、人里へ向かうと思わしき方向を目指してはいるのですが、まあそういう現状は、いわゆる遭難ですよね。
今日も野宿です。三日目ともなれば、もう手慣れたものです。
事の起こりは数日前、温泉を出てから、すぐのことでした。
おまわりさんは勘弁です。
などと鹿角さんのしっぽを思い出しながら、誰にともなく言い訳をしていました。
その時ちょうど、おまわりさんといえば、という訳でもないのですが、山中に悲鳴が響きました。
少女のような甲高い声です。
声のした方を見ると、向こう岸に、子供の姿が見え隠れしています。
木々の間に、子供が大きめのカラスに襲われていました。
「きゃーっ!」
ギャア、ギャア、ギャア、
カラスとは言え、子供が怪我をする恐れだってあります。
私は小さい子の味方です。アッ、おまわりさんは勘弁です。
小さい子は年長者が助けるのが、道義だと思います。昔、村のねえさんが私を助けてくれたみたいにですね。
などと語るに落ちる言い訳をしながら、私は子供を助けに向かいます。
そこには、私の胸元まで届こうかという、背の高いフキが生い茂っていました。
カラスがたかり、フキが動いているので、子供の行き先は見当が付きます。
私は旅歩き用の杖で、雑草を払ったり、カラスに牽制したりしました。
子供をかばいます。子供はまだ、私の腰くらいの背丈でした。
おぉっ、人に対して物怖じしないカラスですね。集団戦とはこしゃくなっ。
ギャア、ギャア、
一体なにが、彼らをそんなに熱くさせるのでしょうか……!
カラスが狙っているらしき、子供の背負い荷物を、ちらりと見ます。
子供の割に大きなつづらを、がっつりと背負っています。
においも見た目も、別に変わったところはないですが……。
旅人のご飯などを見て、カラスが、箱の中には食べ物がある、とでも覚えちゃったのでしょうか。
カラスを完全に追い払った時、私と子供は、最初に下りた土手から随分と離れてしまってました。
川はあっち。土手はあっち。元の山道はあっち。
よし、大丈夫。覚えてます。
「大丈夫ですか?」
つい敬語で尋ねます。
最近は鹿角さんとばかり喋っているので、敬語が癖になってます。
自分の予期せぬ敬語にびっくりしました。まあいいや。敬語で通します。
私の問いかけに、子供は慌ててお辞儀をしました。
「はい、大丈夫です。……すみません。助かりました。」
「まあ。小さいのにしっかりしてるのですね。子供ひとりでこんな所を歩いているとは、父ごや母ごどのはいないんですか?」
私は辺りを見回します。遠くに鹿角さんが見えました。
「いえ、その。……おれひとりです。」
子供は、ぱたぱたと、カラスについばまれた身なりを直しています。
私も、背中の泥を落とすのを手伝いました。
小さい背中です。ねえさんたちが産んだ、鬼の村のこども達を思い出します。
子供は、肩までの少し長めの髪です。服装だけ見ると、男の子のようです。
子供の割には動きが達者と言うか、妙に堂に入ってます。
その様子に、子供扱いするのも違うかな。とは思いつつ、さっきはカラスに負けていたので声を掛けます。
「おうちは近いんですか? 送りましょうか。」
「だいじょぶです。……さっき、カラスはこれを狙ってたんです。」
男の子は背中に隠していた宝玉を、私に見せてくれました。
透明でしたが、角度によっては虹色に輝き、奥は炎のようにチラチラと揺らめいて、光っています。
男の子の両手に、すっぽりとおさまっていて、私は思わず、ため息がもれました。
「きれいですね……。」
いいものを見させて頂きました。
「おれの村の、明かりや井戸などの動力になるのです。これを隣山から持ってくる使いの途中で、今はその帰りでした。」
男の子の説明に、私は隣山を見ます。
隣山は遠くにかすみ、どう見ても子供を使いにやる距離じゃありません。
その時に私は、男の子の耳が少しとがっているのを見て、やっと、この子供が人間ではないのだと気が付きました。
「これを無くしたら、おれは村で怒られるところでした。助けていただいたお礼に、村にお越し下さい。ごちそうをします。」
にっこり笑って、私の手を引き懐いてくる子供を、私は微笑ましく見ます。
しっかりしてるし、人なつっこいのですね。
「おれは、コロボックルの村のキルリと言います。」
ころぼっくる。こびとの種族ですね。あら、見た目は人間の子供と、あんまり変わらないのですね。
ころぼっくるの村のご馳走とおもてなし……。
私は、その魅力的なお誘いに、ゴクリと、のどを鳴らします。
「キルリくんですか。私はリンと言います。」
「えーと……、おれはたぶん、リンさんより歳が上なのです。」
キルリくんは、私の、くん付けに困ったような顔をしながら、私に衝撃的な告白をしました。
私の年齢が十八才前後なので、それより年上というと。
「な……。」
なんという合法なんとか。
「……おいくつですか。」
「成人してます。」
ちまっとした身なりで首をかしげながら、キルリくんは言いました。
私は、自分よりも背の大きい人は、子供時分の奉公先の厳しいしつけがあって、苦手なのです。
自分よりも小さければ小さいほど、好ましいのです。
そして法に触れなければ、なお良し。
なんと言うことでしょう。私の理想が今、ここに体現されています。
「キルリさん。」
「いや……、……呼び方は何でもいいですけど。」
「キルリくん。」
「リンさん。お礼のおもてなしを、受けてくれますか?」
「えっとあの……。その、ご迷惑じゃなければ……。」
私は、食欲と理想の体現に、もじもじしながら、キルリくんにお返事しました。
いつの間にかしゃがみ込んで、キルリくんと同じ目線で、手を握り合っています。
交渉とその成立の光景です。
「あ。でも、旅の連れの鬼さんがいるのです。その鬼さんに相談してから……うわびっくりした!」
振り返った時に、すでに真後ろに佇んでいた鹿角さんに、私は敬語以外のリアクションが出ました。
しゃがんでいると、鹿角さんはますます大きく見えますね。
しかし、これがキルリくんの通常の目線という事ですか。
キルリくんは物怖じせずに、にっこり笑いました。
「お連れさまも、一緒にどうぞ。」
子供の笑顔とは、罪のない者ですね。子供じゃなかったですけど。
いい子ですね。子じゃなかったですけど。
「いや、」
「良いですか。良いですよね。ではおれの村はこっちです。出発しましょうね。」
鹿角さんのうめき声を遮って、キルリくんは私の手を引きます。
道を進ませました。
浜辺のカメならぬ、森の中のこびとさんを助けたならば、タイやヒラメの舞い踊り……。
私は、ころぼっくるの村に思いをはせます。
個人的嗜好の絡んだハプニングは、人を軽率にさせる何かがあります。少なくとも、私にとっては……。
キルリくんの歩く道筋は、元の道へ戻っているような、横切っているような……。ジグザグに進みながら、とにかく、見たことがない細道にたどり着きました。
キルリくんは後ろを振り向きながら、私に言います。
「ここから先は、特別な道なので、リンさんは、おれが持ち上げますね。」
「え?」
私の返事を待たずに、キルリくんは私を持ち上げて走ります。
カメさんならぬ、こびとさんの背に乗って、ころぼっくるの村へ行くのですか。
キルリくんは、素早い駆け足で、山道を進みます。
「いや、そんな、私、自分で歩きます。」
「人間には歩きにくい道なのです。村に着くまで、じっとしてて下さいね。」
キルリくんは、走る速さを上げました。
私の横を通り過ぎる景色は、絶えず流れ、土を踏む音は、疲れを見せません。
大きなつづらも背負っているのに、キルリくんは力持ちですね。
その、人ならざる早さに、私は、鬼の村にさらわれた時を思い出しました。
あれ……。運ばれていると言うより、さらわれ……いやいや。お招きを受けて、運ばれているだけです。
いや、主観の違いでしかないですが。まさかねそんな。ははは。
「あれっ、鹿角さん。」
急速に離れていく鹿角さんの姿に、私は声を上げます。
「だいじょうぶ。あとから追いついてきますよ。」
キルリくんはそう言いますが、あれっ……。
私は、遠くに離れていく鬼の鹿角さんに困惑したまま、密林をくぐって、大木をくぐって、巨石をくぐって、背の高いフキをくぐります。
ころぼっくるの村に、たどり着きました。
困惑したとは言え、キルリくんもころぼっくるの村も、人に危害を加えるようには見えませんでした。あまり不安は感じません。
鹿角さんは、これまでの旅のなかで、無意味に私と離れることはありませんでした。
離れたとしても、必ず意味のあることです。
そして、鹿角さんがころぼっくるの村に、ずっと現れなかったとしても、それは私の行動が悪かったか、鹿角さんが考えて出した結果なのです。
好奇心と危険のリスクは、最終的には、自分で負わなければなりません。
とかなんとか考えながら、私は目の前の光景に、すっかり目を奪われていました。
なん……、なんなんですか、ここ。
――なんなんですか、ここーっ!
ころぼっくるの村は、こぢんまりした村でした。
村のみなさんの体に合わせて、家など、すべてが小作りです。かわいい。
村人は、ほとんどキルリくんのような子供で、たまに小さいおじさん、小さいおばさん、小さいおじいさん、小さいおばあさんです。かわいい。
服装は、他の村とあまり変わらない着物でしたが、たまに民族的な装飾を身につけています。かわいい。
果物や香草をあしらえた庭々は、牧歌的な雰囲気をかもし出します。
その香りと風景は、とても心を和ませました。
ころぼっくるは手先が器用な種族のようで、家々の装飾や細工はとても凝っています。
落ち着いた色合い、カラフルな色合い。
それこそ、どれもお人形さん用のようでした。
この村は谷間にあるようで、日の入りが早く、もう夕方の景色です。
「わあ……。」
私は感嘆の声を上げます。
山あいに入る夕日も、もちろん美しかったのですが、村のみなさんが、すべてちいさい。
幼女がぞろぞろと、畑仕事を終えて、小さい農具をかついで家路についています。
きゃらきゃらと賑やかにおしゃべりしています。
通りすがる私を、好奇心と怖さの入り交じった目で眺めました。コワクナイデスヨー。
その瞳は、キラキラと物珍しげに輝き、頬はリンゴのようにぷっくりふっくらしています。
この村は、キルリくんが言った通り、特別な通り道でないとたどり着けない、一種の隠れ里のようです。
私には、この村がなぜ隠れているのか、その理由がよく分かります。
ダメダメ! こんな可愛い村……、人目にさらしては危ないです!
こんな……こんな子供たちだけに見える村、心ない人たちが来たらどうなってしまうのか……!
体格差よりも、知恵と道具で、外敵に対抗する方法もあります。
このように隠れ住むことも、この村にとって、身を守るのに有効な手段なのでしょう。
などと思う自分が一番危ないのだと、心の片隅で自覚しながら、私はこの風景を心の奥底に、そっと刻み込みました。
かの神秘の山深くには、そう……、私の理想郷があったのだと……。
ぼんやり突っ立っている様子に、キルリくんは思うところがあったのか、私の着物の裾を引っぱります。
「だいじょうぶ。お連れさんも、あとから追いついてきますよ。」
ちっちゃく「きっと。」と付け足してました。
「それまで楽しんでいって下さい。さあ、この果実酒は人間のお口にも合うと思います。」
キルリくんに案内されたお家には、長老さんと、お料理を運ぶ方々がいらっしゃいました。
そして、私と同じに見える、人間のおじいさんも一人いました。
キルリくんが、おひげのながい長老さんに報告をしています。
「キルリ、ご苦労だったな。そのかたは?」
「リンさんと言います。おれが使い魔のカラスに追われていた所を、助けてくれたのです。」
使い魔? あのカラスは使い魔だったのですか。確かに、姿は大振りで爪はとがって、目は金色でしたけども。
長老さんは、私に説明して下さいます。
「この宝玉は、数が限られているのです。どうしてもいつも、カラスを使い魔にやる魔女と取り合いになってしまいましてな。キルリを助けて頂いて、ありがとうございました。」
そう言いながら、私にご馳走を勧めてくれました。
甘い果実酒に、山菜、煮物、果物。
かわいいころぼっくるさんたちの、歌や踊りも付いてきます。
この世ならざる宴に、私は、とても楽しみました。
「きゃあ、かわいい、かわいい!!!!!」
手を叩いて喜ぶもとい、感動して拍手の鳴りやまない、どっちにしても同じですね私に、人間のおじいさんがお隣に来て、話相手になってくれます。
「この村が気に入りましたか?」
「えぇ、もちろんです!」
おっとよだれが。
部屋を見渡すと、人間は、私と、このおじいさんだけのようです。
他のみなさんは、ころぼっくるさんでした。
おじいさんの服装は、ころぼっくるさんたちと同じです。おじいさんは、この村で暮らしているようです。
おじいさんは、私の返事に頷きながら、
「わしも旅の途中に、村人の招待を受けてこの村に来ました。一目でこの村が気に入ったのです。
宝玉を利用した動力の他に、太陽光、風力、水力を利用したものがあって、とても興味深いです。浄水もおもしろくできてます。」
おじいさんは、こういうのがお好きな方のようですね。目を輝かせて説明してくれます。
専門的なお話はよく分かりませんが、ころぼっくるさんたちは、とてもエコな暮らしなのです。
「この村には、わしの様な人間が、他にもいます。」
ニコニコしてるおじいさんにつられて、私もニコニコと相槌して頷きます。
「村もわしのような人間を受け入れることによって、外の情報や暮らしを知る事ができて、良いようです。」
「まあ、なるほど。」
おじいさんが合間合間に、飲み物やおつまみを勧めてくれました。おいしいです。
「村の外では神隠しとも言われているようですが、いやいや、楽しく充実して暮らしてますよ。」
そういえば、先程寄った宿場町でも、奥さま方が、「たまにね、あるのよ、神隠し……。」などと噂していたのを聞きました。
身寄りのない旅人などが、神隠しにあうのが多いようです。
私にも、もう、身寄りはありませんね……。
「リンさんもどうですか、この村が気に入ったのなら、ぜひ……。」
スッパーン
小気味よい音を立てて、鹿角さんが引き戸を開けて、入ってこられました。
本当に、すぐ追いつくのですね。
「リンはうちの(村の)こですから。」
鹿角さんは、おじいさんに短く宣言しました。
おじいさんは鹿角さんの到着に、少し驚いたようです。
ころぼっくるさんたちを見慣れた生活に、いきなり鬼さんはびっくりしますよね。しかし、そこは年の功です。
「そうですか。リンさんのお連れの方ですね。ようこそいらっしゃいました。――まま、どうぞどうぞ。」
と、足労をねぎらい、鹿角さんに飲み物を勧めます。
小さなころぼっくるさんのお家に、鹿角さんは、身動きが取りづらそうです。
しかしこの家は、ころぼっくるさん以外のひとの、来客用のようです。
他の建物に比べて、広く作ってありました。
鹿角さんも、やまんばさんのお家みたいに壊すことは無さそうです。
その間にも、歌や舞い踊りは絶えることなく、鳴り響きます。
他のころぼっくるさんたちは、めいめいに楽しんでおられました。
多少の物音は紛れてしまうくらい、その場の雰囲気は、わいわいがやがや、ちゃんかちゃんかピーヒャラしていたのです。
長老さんへの報告を続けていたキルリくんが、鹿角さんを見て、若干、舌打ちをしたようにも見えました。
私と鹿角さんは、そのまま、村のおもてなしを受けたのです。
夜も更けました。
私は、用意して頂いたお部屋から、庭に出てみました。
すっきりお手入れされた庭から、夜空と村の様子を眺めます。
このような村で暮らしてゆけたら、まるで夢のようです。
きっと、毎日、あははうふふの楽しさでしょう。あははうふふ。
みなさんは可愛いし、可愛いし、可愛いし、贅沢とは遠いけど、自らの手で作る、充ち満ちた暮らしは実は何よりも、贅沢な事なのだと思います。
空を見上げながら、半分くらいうっとりと夢を見ていた私に、後ろから鹿角さんが声を掛けました。
「リン。」
「……あ、鹿角さん。こんばんはですね。」
「リンは人さらいもどきにあっている自覚はあるのか……。」
なかなか過激なことをおっしゃいます。
「……鹿角さんがそれを言いますか。」
「……。」
鹿角さんが若干、狼狽しました。
注意深く見ると、目が左右に泳いでます。
「あれは一応、契約と報酬の一種であるとは思うのだが、正直すまないとは。」
「いや、すみません。意地悪を言ってしまいました。私たちが捧げ物を納める代わりに、人間の村々を他の妖怪から守って下さってるんですよね。人とあやかしの関わり方は、それぞれですよね。」
私は手を振って、鹿角さんの言葉をとめました。
そして鹿角さんの言う自覚を答えます。
「さらわれもどきと、私の個人的趣味のふたつの意味で、危ない橋を渡っている自覚はあります。でも、まだころぼっくるさんとは、交渉の余地はあると思ってます。
きっと、帰して下さいといったら、普通に、帰してくれるのではないでしょうか。」
「……それだけか。」
「えっ……、他にも何かあるんですか?」
私の個人的趣味などと暴露をしたのに、それは無視ですか。
事態はもっと切迫しているのですか。
鹿角さんが「キルリは。」と言って口をつぐみます。
「キルリくんはかわいいです。」
私は、鹿角さんに頷きながら、言いかけのセリフを継ぎます。
自らの信念を語る目は、真剣です。
「……。」
「……。」
鹿角さんは、闇夜に光る目をこちらに向けて、いぶかしく見据えます。
そして、
「リン。今夜中に、この村から出る。」
藪から棒な鹿角さんの言葉に、私は改めて鹿角さんの旅支度を見ます。
すでに準備万端ですね。
ご招待頂いた村を、夜中に発つとは、穏やかではありません。
そんなに鹿角さんが寝苦しい部屋にも、見えなかったですが。
「なぜですか。」
「嫌な予感がするのだ。」
「予感ですか……。」
一緒に旅をして気が付きましたが、気分でどんぶり勘定する鹿角さんの正確性は、あまりアテにならないです。
そういえば鬼の村にいたときも、決算だの精算だのが、たまにいい加減でしたね。
確か、番頭さんは鹿角さんでしたよね。
私は鹿角さんを、つい、疑わしい目で見つめます。
鹿角さんは、私の腕をつかんで、すぐ出発というように引っぱりました。
「例えリンがこの村に住みたいと言っても。」
「私は別に、ここには住みませんよ。」
「、え?」
庭でわいわい喋っている私と鹿角さんに、キルリくんが軒先から顔を出しました。
「どうしたんですか、リンさん。何か不都合がありましたか。」
キルリくんは、こちらに歩いてきながら、鹿角さんのかっこに気が付きます。
「……お連れさんは、この村が気に入りませんか? 出立をするにしても、明日にしたらどうでしょうか。」
「おまえは面倒くさいから、向こうに行ってていい。」
「……この鬼はふふふ。まあそうおっしゃらず。明日、案内したい場所や、物々交換したい品があるのです。」
「いや、この村での交易も、先程、ここに着くまでに済ませてきた。」
明日の案内を説明するキルリくんに、首を左右に振る鹿角さん。
鹿角さん、ちゃっかりと、なにげに商売気がありますね。時々、飛脚さんを利用して鬼の村から反物を取り寄せてますし。
私をつかんでいる鹿角さんの手を、キルリくんが離します。
「リンさんも出ていってしまうんですか?」
悲しそうに見上げてこられたら、私は庇護欲をかき立てられます。
こんな村に定住できたら、どんなによいでしょうか……。
でも、みなさんは可愛いのですが、ここで暮らすかは、また違う話なのです。
私はキルリくんに聞きました。
「さっき、おじいさんの話を聞いてて思ったのですが、この村に住んだら、もう外の世界には自由に行けないのですよね?」
質問に質問を返すようで申し訳ないですが、この際なので、気になったところは聞いておきます。
キルリくんは少し言いよどんで答えました。
「……そうです。」
「神隠し」と言うくらいで「隠れ里」と言うくらいですものね。
キルリくんは「人間の歩きにくい道」を通って、この村に来ました。
たぶん、ころぼっくるさんの送迎がない限り、この村は、自由に行き来できないのです。
「私はまだ、旅暮らしを捨てることは考えられません。この村に住むことは、できないです。」
私はキルリくんの目を見て、できるだけ誠実に伝えます。
まだ外つ国にも行ってないですしね。
二度とねえさんたちに会えなくなる事も、まだ考えられないのです。
キルリくんは、私の両手をつかみます。
「……今すぐに、出てってしまうんですか?」
いやさすがに、この夜中にすぐとは考えてなかったですけどね。
正直、二、三日はこの村にいたいなとか、目論んでたんですけどね……。
気に入りましたけど、村に定住する気はない。とか、気まずいことを言っちゃった手前、できるだけ早い出立になっちゃいそうなノリです。
「そうですね、名残惜しいのですが……、明日あたりには。」
「村を出たら、もう二度と、ここに来ることはできないです。」
心残りたっぷりな私を引き留めるように、キルリくんが私を見上げながら訴えます。
な……んですって……。
まさかの見納めです。
呆然とする私に、いつの間にか鹿角さんは、私の荷物を持って準備してます。
私は部屋に着いてから、まだ荷解きをしていなかったんですね。
鹿角さんは、私の肩をつかみます。
「長引けば別れが悲しくなるから出発だ。それでは世話になったな。」
半ば私を引きずって、鹿角さんは庭から小道へと出ました。
「え。まさか本当に夜中に出発ですか。せめて明日の朝では。」
「この村に長居したくない。」
鹿角さんに肩を引っぱられて、歩みの遅い私に、キルリくんが呼びかけます。
横歩きとか後ろ歩きとか、きついです。
「リンさん、えっとあの。……そっちは道が違いますよ。」
「…違うそうですよ。鹿角さん。」
鹿角さんは、やっと足を止めてくれました。
私は、キルリくんに、お礼とお別れの挨拶をして、草履をきちんとはき直します。
キルリくんは、
「えっ、本当に今、出てゆかれるのですか。」
と驚きましたけど、なんで言い出した鹿角さんまで、軽く驚いてるんですか。
明日で良いなら、明日にします……。
私と鹿角さんは、村を出て、キルリくんの言う「人間の歩きにくい道」を歩いています。
鹿角さんは、私の腕を引いてます。
鹿角さんの手のひらは、私の腕をつかんで、まだあまるくらい大きいです。
凶悪に角張った骨格ですが、つかむ力は、生かさず殺さず、違った。強すぎず弱すぎずの力加減です。
温かい体温が伝わりました。
人間の通りにくい道とやらは、いわゆる妖怪変化が通る、空間が不安定な道のようです。
真っ直ぐ歩いてるはずなのに、月が右に見えたり後ろに見えたりします。
片手側が見上げる崖、片手側が落ちたら痛そうな土手です。
ころぼっくるさん用の細道なので、鹿角さんは歩きにくそうです。
鹿角さんなりに私を気遣っているのか、おぼつかない口調で尋ねます。
「……ころぼっくるの村を出て来て、よかったのか。」
「キルリくんに説明した通りです。いいのです。」
鹿角さんもなんの事情か、お急ぎのようですし。
私はまだ、成り行きや日頃の行いやしっぽなどを総合的に考えて、鹿角さんと旅の道連れをやめる気はないです。
「あと。」
私は少し考えて、付け足します。つい頬がゆるんでしまいました。
「鹿角さんが「うちの子」って言ってくれたから、私はよその村の子にならなくてもいいのです。」
ひとの村で鬼の供物になってから、鬼の村を夜逃げしてから、私は、住所不定身元不確かになったと思っていました。
誰かが、私の身元を保証してくれると思いませんでした。
だから、夜中にころぼっくるの村を出てもいいのです。大丈夫なのです。
ずるぁっ
ガラガラどしゃーっ
どうしてそこでいきなり足を踏み外しますか。
少々の沈黙の後、唐突に足を滑らせた鹿角さんに巻き込まれて、私は細道の片側の土手を、目の回るまで滑り落ちたのでした。
やっと、遭難しました、と言ってた冒頭に戻ります。
たき火のはぜる音が、暗闇に響きます。
パチッ パチ……
ころぼっくるの村から道を外れた私と鹿角さんは、どことも知れない森をさまよう羽目になったのでした。
今日で三日目です。
木々の様子を見ると、越えていた峠とは、また違う地域のようです。
たき火のはぜる音に混じり、鹿角さんが口を開きます。
「すまなかった。おれが足を滑らせたせいで。」
「そんな何回も謝って頂かなくても。そんな。足もと悪いところで話し続けた私が悪かったです。」
何だかんだと、鹿角さんがかばってくれたので、大きな怪我もないです。
これまでも、鹿角さんのおかげで危険を逃れたことが多かったので、私は鹿角さんに頭が上がりません。
だから夜歩きは危ないと。などとは一応思いましたが、それは自分でも承知して出てきたのだし、旅の道連れは、一蓮托生で連帯責任なのです。
携帯食も足りてます。現地調達も足りてます。
大丈夫です。
パチッ パチ……
「……。」
「……。」
なんでこっちの機を窺うように見てんですか。
急に会話が途切れるし、連日の山歩きにお疲れなのですか。
不可解な空気に、私は少し後ずさります。
「……火は見ているから休むといい。」
「はい。しばらくしたら交代しますね。」
たき火に程よく当たりながら、私は楽な姿勢を取り、目を閉じました。
そして自分でも驚くほどの安心感に包まれて、眠りについたのです。