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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第7話 北方航路

昭和十六年十一月二十七日 夜


広島県 呉海軍工廠


 夜の帳が降りると、呉軍港は昼間とはまったく違う表情を見せた。


 工廠の大型クレーンだけが投光器に照らされ、その光が黒い海面へ長く伸びている。


 岸壁では夜勤の工員たちが無言で作業を続け、鋼板を叩く乾いた音だけが規則正しく響いていた。


 戦艦大和もまた、闇の中で静かにその巨体を横たえている。


 艤装工事は昼夜を問わず続けられていた。


 正式就役まで二十日を切り、工廠全体が時間との戦いに入っていたのである。


 秋月誠は宿舎へ戻る前、もう一度だけ甲板へ立った。


 冷たい潮風が頬を打つ。


 甲板には夜間当直の将兵が立ち、必要最小限の照明だけが足元を照らしていた。


 夜の軍港は静かだった。


 しかし、その静けさは安心を与えるものではない。


 むしろ、何か巨大な出来事を待つような緊張感が漂っている。


「眠れそうにないか。」


 振り返ると、中佐が立っていた。


「申し訳ありません。」


「謝ることではない。」


 中佐は秋月の隣へ立ち、呉湾を眺めた。


「就役前の乗組員は、皆こんなものだ。」


「緊張、ですか。」


「ああ。」


 中佐は静かに頷く。


「自分の勤務する艦がどれほどの存在なのか、少しずつ実感してくる頃だからな。」


 しばらく二人は黙ったまま海を見つめていた。


 やがて中佐が小さく口を開く。


「兵学校では戦艦について何を学んだ。」


 突然の問いだった。


 秋月は少し考えてから答える。


「制海権の確保、艦隊決戦、そして主力艦としての運用です。」


「間違ってはいない。」


 中佐は静かに笑う。


「だが、実際の艦隊勤務ではもう一つ学ぶことになる。」


「何でしょう。」


「待つことだ。」


 秋月は思わず聞き返した。


「待つ……ですか。」


「そうだ。」


 中佐は水平線を見つめたまま続ける。


「軍艦は出撃するためだけに存在するのではない。命令を待ち、機を待ち、時を待つ。その忍耐もまた軍人の務めだ。」


 秋月はその言葉を胸の中で繰り返した。


 未来を知る自分にも当てはまる。


 焦って歴史を変えようとしてはいけない。


 機を待つ。


 その言葉には、不思議な重みがあった。


 翌朝。


 昭和十六年十一月二十八日。


 呉には雲一つない青空が広がっていた。


 朝礼を終えた秋月は、砲術科区画で砲側照準器の点検補助にあたっていた。


 兵曹長が手際よく調整を進め、その横で秋月が数値を記録していく。


「少尉、ここの数字を確認してください。」


「……二・〇五、異常なし。」


「ありがとうございます。」


 作業は地味だった。


 だが、その積み重ねが実戦では何より重要になる。


 工廠の技師が一人近づいてきた。


 作業着の袖には油汚れが付き、顔にも疲労の色が浮かんでいる。


「少尉殿。」


「はい。」


「この艦は、本当にすごいですよ。」


 技師は主砲塔を見上げながら笑った。


「わしは二十年以上艦を造ってきましたが、こんな戦艦は初めてです。」


 その表情には職人としての誇りがあった。


 秋月も自然と笑みを返す。


「皆さんのおかげで、この艦は海へ出られるんですね。」


「いや。」


 技師は首を振った。


「最後は海軍さんが命を懸ける。」


「我々は送り出すだけです。」


 短い会話だった。


 しかし秋月は、その一言が深く胸へ残った。


 工廠で働く人々もまた、この艦へ人生を懸けている。


 軍人だけが戦争を背負うのではない。


 国家とは、多くの人々の仕事によって支えられている。


 その瞬間だった。


 胸の奥が熱くなる。


 視界がゆっくりと白く染まっていく。


 今までで最も鮮明な映像だった。


 雪。


 激しく吹きつける風。


 灰色の海。


 その海を、一隻、また一隻と空母が進んでいく。


 艦影が六つ。


 旗艦らしき空母の飛行甲板には、一人の将官が立っていた。


 その顔が、ゆっくりとこちらを向く。


 秋月は、その人物を知っていた。


 南雲忠一中将。


 第一航空艦隊司令長官。


 その口が静かに動く。


『全艦、予定どおり航路を維持せよ。』


 その声は波にかき消され、続きは聞こえなかった。


 映像はそこで途切れる。


 秋月は思わず息を呑み、その場で拳を握り締めた。


 北の海で、何かが始まっている。


 それだけは、確かだった。


「少尉、大丈夫ですか。」


 工廠技師の声で、秋月は現実へ引き戻された。


「あ……申し訳ありません。少し考え事を。」


「お疲れでしょう。就役前は皆、気を張りますからな。」


 技師は気遣うように笑い、再び作業へ戻っていった。


 秋月は深く息を吐く。


 今見た映像は、これまでとは違っていた。


 人物の顔。


 艦隊の隊形。


 命令の声。


 断片ではあるが、少しずつ輪郭がはっきりしてきている。


 その日の午後も、大和では訓練が続いた。


 非常配置。


 消火訓練。


 艦内通信の確認。


 防水扉の開閉。


 地味な作業の繰り返しだったが、誰一人として手を抜く者はいない。


 兵学校では「戦場は一瞬で勝敗が決まるように見えて、その一瞬は何百時間もの訓練で支えられている」と教えられた。


 秋月は、その意味を毎日の勤務で実感し始めていた。


 夕方、訓練を終えた砲術科の士官たちは短い休憩を取っていた。


「少尉。」


 兵曹長が湯飲みを差し出す。


「ありがとうございます。」


 湯気の立つ番茶を口に含むと、冷え切った身体へ温かさが広がっていく。


「工廠の連中も大変ですね。」


 秋月が呟くと、兵曹長は頷いた。


「ああ。あの人たちも休みなく働いている。」


 窓の外では、夜勤に備える工員たちが工具を運んでいた。


「艦は海軍だけでは完成しない。」


「造る人間、整備する人間、補給する人間……皆がいて初めて一隻の軍艦になる。」


 秋月は静かに窓の外を見つめた。


 未来の記憶では、沈む艦ばかりが映っていた。


 しかし、その艦を造った人々の姿は見えなかった。


 もし戦艦が沈むということは、そこへ人生を懸けた人々の努力も海へ沈むということなのだ。


 その重みを思うと、胸が苦しくなる。


 夜。


 宿舎へ戻った秋月は、『未来の記録』を机へ広げた。


 今日は、これまでで最も多くのことを思い出した。


 慎重に筆を走らせる。


『第一航空艦隊』


『南雲忠一中将』


『北方海域』


『雪』


『灯火管制』


『無線封止』


『六隻の空母』


 そこで筆を止める。


 六隻。


 その数字だけが妙に心へ残っていた。


 なぜ六隻なのか。


 どこへ向かうのか。


 何を目指しているのか。


 そこだけは、まだ霧がかかったままだ。


 秋月はノートを閉じ、窓を開けた。


 夜風が静かに吹き込む。


 遠くから聞こえる工廠の機械音は、まだ止まっていない。


 就役まで残された時間は少ない。


 そして、それ以上に――未来が示した「十二月八日」までの日々も、確実に減っていた。


 秋月は夜空を見上げる。


「もう始まっている……。」


 誰にも聞こえない小さな呟きは、夜の呉へ静かに消えていった。


 歴史の歯車は、秋月の知らぬところでも確実に回り始めている。


 そして北の海では、日本海軍の命運を懸けた艦隊が、誰にも知られることなく航路を進み続けていた。


 ――続く。


あとがき


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


本作は、史実をできる限り忠実に描きながら、「もし未来を知る一人の海軍士官がいたら」という歴史IFを丁寧に積み重ねる作品です。史実の出来事や実在した方々への敬意を忘れず、一歩ずつ物語を進めていきます。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。


次回 第8話「十二月八日への航路」

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