第5話 答案返却の憂鬱、あるいは楽園の延長宣告
学期末の学校という場所は、独特の浮足立った熱気に支配されている。
答案返却という、本来なら生徒にとっても教師にとっても憂鬱な儀式でさえ、その後に控える「長期休暇」という免罪符の前では、単なる通過儀礼に過ぎない。
「……以上で、答案の返却を終わる。平均点は……まあ、お前たちが浮かれている割には悪くなかった」
俺は教壇に手をつき、手元の名簿に目を落とした。やる気のない声を意識的に出しながら、内心では奇妙な胸騒ぎを覚えていた。九条、佐々木、そして瀬戸。あの三人の点数が、あまりにも良すぎる。俺が授業の余談で話した、教科書には載っていないような歪んだ論理構成まで、彼女たちは完璧に正答として書き記していた。
まるで、俺の思考回路をそのままコピーしたかのように。
「あーあ、終わっちゃったねー、センセー!」
終礼のチャイムが鳴り響くのと同時に、佐々木結衣が席を蹴って俺の元へ駆け寄ってきた。
「見て見て、私の点数! 陸上部の馬鹿担当返上だよ。……ねぇ、これってご褒美ものじゃない?」
「……赤点を回避しただけで満足しろ。九条も、満点なのは結構だが、そんなに睨むな」
隣で静かに、しかし熱のこもった視線を送ってくる九条凛に釘を刺す。彼女は自分の答案を大切そうに胸に抱えながら、満足げに微笑んだ。
「当然です。先生の言葉は一言一句、聞き漏らしていませんから」
――やれやれ、これだ。
俺は心の中で大きく溜息をついた。
彼女たちの献身や好意は、確かに俺の孤独な生活を彩ってくれた。だが、それと同時に「教師」という仮面を維持するためのコストも跳ね上がっている。正直に言えば、疲労困憊だ。
「……さて。周知の通り、明日から春休みだ。羽目を外しすぎて警察の世話になるなよ。特に佐々木、お前は無駄に体力があるんだから、夜中に走り回るんじゃないぞ」
教室が歓声に包まれる。その騒ぎを背に、俺は足早にカバンをまとめた。
孤独? 寂しさ? そんなものは微塵もない。
今の俺が切望しているのは、誰にも邪魔されない、コンビニの安酒とカップ麺にまみれた、最低で最高の「一人きりの時間」だ。彼女たちと会わなくて済む二週間。それは、俺にとっての真のアタラクシア(魂の平穏)になるはずだった。
「じゃあな。良い休みを」
俺は彼女たちが何かを言い出す前に、逃げるように教室を後にした。
だが、その淡い期待は、校門へ続く渡り廊下であっけなく打ち砕かれた。
「先生、逃げ足が速すぎます」
背後から響く、聞き慣れた、そして今は最も聞きたくない声。
振り返れば、そこには九条凛と佐々木結衣が、まるで逃走経路を先読みしていたかのように立ち塞がっていた。その後ろで、瀬戸沙織がモブキャラのように淡々と本を読みながら佇んでいる。
「……何の用だ。俺はこれから、春休みという名の聖域に引き籠もる予定なんだが」
「それがダメだって言ってるんです!」
凛がぐいっと距離を詰めてくる。彼女の手には、なぜか新しいスケジュール帳が握られていた。
「先生のことですから、明日からまた昼夜逆転して、ゴミの山の中で生活するに決まっています。せっかく私が整えた先生の健康状態を、春休みの二週間でリセットさせるなんて……委員長として、いいえ、一人の人間として、倫理的に許容できません」
「そうだそうだよ、センセー! 私、寂しいもん!」
結衣が反対側から俺の腕に抱きつき、上目遣いで俺をロックする。
「春休み中、先生がどこかで倒れてても誰も気づかないんだよ? そんなの嫌だ。……ね、補習しよ? 先生の家で!」
「……断る。なぜ休みの日まで、お前たちの顔を見なきゃならんのだ。俺は一人になりたいんだ」
「先生、それは論理的な解決策ではありません。孤独は判断力を鈍らせます」
凛が冷徹な、しかしどこか楽しげな口調で追い打ちをかける。
「提案です。春休み期間中、私たちは交代で先生の自宅へ『特別補習』を受けに行きます。もちろん、食事の管理も含めて、です」
「……自宅? 正気か? 職権乱用、いや、これはもうストーカーの――」
「あー! 先生、今さら逃げられると思ってるの? 私、もう先生の家の近所の美味しいケーキ屋さん、リサーチ済みなんだからね!」
結衣の柔らかい感触と、凛の逃げ場を塞ぐような正論。
二人の波状攻撃を浴びながら、俺は直感した。ここでどれほど拒絶しようとも、彼女たちは手段を選ばずに俺の領域へ踏み込んでくるだろう。下手に抵抗して余計な労力を使うより、適当に流して「擬態」を継続する方が、長期的には合理的だ……。
「……わかった。勝手にしろ。ただし、毎日来るなよ。あと、部屋を勝手に弄るな」
「善処します、先生」
「やったー! センセー大好き!」
結衣に背中を叩かれ、凛に勝ち誇ったような笑顔を向けられ、俺は深い絶望と共に頷いた。
俺の春休みは、始まる前に終わった。
校門を出る。
開放感に満ち溢れた表情で帰路につく生徒たちの群れの中で、俺だけが、左右を美少女に固められた状態で歩いていた。
「……やれやれ。これじゃあ、学校にいるのと変わらないじゃないか」
「何か言いましたか、先生?」
「……いや。休暇中も食生活が乱れないのは、合理的だと思っただけだ」
俺は自らに言い聞かせるように、そう呟いた。
モテていると言えば聞こえはいいが、その実態は「二十四時間監視付きの介護」に近い。めんどくさい、実にめんどくさい。だが、彼女たちが用意したこの「心地よい依存の沼」に足を取られている自分も、確かに存在していた。
一人になれば、また「あの日の記憶」が俺を食い殺しに来る。
それを防ぐための防壁として、この騒がしい少女たちはあまりに優秀すぎた。
「先生、明日は朝九時に伺いますからね。寝坊厳禁です」
凛が耳元で囁き、結衣が元気に手を振って別れる。
俺は一人、夕闇の迫る駅への道を急いだ。
まるで、背後から忍び寄る「本当の絶望」から、逃げるように。




