第4話 嫉妬の味はレモン風味、あるいは抜き打ち私物検査
平和という名の仮面は、厚ければ厚いほど、その下にある素顔を呼吸困難に陥らせる。
三月の半ば、学園を包む空気はすっかり春の体裁を整え、生徒たちの浮き足立った気配が廊下の隅々にまで満ちていた。俺、佐藤は、いつものように眠気と戦いながら、重い教案カバンを提げて職員室の入り口に立った。
「あ、先生! 遅いですよ!」
「発見! センセー、おはよう!」
入り口の両脇から、まるであらかじめ伏兵が配置されていたかのようなタイミングで、九条凛と佐々木結衣が飛び出してきた。
「……九条に、佐々木か。朝から元気だな。まだ予鈴までは時間があるはずだが」
「当たり前です。先生がまただらしない格好で登校していないか、チェックしなきゃいけませんから」
凛が厳しい顔をして俺のネクタイを整え始める。その手つきは、もはや手慣れた職人のようだ。
「えー、凛ちゃんばっかりズルイ! 私だって先生のボタンが取れてないかチェックするもん!」
結衣が反対側から俺のジャケットを引っ張り、ポケットの中を勝手に覗き込もうとする。右から清潔な石鹸の香り、左からは朝練終わりの爽やかな汗の匂い。
「……二人とも、ここは職員室の前だ。他の先生たちの目がある」
「関係ありません。先生の倫理を正すのは委員長の務めです。……それより先生、そのカバン。パンパンじゃないですか。何が入っているんですか?」
凛が、俺の使い古した革のカバンを指差した。
「……ただの資料だ。採点済みの答案とか、読みかけの本とか」
「ダメです。整理整頓ができない人間は、精神も乱れている証拠。……ちょっと貸してください」
「おい、九条! それはプライバシーの――」
「私も手伝うー!」
俺の制止も虚しく、凛と結衣によってカバンが強引に奪われ、廊下のベンチへと運ばれた。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
カバンの中には、特別なものは入っていないはずだ。だが、一年前の「彼女」に関する何かを、無意識に持ち歩いてはいないか。警察の事情聴取で使ったメモや、彼女が屋上に残した私物の断片。もしそんなものが彼女たちの目に触れれば――。
「えー、先生。カバンの中にチョコバーのゴミが入ってるよ。不潔ー」
「……それは昨日の糖分補給だ。捨て忘れただけだ」
「あ、先生。この栞、素敵ですね。押し花ですか?」
凛が、俺の読みかけの文庫本から、一枚の古い栞を取り出した。
俺は息を止めた。それは、一年前の彼女が好きだった青いアジサイの押し花……だったかもしれない。だが、凛の手にあるのは、ただのどこにでも売っているような市販の紙の栞だった。
「……ああ、それは、いつか古本屋で買ったやつだ」
「ふーん、先生って意外とロマンチストなんですね。……よし、整理完了です。はい、先生。カバンの中身は、常にその状態を保ってくださいね」
安堵のあまり、膝の力が抜けそうになった。
俺自身さえ、自分の過去を「ただの市販品」に置き換えて認識し始めている。
彼女たちの無邪気な笑顔が、俺の恐怖を塗りつぶしていく。
昼休み。屋上の風景は、もはや「修羅場」という名のエンターテインメントへと変貌していた。
「先生! 今日こそ私のマッスル弁当を食べてください! 鶏ささみの特製スパイス焼きです!」
「いいえ、今日は私の『栄養バランス完璧御膳』です。先生、昨日から少し胃が重そうでしたから、消化に良いメニューにしてきました」
右に結衣、左に凛。
レジャーシートの上で、二人の少女が火花を散らしている。
「結衣の料理は極端なのよ! 先生をプロレスラーにするつもり?」
「凛ちゃんだって過保護すぎ! 先生を甘やかしてダメ人間にする気でしょ!」
「……二人とも、落ち着け。俺の胃袋は一つしかない」
「じゃあ、どっちがいいか先生が決めて!」
同時に突きつけられる箸。
凛のだし巻き卵と、結衣のささみ焼き。俺は両サイドから迫る熱視線に耐えかね、交互にそれらを口に運ぶ。
「……どちらも美味いよ。本当に」
「答えになってません!」
「あはは、先生、顔が引きつってるよー」
賑やかな、あまりにも賑やかな昼食。
俺は、自分がかつて「一人の人間を殺した」という事実を忘れそうになるほど、この安直なハーレム展開に流されていた。
「あ、そうだ先生。最後にこれを食べてください。今日のメインディッシュです」
凛が、小さなタッパーを取り出した。蓋を開けると、爽やかなレモンの香りが鼻腔をくすぐった。
「……これは?」
「『鶏肉のレモン煮』です。少し酸味を効かせて、さっぱり仕上げてみました。はい、あーん」
俺は、何も考えずに口を開けた。
噛みしめた瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
レモンの酸味。鶏肉の柔らかな食感。醤油と砂糖の、絶妙な甘辛いバランス。
それは、一年前。
屋上のフェンスの前で、死を目前にしたあの少女が、最後のお弁当を広げながら言った言葉を、鮮明に、あまりにも鮮明に呼び覚ました。
『先生、これ……給食で一番好きだったんです。母が、最後だからって作ってくれて……先生も、一口食べますか?』
あの時の味。あの時の香り。
俺は、彼女の死を「論理的」に導きながら、彼女が差し出したその一切れを、無機質に咀嚼したのだ。
「……っ、げほっ、……九条、これ、は……」
「先生? どうかしましたか? 顔色が真っ青ですよ」
凛が、心配そうに俺の顔を覗き込む。その瞳は、一点の曇りもないビー玉のように澄んでいる。
「……いや。少し、……酸っぱかっただけだ。珍しいな、このメニュー」
「あ、これですか? ネットで『男子が喜ぶ懐かしの味レシピ』を検索したら出てきたんです。先生の世代なら、給食とかで食べたことあるかなって」
「……そう、か。偶然か」
「え、何がですか?」
「……いや。何でもない」
偶然。そうだ、偶然に決まっている。
鶏肉のレモン煮なんて、どこにでもある家庭料理だ。
彼女たちが、一年前のあの日の、あの瞬間のお弁当の中身まで知っているはずがない。
「先生、美味しかった? 凛ちゃんに負けてられないな。明日は私、レモンステーキ焼いてくる!」
結衣が能天気に笑う。
俺は、震える手で茶を飲み込んだ。
胃の奥で、レモン煮が鉛のように重く沈んでいる。
彼女たちの好意という名の光が強ければ強いほど、その裏側に潜む「記憶」という影が、俺を呪い殺そうと這い上がってくる。
「先生、完食ですね。嬉しいな」
凛が、空になったタッパーを愛おしそうに撫でた。
その指先が、一瞬だけ、死体のような冷たさを帯びているように見えたのは、俺の錯覚だろうか。
放課後。
俺は、逃げるように職員室を後にした。
廊下を歩いていると、前方に腕を組んで仲良く談笑しながら歩く二人の後ろ姿が見えた。
九条凛と、佐々木結衣。
「――今日の、見た?」
「うん。一瞬顔、死んでたね」
「やっぱり、覚えてるんだ。あんなにかんじなのに」
「もっと食べさせてあげようよ。先生の『大好き』なもの、いっぱい」
風の音に紛れて、そんな声が聞こえた気がした。
俺が足を止めると、二人は同時に振り返り、太陽のような笑顔を俺に向けた。
「あ、先生! さようなら!」
「また明日ね、センセー!」
二人は元気よく手を振り、夕闇の廊下へと消えていった。
俺は、一人。
冷え切った廊下で、自分の心臓の音だけを聞いていた。
王道ラブコメ。
その甘い菓子の中心には、決して消えない「毒」が仕込まれている。
俺は、彼女たちの笑顔という名の「倫理」に、一歩ずつ処刑台へと導かれているのかもしれない。




