第3話 屋上の侵入者と、情熱のプロテイン
人間という生き物は、恐ろしいほどに環境に適応する動物だ。
九条凛による「屋上お弁当イベント」が始まってから数日が経過した。俺の胃袋は、かつての主食であった保存料たっぷりのカップ麺を「非合理的で野蛮な燃料」と見なすようになり、出汁の効いた煮物や、旬の野菜の瑞々しさを熱烈に歓迎し始めていた。
今日もまた、俺は吸い寄せられるように屋上のフェンス際へと足を運んでいた。
三月の風は、日に日にその鋭さを失い、春の柔らかな湿り気を帯び始めている。
「先生、お疲れ様です。今日は『レンコンの挟み揚げ』が上手くできました」
凛はすでにレジャーシートを広げ、俺の定位置(彼女のすぐ隣)を空けて待っていた。彼女の膝の上には、もはや見慣れた桜色の重箱が鎮座している。
「……九条。今日も、その、……頼む」
「ふふ、素直でよろしい。はい、あーん」
もはや抵抗することすら無意味だと悟っていた。俺は促されるまま、彼女が差し出した箸を受け入れるべく、ゆっくりと口を開けた。
だが、その刹那。
静寂を保っていた屋上の重い鉄扉が、まるで大型トラックでも衝突したかのような轟音と共に跳ね飛ばされた。
「あーーーーーっ! センセー! 凛ちゃん! 発見! 捕まえたーっ!」
爆音のような声と共に、ポニーテールを激しく揺らしながら突進してくる影があった。陸上部のエース、佐々木結衣だ。彼女はアスファルトを蹴る陸上部特有の力強い足取りで距離を詰めると、俺の反対側の脇腹に、弾丸のような勢いで飛び込んできた。
「ぶふぉっ……!? さ、佐々木……っ」
「あー! ズルイ! 凛ちゃんばっかり先生と美味しいもの食べてる! 私だって先生とイチャイチャしたいのに!」
結衣は俺の右腕を自分の両腕でぎゅっと抱きしめると、これ以上ないほど密着してきた。ジャージ越しに伝わってくる彼女の体温は、凛のそれよりも数段高く、全力疾走の後なのか、微かな汗の匂いと石鹸の香りが混じり合って俺の鼻腔を刺激する。
「ちょっと、結衣! 破廉恥よ、離れなさい!」
凛が顔を真っ赤にして叫び、箸を置いて俺たちを引き剥がそうとする。
「えー! 凛ちゃんこそ独占禁止法違反だよ! 私だって先生のことが心配なんだもん。ねぇ先生、凛ちゃんのご飯は炭水化物と糖分が多すぎ! 先生、最近ちょっとお腹周りが柔らかくなってきたでしょ? 触ればわかるんだから!」
そう言いながら、結衣は俺のシャツの裾から強引に手を差し入れようとする。
「おい、やめろ……っ、くすぐったい!」
「あはは、先生、弱っ! ほらほら、ここ、筋肉が全然足りないよ! もっとプロテイン摂取して、私がマッサージしてあげないと!」
結衣の指先が、容赦なく俺の脇腹や二の腕を揉みほぐしていく。彼女の手のひらは、スポーツ選手らしく適度に硬く、しかし女性特有の柔らかさを備えていた。
右からは凛の「不潔よ! 先生から離れて!」という怒声。左からは結衣の「いいじゃん、減るもんじゃないしー」という屈託のない笑い声。
俺は、自分が哲学的な対話の中にいるのか、あるいは単なる肉の壁として消費されているのか分からなくなってきた。
「先生、結衣の言うことなんて聞かなくていいんです。さあ、私の挟み揚げを!」
「ダメだよ先生! 筋肉にはこっち! 私特製の『高タンパク・低脂質・マッスルバー』!」
結衣がポケットから取り出したのは、茶褐色の塊に、何らかのナッツが埋め込まれた、およそ食べ物とは思えない無骨な物体だった。
「……佐々木。これは、食べ物としての論理を保っているのか?」
「見た目はいいの! 効率だよ、効率! さ、あーん!」
左からは凛の「だし香る挟み揚げ」、右からは結衣の「泥のようなマッスルバー」が迫る。
俺は、プラトンが説いた『肉体は魂の牢獄である』という言葉を思い出した。今の俺は、まさにこの二人の少女という肉体的な熱狂に挟まれた、逃げ場のない囚人だった。
「……わかった。わかったから、順番にしてくれ」
「じゃあ、私が先!」(結衣)
「いいえ、お弁当が先です!」(凛)
結局、俺は二人の少女に代わる代わる食べ物を押し込まれるという、前代未聞の「ダブルあーん」の刑に処されることになった。
凛の料理は相変わらず絶品で、胃を優しく包み込んでくれる。対して結衣のマッスルバーは、砂を固めたような食感と、強烈な大豆の香りが喉を焼き、俺に「生きるための闘争」を強いてくる。
「もぐ……もぐ……。佐々木、これは……その、なかなかの破壊力だな」
「でしょでしょ! 先生が強くなれるように、隠し味に特濃プロテインパウダーを練り込んであるんだから!」
結衣は俺の反応を「美味しい」と誤解したのか、さらに俺の肩に頭を預けて擦り寄ってきた。
賑やかで、やかましくて、そして圧倒的に甘酸っぱい空気。
一年前のあの日、俺がこの手で切り捨てたはずの「青春」という名の不条理が、今、猛烈な勢いで俺の日常を塗り替えていく。
五時間目の倫理の授業。俺は、いつになく乱れた息を整えながら、黒板に向き合った。
腕にはまだ、結衣が抱きついていた感触が残っている。
「……さて。今日のテーマは、古代ギリシャの哲学者、プラトンだ」
俺はチョークで黒板に『肉体』と『牢獄』という二つの単語を並べた。
「プラトンは、人間を二つの要素で構成されていると考えた。不滅の『魂』と、不浄な『肉体』だ。彼は肉体のことを、魂が真理を求めるのを妨げる『牢獄』であると説いた。佐々木、お前のように筋肉の躍動を喜び、触覚の快楽を享受する生き方は、プラトンからすれば、本物の太陽を知らずに洞窟の壁に映った『影』を喜んでいるようなものだ」
最前列で、結衣が「えーっ」と不満げな声を上げる。
「先生、また私のことディスってるでしょ!」
「……学問的な例示だ。肉体という牢獄から解放され、精神的な結びつき(プラトニック・ラブ)を追求することこそが、人間としての至高の営みである……というのが、彼の主張だ。だが」
俺はふと、言葉を止めた。
昼休み、二人に挟まれて感じたあの圧倒的な「体温」。
それさえも「影」だと言い切るには、今の俺の心拍数はあまりにも不安定だった。
「……だが、もしその牢獄が、あまりにも心地よい温もりを持っていたとしたら。中の魂は、果たして外に出たいと願うだろうか。それとも、一生その檻の中で、影を見続ける道を選ぶのか。……それは、各々で考えてみてくれ」
授業が終わった後の休み時間、凛と結衣が俺の席にやってきた。
「先生、今の話、ちょっと素敵でした。私も、先生と一緒にずっと同じ『影』を見ていたいな、なんて」
凛が少し照れながら言い、結衣がそれに被せるように俺の背中を叩く。
「私は牢獄ごと先生を鍛えちゃうけどね! 先生、放課後のストレッチも付き合ってよ!」
二人の少女の笑い声が、教室を明るく彩る。
王道ラブコメという名の、完璧な擬態。
俺は彼女たちの中心で、ただ困ったように微笑む「善良な教師」を演じ続ける。
夕暮れ、誰もいなくなったグラウンドの脇。
結衣は一人、夕日に向かってストレッチをしていた。その動作は流麗で、まるで精密な機械のように美しい。
「あ、先生! お疲れ!」
「……佐々木。まだ走っていたのか」
「うん。……ねぇ先生。先生、ちょっとだけ腕の筋肉、ついてきたね」
結衣は俺の側に歩み寄り、俺の右腕をそっと、しかし力強く握った。
「一年前、あの子が泣いてたとき……先生、そんなに頼りない体をしてたの?」
「…………」
「あはは、冗談だよ! 先生がガリガリのままじゃ、・・・もっともっと健康になって。私たちが、先生のことを『完璧』にしてあげるから」
彼女の笑顔は、夕日を受けて黄金色に輝いていた。
だが、俺の腕を掴む彼女の指先は、決して逃さないという鋼のような意志で満ちていた。
「じゃあね、先生! 明日の朝も、マッスルバー、期待してて!」
去っていく彼女の背中を見送りながら、俺は自分の右腕を見つめた。
肉体は、魂の牢獄。
もしそうなら、この「幸福」という名の鎖は、いつ俺の首を絞めるのだろうか。
俺は、震える手でカバンを締め、夜の帳が降りる学園を後にした。




