第2話 委員長の献身は、逃げ場を許さない
三月の陽光が、埃の舞う職員室に差し込んでいた。
窓の外では、春の訪れを待ちきれない一部の気が早い桜が、蕾をピンク色に染め始めている。校内には休み時間を謳歌する生徒たちの喧騒が満ちており、それは平和そのものの音色だった。
俺、佐藤は、自分のデスクの上の『超激辛マシマシ油そば』のカップをじっと見つめていた。
蓋の隙間から漏れ出る、暴力的なまでにジャンクな香辛料の香り。それは不健康の極致であり、そして同時に、やる気のない独身教師にとっては唯一と言ってもいい生命の維持装置だった。
よし、と。俺は心の中で小さく頷き、割り箸をパチンと割った。
――その刹那、視界がピンク色の影に遮られた。
「はい、没収です。先生」
凛とした、しかしどこか弾むような声と共に、俺の昼飯(予定)が鮮やかに奪い去られる。
「……九条。返せ。それは俺の今日唯一の楽しみ、もといエネルギー源だ」
俺が顔を上げると、そこには腰に手を当てて仁王立ちするクラス委員長、九条凛がいた。
丁寧に整えられた艶のある黒髪が、春の微風に揺れている。彼女は、ゴミ箱の蓋を足で踏んで開き、俺の油そばをダンクシュートしようとする体勢で静止していた。
「ダメです。塩分、脂質、そしてこの脳を麻痺させるような人工的な匂い……倫理を教える立場の人間が、自分の身体に対してこれほど不誠実であることは、私は断じて認めません」
「……不誠実も何も、ただの食事だ。身体は精神を維持するための燃料タンクに過ぎない」
「その燃料が粗悪品なら、精神だって汚染されます! はい、没収!」
ボフン、という無慈悲な音と共に、俺の『油そば』はゴミ箱へと消えた。
「あ……」
俺の数少ない楽しみが、一瞬にして物理的な廃棄物と化した。
「絶望したような顔をしないでください。代わりに、これがあるんですから」
彼女がカバンから取り出したのは、可愛らしい桜色の布に包まれた、ずっしりと重みのある三段重ねの重箱だった。
「……九条。それは、なんだ」
「お弁当です。昨日の夜、先生がまた『お湯があれば死なない』なんて自堕落なことを言っていたから、気合を入れて作ってきたんです。ついで、ですよ。ついで」
少しだけ頬を染め、ふいっと顔を背けながら彼女は言う。だが、その「ついで」にしては、包みの布には一切のシワもなく、彼女の指先がどれほど丁寧にそれを準備したかを物語っていた。
彼女は俺の腕を強引に掴むと、椅子から立ち上がらせた。
「ほら、行きますよ。屋上の特等席を確保しておきましたから。先生、ぼーっとしない!」
「おい、引っ張るな……九条、待てって」
職員室を横切る際、同僚の教師たちの視線が痛いほど突き刺さる。
「佐藤先生、また九条さんに捕まったのか」
「若いっていいわねぇ、お世話係の奥さんみたい」
「夫婦漫才はよそでやってくれよ」
そんな無責任な野次を背中に受けながら、俺は引きずられるようにして屋上へと連行された。
屋上のフェンス越しに広がる青空は、どこまでも高く、残酷なほどに透き通っていた。
凛は手慣れた動作でレジャーシートを広げ、俺を座らせた。彼女はそのすぐ隣、肩が触れ合うか触れ合わないかという際どい距離に腰を下ろす。
「さあ、開けますよ? 驚かないでくださいね」
彼女が桜色の布を解き、蓋を開ける。
そこには、宝石箱のような光景が広がっていた。
一粒ずつ丁寧に形を整えられたおにぎり。黄金色のだし巻き卵。彩りを添えるブロッコリーにミニトマト。そして、俺の好物――唐揚げ。
「……すごいな。本当に一人で作ったのか?」
「当然です。私、家事は得意なんです。お母さんに代わって夕飯を作ることもありますから。ほら、先生、まずはこの卵焼き。冷めないうちに食べてください」
凛は箸を手に取ると、一切れの卵焼きを俺の口元に突き出した。
「……九条?」
「はい、『あーん』」
「……いや、箸は自分で持てる。貸してくれ」
「ダメ。先生に箸を渡したら、また適当にかき込んで終わらせるでしょう? ゆっくり味わって、よく噛んで食べること。はい、あーん」
彼女の瞳が、至近距離で俺を射抜く。
澄み切った瞳。一点の曇りもない、真っ直ぐな好意。
太陽の光を受けて、彼女の長い睫毛が細かな影を落としている。そのあまりに完璧な「王道ヒロイン」としての振る舞いに、俺の喉が不自然に鳴った。
「……いいから、早く。腕が疲れちゃいます」
少しだけ口を尖らせて催促する彼女に、俺は抗うことができなかった。
ゆっくりと口を開ける。
差し出された卵焼きを、迎え入れるように。
「……もぐ。……っ」
「どうですか?」
口の中に広がるのは、出汁の優しい香りと、ほんのりとした甘み。
コンビニの弁当や、激辛の油そばでは決して味わえない、手間暇をかけた「家庭」の味だった。
「……美味い」
「ふふ、でしょう! 隠し味にちょっとだけお砂糖を入れてるんです。先生、お疲れみたいだから」
凛は満面の笑みを浮かべ、自分も嬉しそうにおにぎりを頬張った。
彼女の献身は、暴力的なまでに純粋だ。
俺という「罪人」を、温かな食事と眩しい笑顔で包み込み、外界から遮断しようとする。
彼女たちは、俺の正体を知らない。
だからこそ、この「ラブコメ」が成立する。
彼女の作る卵焼きが、俺の舌を、心を、麻痺させていく。
「先生、次は唐揚げですよ。こっちはニンニク控えめにしておきました。午後も授業ありますもんね」
「……九条、もういい。自分でも食べる」
「もう、遠慮しないでください。……私、こうして先生にお弁当を食べてもらうの、ずっと楽しみにしてたんですから」
彼女は少しだけ俯き、照れ隠しのように俺の腕を軽く小突いた。
その感触。その温もり。
俺は、彼女が差し出す箸を拒むことができないまま、ただ流される。
お人好しな教師と、献身的な委員長。
その「設定」が盤石であればあるほど、俺は逃げ場を失っていく。
彼女の愛という名の檻は、油そばのカップよりも、ずっと俺の心に深く食い込んでいた。
「……ご馳走様。本当に、美味しかったよ」
三段の重箱が空になった頃、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「お粗末様でした。……ふふ、空っぽ。嬉しいな」
凛は満足げに重箱を片付け、立ち上がる。彼女は俺の顔を覗き込み、少しだけ真面目な表情になった。
「先生。私、明日も作ってきます。だから、カップ麺は買わないでくださいね?」
「……毎日は大変だろう。九条だって勉強がある」
「先生のためなら、全然大変じゃありません。……私、先生を救いたいんです。不健康な生活からも、……その、時々見せる寂しそうな顔からも」
彼女は一瞬、俺の手に自分の手を重ねようとして、恥ずかしそうにそれを引っ込めた。
「……じゃあ、教室で!」
跳ねるような足取りで屋上を去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は重い溜息をついた。
――救いたい、か。
もし彼女が真実を知った時、その言葉をどう書き換えるだろうか。
俺は自分の右手をじっと見つめる。そこには、彼女の指先が触れた微かな熱が残っている。
擬態された楽園。
王道ラブコメという名の茶番劇。
その幕は、まだ上がったばかりだった。




