第1話 功利主義の朝に、彼女たちは微笑む
二月半ば、冬の終わりを告げるような、湿った風がカーテンを揺らした。
二〇二六年。
カレンダーの数字は無情に時を刻んでいるが、俺の部屋だけは一年前から時間が止まっている。
万年床の匂いと、賞味期限の切れたレトルト食品の空き箱。
それが俺の城であり、牢獄だった。
液晶テレビのスイッチを入れると、無機質な青い光が部屋を侵食する。
画面の中では、華やかなニュースキャスターが、昨日と変わらない笑顔で地獄のようなニュースを読み上げていた。
『――続いてのニュースです。
一年前、聖マリウス学園の中庭で死亡しているのが発見された当時三年生の女子生徒について、所轄の警察署は改めて「事件性なし、自殺」との最終報告をまとめました。
これを受け、再調査を求めていた市民団体は……』
俺はリモコンを投げ捨て、画面を消した。
「……無意味だ」
独り言が、冷えた空気の中に溶けていく。
俺は鏡に向かい、寝癖を残したまま、くたびれたネクタイを首にかけた。
「さあ、仕事の時間だ」
聖マリウス学園の正門をくぐれば、そこは色鮮やかな若者たちのエネルギーで溢れていた。
俺は背中を丸め、なるべく目立たないように「やる気のない教師」の歩調で廊下を進む。
「あーっ! センセー! 発見! 捕まえたーっ!」
背後からドスンという衝撃。
背中に柔らかく、しかし引き締まった体温が押し付けられる。
陸上部のエース、佐々木結衣だ。
「……佐々木。廊下は走るなと言ったはずだ。
運動量(Momentum)の保存法則を考えろ。
俺のような虚弱な教師に衝突すれば、エネルギーがすべて俺の腰にダメージとして変換される」
「えへへ、大丈夫だよセンセー! 私が支えてあげるから! ほら、今日もお肌カサカサじゃん。
ちゃんと野菜食べてる?」
結衣が俺の頬を指でツンツンとつつく。
彼女の指先からは、冬の寒さを吹き飛ばすような、生命力に満ちた熱が伝わってくる。
「……野菜は食べてる。
コンビニのサラダをな」
「それダメなやつ! 今度、私が特製のプロテインスムージー作ってきてあげるね!」
「ちょっと、結衣! 先生を困らせないの」
鋭いが、どこか心地よい鈴の音のような声が響く。
クラス委員長の九条凛だ。
彼女は手際よく結衣を俺から引き剥がすと、呆れたようにため息をついた。
「先生も先生です。
シャツのボタンが一つ、掛け違えてますよ」
「……ああ、本当だ。
気づかなかった」
「もう、私がいないと先生はすぐボロが出るんだから。
じっとしててください」
凛が至近距離で俺の胸元に手を伸ばす。
彼女の指が、俺のシャツのボタンを一つずつ外し、留め直していく。
ふわりと漂う、清潔な石鹸の香りと、彼女の吐息。
「……九条、助かるよ」
「お礼は、今日の私の『家庭科の試作弁当』、全部食べること! いいですね? 残したら……万死に値しますよ?」
凛は悪戯っぽく微笑み、指で「バツ印」を作ってみせた。
「……朝から、ずいぶんと賑やかなことですね」
喧騒を切り裂くような、冷徹で知的な声。
図書室の主、瀬戸沙織が、分厚い哲学書を抱えたまま、眼鏡の奥の鋭い瞳でこちらを見ていた。
「瀬戸か。
おはよう」
「おはようございます、先生。
……九条さん、あまり先生を甘やかさない方がいいですよ。
この人は、放っておくとどこまでも堕ちていく『快楽の奴隷』なんですから」
「もう、沙織は相変わらず厳しいんだから!」
凛が笑いながら瀬戸の肩を叩く。
瀬戸は小さくため息をつき、俺の目をじっと見据えた。
「先生。
今日の倫理の講義、楽しみにしています。
……『嘘』について、また面白い解釈を聞かせてくださいね」
彼女たちの明るい笑い声が、廊下に響き渡る。
「今日は『嘘』についてはしないぞ」
その光景は、どこからどう見ても、幸福なラブコメディーの一幕だった。
俺は、その中心で「お人好しの鈍感教師」を演じ続ける。
三時間目。
窓の外では体育の授業を受ける生徒たちの歓声が聞こえる。
俺は教壇に立ち、白亜のチョークを手に取った。
「……さて。
今日は『功利主義(Utilitarianism)』について話をしよう。
十九世紀のイギリスで生まれた、極めて合理的で、かつ……冷酷な哲学だ」
生徒たちの視線が集まる。
寝ている生徒も、今はいない。
俺の授業は、なぜか生徒たちの食いつきがいい。
それが、俺の弁論術の賜物なのか、あるいは……。
「提唱者はジェレミ・ベンサム。
彼の思想を一言で言えばこうだ。
『最大多数の最大幸福(The greatest happiness of the greatest number)』。
ベンサムは、幸福とは『快楽』の量であり、それは計算可能であると考えた。
彼はこれを快楽計算(Hedonistic calculus)と呼んだ。
強さ、持続性、確実性……それらの要素を数値化し、社会全体のプラスが最大になる選択こそが『正義』であるとしたんだ」
俺は黒板に、大きな不等式を書く。
「例えば。
ここに一人の病人がいるとする。
彼の臓器を、他の五人の重病人に分け与えれば、一人の命と引き換えに五人の命が救われる。
功利主義的な計算に基づけば、一人の犠牲は『正しい』ということになる」
教室に、ざわめきが広がる。
凛が、不思議そうな顔で手を挙げた。
「先生。
でも、それっておかしくないですか? その一人の気持ちはどうなるんですか?」
「いい質問だ、九条。
だが、ベンサムの論理において『個人の感情』は、全体の数値の前では無力だ。
……話を広げてみよう。
例えば、一年前のあのような痛ましい事件だ。
……一人の情緒不安定な生徒が、学校全体の空気を停滞させ、多くの生徒に不安を与えていたとする。
その生徒が、ある日突然、自ら命を絶つことで……結果として学校に平穏が戻り、他の数百人の生徒が心置きなく受験や部活に専念できるようになったとしたら。
功利主義の観点からすれば、その生徒の死は、学園全体の総幸福量を増大させた『善行』だった、という解釈も成立するわけだ」
静寂。
針が落ちる音すら聞こえそうなほど、教室は冷え切った。
俺は、自らの罪を「学問」という皮を被せて、堂々と肯定してみせる。
これこそが快感だった。
倫理という名の凶器で、真実を切り刻む瞬間だ。
「……先生」
最前列の瀬戸沙織が、静かに口を開いた。
「それは、『多数派の暴力』を肯定していることになりませんか?」
「否定はしない。
だが、現実の社会はそうやって動いている。
……一人の異分子を排除し、多数派の平穏を守る。
それが、君たちが生きている世界の正体だ。
……さて。
この話の続きは、また来週だ。
チャイムが鳴る前に、今日の出席確認の代わりに『自分が考える最も効率的な犠牲』について、裏紙に書いて提出しろ」
夕暮れの教室。
オレンジ色の光が、無人の机を長く伸ばしている。
俺は集めた解答用紙をカバンに詰め、職員室へ戻ろうとした。
「先生、お疲れ様!」
後ろから声をかけてきたのは、九条凛だった。
彼女は部活の準備なのか、ジャージ姿に着替えていた。
「今日の授業、ちょっと怖かったです。
でも……先生が言うと、なんだか納得しちゃうのが悔しいな」
「……学問に正解はない。
俺の言葉を鵜呑みにするなよ、九条」
「ふふ、わかってます。
……あ、そうだ。
お弁当の空、返してくださいね。
明日も作ってきますから」
彼女の笑顔は、夕日を浴びて神々しいほどだった。
俺は、彼女の頭を軽く撫でてやる。
教え子を慈しむ、善良な教師のふりをして。
「ああ。
楽しみにしているよ」
学校を出て、独りになった途端、俺の表情から感情が抜け落ちる。
カバンの中から、一通の封筒を取り出す。
それは、一年前の彼女――自殺した生徒から、死の直前に渡された手紙だ。
中身は白紙。
彼女は何も言わずに死んだ。
俺はそれを、ゴミ箱に捨てようとして、やめた。
「……幸福とは、不幸ではないこと。
だとすれば、俺は今、最高に幸福なんだろうな」




