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大正桜恋譚―恋と土俵と古書店―  作者: 明石竜


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9/9

最終話 未来への希望

新しい翠雲堂の本店舗も完成した。国技館のすぐ近くだ。店は小さくなったが、相撲の資料を中心に、少しずつ在庫を増やしていった。

鬼丸さんは現役を続けながら、夜は店を手伝った。大きな身体を屈めて古書を整理する姿は、もうすっかり見慣れた光景になった。

「千鶴さん、これを見てください」

ある日、鬼丸さんが一冊のノートを見せてくれた。そこには、祖父の日記が丁寧に書き写されていた。

「震災の前に、少しずつ書き留めていたんです。全部は無理でしたが、大事な部分は残せました」

「鬼丸さん...」

「これはわたしたちの宝物です。そして、いつか生まれる子供たちにも伝えたい」



結婚して三ヶ月。私のお腹に、新しい命が宿った。

「本当ですか!」

鬼丸さんは、子供のように喜んだ。

「父さんになるんですね、私が」

「良い父親になりますよ」

私は彼の手を取った。

「あなたなら、きっと」

父も大喜びだった。

「孫か。早く顔が見たいものだ」

妊娠中も、私は店を手伝い続けた。

お腹が大きくなってくると、鬼丸さんが心配して、

「無理しないでください」

と何度も言った。

「大丈夫です。これくらい」

でも、確かに体は重くなっていた。

十二月、予定日が近づいてきた。

ある夜、陣痛が始まった。

「千鶴さん!」

鬼丸さんが慌てて産婆さんを呼びに走った。

長い夜だった。

痛みに耐えながら、私は思った。

新しい命を迎える。その責任の重さを。

でも、怖くはなかった。

鬼丸さんがいる。父がいる。

そして、この子を守ってくれる、たくさんの人々がいる。


夜明け前、赤ん坊の泣き声が響いた。

「元気な男の子ですよ」

産婆さんが笑顔で言った。

鬼丸さんが部屋に入ってきた。

「千鶴さん、ご苦労様でした」

彼の目には、涙が光っていた。

赤ん坊を抱き上げる鬼丸さん。

その大きな手の中で、小さな命が安心したように眠っている。

「名前は、どうしましょう」

(つたう)

鬼丸さんが即答した。

「大切なものを伝え続けるように。それが、この子の使命です」

「伝...良い名前ですね」

私は涙を流しながら微笑んだ。



伝が生まれてから、私たちの生活は一変した。

真夜中の授乳、おむつの交換、泣き止まない赤ん坊をあやす日々。

でも、その全てが愛おしかった。

鬼丸さんは、稽古が終わると必ず家に帰ってきた。

「伝、父さんだよ」

大きな手で優しく抱き上げる。

その姿を見るたびに、私の心は温かくなった。

店も順調だった。

震災前ほどではないが、確実に在庫が増えていった。

特に相撲関係の資料は、充実してきた。

「鬼丸さん、これを見てください」

ある日、父が古い錦絵を見せた。

「これは...江戸時代の横綱、雲龍の錦絵じゃないですか」

「ああ。知り合いの蔵から出てきたそうだ」

鬼丸さんの目が輝いた。

「素晴らしい。こういう資料が残っているとは」

三人で、資料を整理する。

そこに、伝の泣き声が聞こえる。

「あら、起きたみたい」

私が立ち上がると、鬼丸さんが止めた。

「僕が行きます」

彼は器用に伝をあやし、すぐに泣き止ませた。

「才能がありますね」

父が笑った。

「力士としてだけじゃなく、父親としても一流だ」


大正十五年の初夏。

伝は一歳半になっていた。

よちよち歩きを始め、「とと」「かか」と言葉を話すようになった。

ある日、鬼丸さんが伝に四股を教えていた。

「ほら、こうやって足を上げて...」

伝が真似をして、小さな足を上げる。

バランスを崩して、転んでしまう。

でも、すぐに立ち上がり、また挑戦する。

「強い子だな」

鬼丸さんが目を細めた。

「将来は力士かな?」

「それとも、本屋さんかしら」

私が笑うと、鬼丸さんも笑った。

「どちらでもいい。伝が幸せなら」


 その一月後には、翠雲堂に新しい看板が掲げられた。

「翠雲堂 古書・相撲資料専門」

相撲ファンの聖地として、店はよく知られるようになっていた。

「震災からもうすぐ三年。よくここまで来られたな」

父が感慨深げに言った。

「これも、皆様のおかげです」

鬼丸さんが頭を下げた。

「いや、君たちの努力だ」

父は杯を掲げた。

「これからも、この家族で、力を合わせていこう」

「はい」

 

 その夜、店じまいの後、鬼丸さんが言った。

「千鶴さん、もう一冊、本を書きたいんです」

「どんな本ですか?」

「震災から復興までの記録です。わたしたちの経験を、後世に伝えたい」

鬼丸さんの目は、真剣だった。

「どんな災害が起きても、人は立ち上がれる。希望を持ち続ければ、必ず道は開ける。それを伝えたいんです」

「素晴らしい考えですね」

私は彼の手を取った。

「私も協力します。私たちの物語を、一緒に紡ぎましょう」

翌日から、私たちは執筆を始めた。

震災の日のこと。

避難所での日々。

そして、再建への道のり。

全てを、丁寧に記録していった。

数ヶ月後、原稿が完成した。

「『震災を越えて - 力士と古書店の記録』」

タイトルを見て、私は涙ぐんだ。

「良いタイトルです」

「千鶴さんが考えてくれたんでしょう」

「二人で考えたんです」

私たちは微笑み合った。


本は、翌年の春に出版された。

反響は大きかった。

「勇気をもらった」

「希望が見えた」

多くの読者から、そんな感想が寄せられた。

震災の傷跡は、まだ東京のあちこちに残っていた。

でも、人々は前を向いて歩いていた。

私たちも、その一人だった。



昭和三年の春。

庭の桜が、見事な花を咲かせていた。

「きれいだね、伝」

「うん、きれい」

三歳になった伝が、桜を見上げている。

鬼丸さんは、今も現役横綱として土俵に立ち続けていた。

三十七歳。

力士としては、引退しているような年齢だ。

でも、彼はまだ衰えを見せなかった。

「あと何年、続けられるかな」

ある日、鬼丸さんが呟いた。

「無理はしないでくださいね」

「分かっています。でも、土俵に立てる限り、立ち続けたい」

彼の目には、変わらぬ情熱があった。

翠雲堂は、確実に成長していた。

在庫は三千冊を超え、相撲資料のコレクションは日本有数となっていた。

「千鶴さん、二号店を出さないか?」

父が提案した。

「神田辺りに、もう一軒」

「そうですね。考えてみます」

私たちの夢は、まだ続いていた。

ある春の夕暮れ。

私たちは三人で、隅田川の土手を歩いていた。

「見て、花火」

伝が指差した。

遠くで、花火が上がっている。

「夏じゃないのに、珍しいな」

「何かのお祝いでしょうか」

私たちは、しばらく花火を眺めていた。

「千鶴さん」

「はい」

「幸せですか?」

鬼丸さんの問いに、私は即答した。

「はい。とても」

「わたしもです」

彼の手が、私の手を握った。

もう一方の手で、伝の手を握る。

三人で、土手を歩く。

桜の花びらが、春風に舞っていた。

「来年も、また桜を見ようね」

「うん」

伝が元気よく答えた。

震災は、多くのものを奪った。

でも、奪えなかったものもあった。

愛する心。

希望を持ち続ける力。

そして、大切なものを守り、伝え続ける意志。

私たちは、これらを胸に、新しい時代を生きていく。

土俵の下に咲く桜のように。

しなやかに、強く、美しく。

花びらは散っても、また来年、必ず咲く。

そんな桜のように。

私たちの物語も、続いていく。

代々、受け継がれていく。

伝から、その子供たちへ。

そして、そのまた先へ。

「父さん、母さん、見て」

伝が、川面を指差した。

月光が、水面にきらめいている。

その光の道は、まるで未来へと続く橋のようだった。

私たちは、その橋を渡っていく。

手を取り合って。

大正という時代から、昭和という時代へ。

そして、その先へ。

土俵に咲く桜のように。

永遠に。

― 完 ―

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