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大正桜恋譚―恋と土俵と古書店―  作者: 明石竜


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第四話 本の完成 昇進の階段 膝の怪我

それから一年が過ぎた。

鬼丸さんは着実に勝ち星を重ね、小結への昇進も期待されていた。

一方、私たちが取り組んでいた本も、ようやく形になってきた。

『土俵の伝統 - 谷風から受け継ぐ技の系譜』

表紙に書かれたタイトルを、私は何度も読み返した。

「立派な本になりましたね」

父が感慨深げに言った。

「鬼丸さんの情熱と、千鶴の編集技術。そして多くの人の協力があってこそだ」

本は評判を呼んだ。相撲ファンだけでなく、歴史研究者たちからも注目された。

「これは貴重な記録だ」

ある大学教授が店を訪れ、そう言ってくれた。

「失われつつあった技術が、こうして記録されることの意義は大きい」

初版五百部は、あっという間に売り切れた。

「千鶴さん、これを」

ある日、鬼丸さんが風呂敷包みを差し出した。開けてみると、美しい手拭いだった。薄紫地に白い桜が散らされている。

「場所の合間に京都へ行きまして。あなたの着物の色を思い出して選びました」

私の頬が熱くなるのを感じた。

「ありがとうございます。大切にします」

「千鶴さん、私は必ず横綱になります。あなたと、ちゃんと向き合うために」

鬼丸さんの手が、そっと私の手に触れた。大きくて、ごつごつしていて、でも温かい手だった。彼の決意は、日に日に強くなっていった。



さらに一年が過ぎ、鬼丸さんは小結、関脇と順調に昇進していった。一方で翠雲堂には、相撲の資料を求める客が増えた。鬼丸さんが当店の名を広めてくれたのだ。

「鬼丸関の本、ありますか?」

「鬼丸関は、本当にここに来るんですか?」

そんな質問が毎日のように寄せられた。

店は繁盛し、私たちの生活は安定してきた。



来年の一月場所では、大関昇進がかかっていた。

「千鶴さん、一月場所で好成績を残せば、大関になれるかもしれません。そうすれば横綱も見えてきます」

「待っています」

私はそう答えた。もう迷いはなかった。


 九月のある日、鬼丸さんが珍しく落ち込んだ様子で店を訪れた。

「どうされました?」

「実は...」

彼は重い口を開いた。

「先日の巡業で、古傷を痛めてしまいました。右膝です。一月場所に響くかもしれません」

「大丈夫なんですか?」

「医者は、安静にすれば治ると言っています。でも、稽古を休めば力が落ちる。かといって、無理をすれば悪化する」

鬼丸さんの苦悩が、痛いほど伝わってきた。

「鬼丸さん」

私は彼の手を取った。

「焦らないでください。横綱への道は、一年や二年遅れたところで閉ざされるわけではありません。今は、しっかり治すことが大切です」

「でも...」

「私は待っています。五年でも、十年でも。だから、ご自分の体を大切にしてください」

鬼丸さんの目に、涙が浮かんだ。

「ありがとうございます。千鶴さんがいてくれるから、私は頑張れます」

その年の秋、鬼丸さんは三ヶ月間稽古を休み、膝の治療に専念した。

その間、彼は翠雲堂で過ごすことが多くなった。体を動かせない代わりに、相撲の歴史研究に没頭した。

「千鶴さん、見てください。これ、寛政年間の番付表です」

「本当だ。保存状態も良いですね」

二人で古い資料を整理しながら、私たちは多くの時間を共有した。

近所の人々は、私たちを既に夫婦のように見ていた。

「千鶴ちゃんと鬼丸さん、お似合いだねえ」

「早く祝言を上げればいいのに」

そんな声を聞くたびに、私は顔を赤らめた。

でも、心の中では、私も同じことを願っていた。

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