第三話 五月場所
五月場所が近づいてきたある日、鬼丸さんが興奮した様子で店を訪れた。
「千鶴さん、聞いてください。今度の五月場所で、幕内に昇進することになりました!」
「まあ! それはおめでとうございます!」
私も思わず声を弾ませた。幕内といえば、相撲界の一人前とされる地位。一月と五月の年二回開催される本場所。入門して十年近くでようやく掴んだ出世だという。
「これも千鶴さんのおかげです。祖父の技を整理する過程で、自分の相撲を見直すことができました」
「いえ、鬼丸さん自身の努力の賜物です」
「ぜひ、観に来ていただけませんか? 両国の国技館で」
鬼丸さんの瞳が真っ直ぐに私を見つめた。
「でも、私、相撲なんて観たことが...」
「だからこそです。私がどんな場所で、何を守ろうとしているのか、見ていただきたいのです」
その熱意に押され、私は初めて国技館を訪れた。父も一緒だった。
五月場所初日。朝から雨が降っていたが、国技館の周りには多くの人々が集まっていた。
「すごい人ですね」
「年に二回の本場所だからな。相撲ファンにとっては祭りのようなものだ」
父が説明してくれた。
館内は熱気に満ちていた。老若男女、あらゆる階層の人々が土俵を囲んで声援を送っている。行司の声、太鼓の音、そして力士たちの気合い。全てが新鮮だった。
序の口、序二段、三段目、幕下、十両と取組が進む。それぞれの力士が、懸命に戦っている。
「父さん、皆さん、本当に必死ですね」
「当たり前だ。ここにいる力士は、全員が夢を追っている。番付を一つでも上げるために、命を削って稽古しているんだ」
幕内の取組が始まった。観客の熱気が一段と高まる。
そして、ついに鬼丸さんの出番が来た。
「東、雷電部屋、鬼丸!」
行司の声が響いた。
土俵に現れた鬼丸さんは、まるで別人のようだった。普段の穏やかな表情は消え、鋭い眼光が対戦相手を捉えている。
塩をまき、四股を踏む。その一つ一つの所作が、美しかった。
「あれが鬼丸の四股か。見事なものだ」
隣の観客が感心したように呟いた。
対戦相手は、ベテランの関取だった。鬼丸さんより一回り小さいが、経験豊富な力士だという。
立ち合い。
一瞬の静寂の後、土俵で激しいぶつかり合いが始まった。
鬼丸さんの巨体が、相手に向かって突進する。しかし、相手は巧みに体を捌いた。
土俵際まで押し込まれる鬼丸さん。観客席から悲鳴が上がる。
その時だった。
鬼丸さんの足が、電光石火のように相手の足を捕らえた。外掛け。祖父の日記に書かれていた技だ。
相手の体が宙を舞い、土俵に倒れた。
「勝負あり! 東、鬼丸!」
館内が歓声に包まれた。
「見事な技だ」
父が唸った。「力任せではなく、相手の動きを利用している。あれが古い技か」
私は言葉が出なかった。あの優しい鬼丸さんが、土俵の上では猛々しい鬼神のようだった。けれど勝負が決まると、すぐに相手に手を差し伸べ、丁寧に礼をした。
その姿に、私は深く心を打たれた。
取組の後、私たちは楽屋口で待った。浴衣姿の鬼丸さんが現れると、父が率先して声をかけた。
「見事な相撲でした。鬼丸さん、実はおれから頼みがあります」
「はい、何でしょう」
「うちの千鶴の婿になってくれませんか」
「お父様!」
私は真っ赤になって父を制したが、父は真剣な顔で続けた。
「あなたなら、翠雲堂を任せられる。本を大切にする心を持っている。それに...千鶴もあなたを慕っているようだ」
「お父様、何を...」
鬼丸さんは深く頭を下げた。
「ありがたいお言葉です。ですが、わたしはまだ何者でもありません。横綱を目指すと決めた以上、それを成し遂げるまでは」
「ならば、横綱になったら、ということで」
父はにっこり笑った。私はただ俯いているしかなかった。
その夜、鬼丸さんが私を呼び止めた。
「千鶴さん、少しお時間をいただけませんか?」
私たちは隅田川沿いを歩いた。川面に月が映り、美しく煌めいている。
「驚かせてしまって申し訳ありません。お父様の申し出は、わたしにとって身に余る光栄です」
鬼丸さんが口を開いた。
「でも、わたしには成し遂げなければならないことがあります。祖父の夢を、谷風関の技を、土俵の上で証明すること。それまでは、千鶴さんに何も約束できません」
「鬼丸さん...」
「ただ、一つだけ言わせてください」
鬼丸さんが立ち止まり、私の方を向いた。月明かりの中、彼の顔が優しく見えた。
「もしわたしが横綱になれたら...その時は改めて、あなたにお願いしたいことがあります」
星空の下、鬼丸さんの横顔は凛々しく、そして優しかった。
「待っています」
私は自分でも驚くほど素直に答えていた。
「本当ですか?」
「はい。鬼丸さんなら、きっと横綱になれます。私、信じています」
鬼丸さんの大きな手が、そっと私の手に触れた。温かかった。
「ありがとうございます。必ず、必ず横綱になります」
その約束が、私たちの運命を決めた。




