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大正桜恋譚―恋と土俵と古書店―  作者: 明石竜


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第一話 本郷の春

大正九年の春、桜が散り始めた頃、本郷の古書店『翠雲堂』の娘である私、桜川千鶴は二十歳になったばかりだった。

店の格子戸を開けると、いつものように墨と紙の匂いが鼻をくすぐる。父が仕入れてきた古い書物が所狭しと並ぶ店内で、私は毎日帳簿をつけたり、客の応対をしたりしていた。

女学校を卒業してから三年、縁談の話もちらほら出始めていたが、どれもピンとこない。

母は私が十歳の時に病で亡くなった。それから父と二人で店を守ってきた。近所の人々は「千鶴ちゃんも、そろそろ良いところに嫁がないと」と口々に言うが、私にはこの店を離れる気になれなかった。本が好きだった。ページをめくるたびに、知らない世界が広がる。古書には、前の持ち主の書き込みや、時代の空気が染み込んでいる。特に江戸時代の版本や、明治の文豪たちの初版本を手に取る時、私は時を超えた対話をしているような気持ちになった。

「千鶴、ちょっと来てくれ」

 奥の座敷から父の声がした。

行ってみると、見慣れぬ大きな影が障子に映っている。

「お客様かしら?」

と尋ながら襖を開けた私は、思わず息を呑んだ。

そこには、見上げるほど大きな男が座っていた。いや、座っているというより、窮屈そうに身を縮めていると言った方が正しい。身の丈は六尺を優に超え、肩幅は私の倍は優にあろうかという巨躯。髷を結った頭は天井にでも届きそうだった。

「こちらは大相撲の力士さんでな。雷電部屋の鬼丸さんという。古い相撲の番付や錦絵を探しておられる」

「鬼丸龍之介と申します」

その大男が丁寧に頭を下げた。予想外に柔らかな声だった。顔を上げると、精悍な顔立ちの中に優しげな瞳があった。歳は三十前後くらいだろうか。私より十歳くらい年上に見える。

「桜川千鶴と申します。父の店を手伝っております」

「お嬢さんが? それは頼もしい。実は先代の横綱・谷風の錦絵を探しているのです。祖父が谷風関の弟子筋に当たりまして」

鬼丸さんは懐から古びた手帳を取り出した。大きな手に似合わぬ繊細な文字で、びっしりと何かが書き込まれている。

「これは祖父の稽古日記です。谷風関から教わった技の数々が記されています。私はこれを元に、失われつつある古い技を復活させたいのです」

その真摯な眼差しに、私は不思議な感動を覚えた。力士といえば荒々しく粗野なイメージがあったが、目の前の鬼丸さんからは学者のような知的な雰囲気が漂っていた。

「父と一緒に探してみます。確か江戸時代の錦絵が蔵にあったはずです」

父が立ち上がった。

「千鶴、蔵の鍵を持ってきてくれ。鬼丸さん、こちらへどうぞ」


翠雲堂の蔵は、店の裏手にあった。黒ずんだ土壁に覆われた古い建物で、中には代々受け継がれてきた貴重な書物や版画が保管されている。

重い扉を開けると、ひんやりとした空気と共に、古紙の匂いが漂ってきた。

「足元にお気をつけください」

私は行灯に火を灯し、鬼丸さんを案内した。狭い通路を、大柄な鬼丸さんが慎重に進む。

「立派な蔵ですね」

「曾祖父の代に建てたものです。七十年近く前、安政大地震の時もこの蔵だけは

無事だったと聞いています」

私は自分の言葉を、後に深く後悔することになるとは、この時まだ知らなかった。蔵の奥には、年代順に整理された木箱が積まれていた。父が一つの箱を指差した。

「確か、この辺りに相撲関係の資料があったはずだ」

鬼丸さんが箱を軽々と下ろした。中には、色褪せた錦絵や番付表が丁寧に和紙で包まれて入っていた。

「これは...!」

鬼丸さんの声が震えた。彼の手に、一枚の錦絵があった。土俵の上で堂々たる姿勢を取る力士が描かれている。

「谷風関だ。間違いない。この構え、この眼光。祖父の日記に書かれていた通りだ」

鬼丸さんの大きな目に、涙が光っていた。

「鬼丸さん...」

「すみません。感極まってしまって」

彼は慌てて袖で目を拭った。

「この錦絵を、譲っていただけないでしょうか。いくらでもお支払いします」

父が首を横に振った。

「いや、お代はいりません。これだけ大切にしてくださる方なら、差し上げます」

「そんな、それでは申し訳ない」

「その代わり」と父は続けた。

「時々、相撲の話を聞かせてくれませんか。おれも若い頃は相撲が好きでしてね。最近は足が悪くて国技館まで行くのがつらくてね」

「喜んで!」

鬼丸さんの顔がぱっと明るくなった。それから私たちは、蔵の中で何時間も過ごした。鬼丸さんは一枚一枚の錦絵を丁寧に見ながら、描かれた技や力士たちの逸話を語ってくれた。

「この絵に描かれているのは『河津掛け』という技です。相手の足を外側から掛けて倒す。見た目は単純ですが、タイミングと体重移動が完璧でないと決まりません」

「鬼丸さんは、この技を使われるんですか?」

「ええ。祖父の日記を読んで、何度も何度も練習しました。最初は全く決まらなかった。でも、ある日突然、感覚が掴めたんです。相手の重心が移動する瞬間、そこに自分の技を合わせる。まるで相手と一体になるような感覚です

」鬼丸さんの説明は、まるで詩を聞いているようだった。力技だと思っていた相撲が、実は繊細な技術の集積であることを、私は初めて知った。

「千鶴さんは、古書のどんなところが好きなんですか?」

蔵の片隅で、私たちは並んで座っていた。埃っぽい空気の中、鬼丸さんの声だけが静かに響いた。

「そうですね...」

私は少し考えてから答えた。

「本には、書いた人の魂が宿っている気がするんです。何十年、何百年も前に生きた人の思いが、こうして今も残っている。それが不思議で、愛おしくて」

「魂、ですか」

鬼丸さんが繰り返した。

「そう、魂です。たとえば、この祖父の日記。鬼丸さんにとって、これは単なる技術書ではないでしょう?」

「ええ、違います。これは祖父の生きた証です。谷風関への敬意、相撲への情熱、そしてわたしへの願い。全てが込められている」

「それです。だから古書は面白いんです」

鬼丸さんが微笑んだ。

「千鶴さんとは、話が合いますね」

その言葉に、私の頬が少し熱くなった。

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