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記憶喪失のフリをしたら冷たかった夫に溺愛されました(全年齢版)  作者: 秋月朔夕@書籍発売中


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10




 乱暴にベッドに突き飛ばされ、誰か分からない男にのし掛かられる恐怖。

 その人物の顔を見る余裕もなくて、なんとか逃れようと暴れたその拍子に、相手の頬を平手で打ってしまう。


 男の力が緩まったほんの一瞬。ベッドからいつくばる形で、離れようとする。しかし、男はわたしの手首を掴み、そのまま後ろ手になる形で男のタイに拘束されてしまった。

 先程までよりもさらに逃げることが難しくなった状況に、唇が震える。


「ひっ……離して!」



 青褪めた顔で襲い掛かってきた相手に懇願する。だが、その行動はますます相手の怒りを煽る結果となった。



「そんなに僕に触れられるのは嫌ですか?」



 聞き覚えのあるテノールの声にパッと顔を上げる。

 暴漢だと思い込んでいた人物はエドモンドだった。彼は失望を露わに、口端を歪ませていた。



(だって、てっきり仕事に行っていたと思ったから……)



 言い訳をする前に、短く謝罪の言葉だけを口にしたのは、彼の白い頬がわたしにぶたれたことにより、赤く腫れていて痛々しかったからだ。



「なんの謝罪かは分かりませんが、そんなもの必要ありませんよ」



 冷ややかな顔は一瞬にして、笑顔に切り替わる。にこやかな笑みが不自然で、ぶわりとわたしの警戒心が増していく。



「それは、どうして?」



 逃げるべきだ、ここから離れるべきだと、本能が叫ぶのに、強張る身体は固まっていて、ちっとも言うことを聞かない。


 まるで獰猛な獣と対峙したかのような絶望に掌に汗が集まる。

 ひっそりと手首の拘束を緩めようともがいても、ちっとも緩まらないことに焦りが大きくなる。



「だって今から僕はあなたに酷いことをしようと決めましたから」

「ひどいこと……?」

「聞きたいんですか? それはそれは随分と自虐的趣味がお有りのようだ。ならばあなたの趣味に合うように趣向を凝らしてあげましょうか?」



 わたしの前髪を弄る彼はどこか吹っ切れたようにクツクツと喉を震わせて陰鬱にわらう。


「趣味の悪い冗談は止めて」



 自分でも白々しいと思える注意。けれどそれをあえて口に出したのは、冗談で終わらせてほしいというわたしの願望が具現化したからだ。



「冗談じゃありませんよ」


 ギクリと身体をこわばらせ、恐る恐るエドモンドを見上げると彼はわたしの頬を両手で包み込む。

 うっとりと微笑まれているが、手の力は強く、視線すら固定されていた。視界いっぱいに映るエドモンドの端正な顔。その近い距離に、たじろいでしまいそうだ。


「やめて……」

「こうも妻に嫌われているとはなんだか悲しいですねぇ」


 こちらの罪悪感を煽るようなエドモンドの嫌味。チクチクと棘のある言葉は的確に心の弱いところを突く。

 ただでさえ駆け引きは得意ではないのだ。そんなわたしが普段、海千山千を相手にしているエドモンドとの取引に敵うはずがない。


「エドモンド……」


 たじろぐわたしに彼は額同士をくっつけ、そしてそのまま流れるような動作で衣服を脱がそうとした。

 エドモンドの胸を押して拒みたいのに、後ろ手に拘束されているせいで、わたしの思惑とは反対に胸を押し付けて、彼が脱がせやすい体勢になる。

 随分と協力的だ、と意地悪く耳元で囁かれて、自分の愚かさに涙が滲む。



(なんでこんなことに……)


 じわじわと視界が潤む。泣きたくなんかないのに、どうしても止められなかった。つぅっと頬に涙が流れる。

 急にわたしが泣き始めたことをエドモンドは驚き、目を見開いて固まっている。



「な、泣かないでください」



 それができたらそうしてる。感情を表立たせたことが恥ずかしくて、なんとか抑えようと思うのに、ちっとも制御できない。

 硬質だった彼の声は今やすっかり慌てており、オロオロと視線をさまよわせていた。



 ――そういえば幼いころも含めて、エドモンドの前で感情を爆発させたことは今まで一度もなかったことに気付いた。



 子供の頃に散々彼に意地悪されたものの、泣くのは決まって一人で部屋にいる時。誰にも内緒で涙を溢していた理由は……。



(あれは、なんでだったのかしら?)



 確かに理由があったはずなのに、それを思い出せない。


「ご、ごめんなさい。僕が悪かったです。あなたの気が済むまで謝ります。罵倒も受けます。だから、泣かないで……」



 拘束がとかれて自由になる。

 エドモンドはわたしに触れるすら躊躇っているようで、うつむいたままずっと謝っている。

 艶めいた空気はすっかり霧散し、後に残るのは気まずさばかり。

 泣いた顔を見せたくなくて背を向けると彼はそれを拒絶と捉えたみたいで、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。


「エド、モンド……」


 失敗した。謝ろうと思った時にはもう遅い。彼は呼び掛けに反応することなく、布団をそっとわたしに掛けて、そのままベッドから降りる。



「……少し頭を冷やしてきます。今日は仕事で遅くなると思うので、先に寝ていてください」



 こちらを見ずに早口で用件のみ話す彼の背は寂しげで、思わず手を伸ばして彼の名を再び呼ぶ。けれど彼はそれにも応えずに、静かに扉を閉めて、部屋から出て行く。



 服を着て追い掛けるべきか迷った。今ならばまだ彼に追いつくことができるだろう。

 だというのに身体がこわばって、どうしても追い掛けることができなかった。



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