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記憶喪失のフリをしたら冷たかった夫に溺愛されました(全年齢版)  作者: 秋月朔夕@書籍発売中


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1



 嘘をつくとそれを通すためにいくつもの嘘が必要になる。

 わたしはそのことを理解しないまま、ただ辛い現実から逃げたくて嘘をついてしまった。




「起きましたか……」


 唐突に目が覚めて、重い瞼をゆるゆると開ける。視界いっぱいに映るのは無表情な夫の姿。しかしよく見れば、目の下のクマが濃く、シャツはよれていて皺が目立っていた。

 普段の夫はどれだけ忙しくても念入りに身なりを整えていて、隙のない印象を相手に抱かせていた。 そんな彼がここまでやつれた姿を見せるなんて……。



(一体どうしたのかしら?) 


 上体を起こそうとすれば、背中に手を廻して支えられる。そしてベッド近くに置いてあったサイドテーブルから「起き抜けで喉が渇いているでしょうから」と水差しを手渡された。


 正直、わたしを嫌っているはずの彼がこんなにも甲斐甲斐しくわたしの世話をしてくれるなんて思いもしなかった。

 


(まだ夢の世界にいるようだわ)



 だって彼は幼い頃からわたしを見ると決まって顔をしかめ、顔を背けていた。

 嫌われているのだからとわたしも彼を避けようとすれば、今度はそれが癇に障ったのか今度はネチネチと嫌味を言われ続けたーー他の人にはにこやかに対応しているくせに、わたしにはひたすら冷たい態度を取る彼のことが苦手で仕方がなかった。


 そんな彼と結婚が決まったと聞いた時、なんの冗談だと耳を疑ったものだ。



 けれど結婚したからといってわたしと彼の仲は改善することはなかった。

 子供を授かるために義務として抱かれてはいたけど、彼は必要以上にわたしに触れることもなかったし、行為が終わればすぐに彼は部屋を出ていった。

 会話らしい会話もほとんどしていない。たまに話しかけられてもそれは定期的な嫌味だ。冷え切った夫婦関係は一年を過ぎても変わらなかった。


 ーーその彼が甲斐甲斐しく世話を焼くなんて……!



 正直気まずい。沈黙を誤魔化そうと、ちびちびと水を飲んでいてもじっと自分を見つめる遠慮のない視線が居た堪れなさを倍増させる。すっかり萎縮した様子のわたしに彼は重たい溜息を吐き出した。



「眼が覚めたことを使用人達に知らせてきます」


 くるりと背を向けた彼は明確に拒絶の姿勢を示した。このまま彼が去ってしまえば、また冷え切った夫婦生活を続けなければならないのだろうかーーそんな生活もう嫌だ。



「待ってください」

「何か?」



 ぎゅっと彼のシャツの裾を掴むと自分を見下ろす彼の瞳とかち合う。何か言わなければならないのに、考えなしに彼を引き止めたものだから言葉が続かない。

 やんわりと手を外されると更に焦りが募り、混乱と焦燥からとんでもない嘘をついてしまう。





「あの、あなたのお名前を教えて頂けませんか?」

「は……?」



 ポカンと口を開いて眼を瞬かせる彼の姿を見たのは初めてだった。

 突拍子もない馬鹿なことを言っているのは分かっている。けれど、一度言葉にした以上、覚悟を決めることにした。



「その、どうやら記憶がなくて……」


 最後の言葉尻は自信のなさから、小さなものとなる。

 彼は顎に手を当てて、考え込んでいる様子だ。これから何を言われるか分からない恐ろしさが鼓動を早くさせる。


(あぁ……。本当になんてことを言ってしまったの)


 後悔してももう遅い。彼はやがて結論に達したようで、にこりと微笑む。



「頭を打った拍子に記憶が抜けたのかもしれません。今医師を呼びますから、少し待っていて下さい」

「えっ、頭を打ったんですか?」


 そのような記憶はない。慌てて頭をさすっても腫れた様子はない。


「ええ。一週間前に、あなたはバルコニーから転落してしまった。幸いにも植え込みに落ちたおかげで、軽傷で済みましたが、そこから目を覚まさなかったんですよ」

「そんなことが……」 



 まさか嘘が現実になるなんて。

 ぽかんと口を開くわたしに、彼はおかしそうに口端を上げて、ベッドに座る。一気に近くなった距離は追い詰められているようで、心臓に悪い。

 背中に冷たい汗が伝い、後ろに下がろうとすれば、腰に手を廻されて、やんわりと阻止される。ガッチリと掴まれたことで「逃がしませんよ」と彼の副音声が聞こえた気がした。



「ところで、どれだけ記憶が残っているんです?」

「えっ」


 しまった。そんな細かいことはまだ考えていない。どうしようかと悩ませていると、ふいに頬を柔らかく撫でられる。

 慈しむかのような触れ方なんて今までされたことがなかった。慣れない仕草が妙に気恥ずかしくてジワジワと頬に熱が溜まっていく。

 彼もわたしの動揺に気付いているだろう。それなのに、一向に止める気配がないなんてあいかわらず意地が悪い。


「ご自分のお名前は言えますか?」


 彼の質問にきちんと答える余裕もなく、横に首を振ると更ににこやかな表情になる。

 


「あの、とりあえず手を離してくれませんか……」

「ああ。これは失礼。僕はまだあなたからすれば、名前も知らない他人でしたね」



 離れるついでとばかりこめかみに触れるだけのキスを送られる。小さな悲鳴を上げると彼はさらに機嫌を良くした様子で、軽やかにベッドから降りて、部屋の扉まで真っ直ぐに歩いた。


「今、医師を呼んできます。それまでの間、どうか休んで下さい」


 静かに扉を閉める彼をわたしは今度こそ引き止める余裕もなく、呆然と見送ってしまう。



 ーーわたしは馬鹿な嘘をつくほどに愚かだった。だからこそ、この時運命の歯車がずれてしまったことに気付かなかったのだ。





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