月の下で、今宵も読み耽る
ある男は酒を嗜み、ある女は踊りを披露する。
町は繁盛し、人々は平安という時代を生きていた。
『大丈夫か?』
転んで怪我をし、泣いていた私に、優しく声をかけてくれた。
あのお方の手の温もりを、私は長いこと忘れられずにいた。
ただ手を差し伸べただけではない。傷の手当までしてくれたのだ。
衣服は簡素で、顔立ちは凛としていたのを覚えている。
そんな彼は言った。
『夜は危ない。私がお家まで送っていこう』
彼の手は暖かく、心強さを感じた。
『家は……ここかい?』
『うん!』
『そうか。では、わたくしとはここでお別れだな。さぁ、行っておいで』
『ありがとう!』
家に着き、振り返って手を振ろうとした時、もうそこに彼の姿はなかった。
それきりであった。
二度と会うことはなく、時は流れ、私は皇女として御簾の内に生きる身となった。
春の終わり、まだ夜の冷えが残る頃。
私のもとに、一通の文が届けられた。
差出人の名はない。封を開けると、一枚の紙切れが入っていた。
『春の夜はいまだ冷ゆかし』
ただ一文のみ。
不思議に思いながらも、なぜかその文を捨てることは出来なかった。
数日後、また差出人のない文が届いた。
『今宵は金色のお月が清げかな。いまだ今宵は冷ゆるゆえ、御身をやむごとなしにたまひたまへ』
今日は二文。
きっと同じお方であろう。
不器用な言葉遣い、貴族とは思えぬ悪筆。
それでも奥ゆかしく、私はその文を愛おしく思い始めていた。
それから、しばしば文は送られてくるようになった。
ある日、久方ぶりに外出しようと町へ向かった。
外の空気に慣れぬせいか、足がよろつき、倒れそうになったその時――
大きな手が、私の身体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「えぇ。支えてくださり、ありがとうございます」
「そなたは……」
顔を上げると、がっしりとした肩幅に、凛とした顔立ちの男がいた。
「……なにか?」
「いえ、何も。どうか足元にはお気をつけて」
「感謝いたします」
それだけの会話を交わし、彼は去っていった。
御所に戻り、菓子を嗜んでいると、一通の文が届いた。
また、いつものお方であろうと思い、封を開ける。
だが、その文は悪筆ではなく、達筆であった。
すぐに、いつものお方ではないと分かった。
要件は、『盗人が近頃増えており、処罰を重くする』という刑法について。
私は、すぐに返事を書き送った。
それから――
あれほど届いていた文は、ぱたりと来なくなってしまった。
寂しさを埋めるように、私は一首の詩を書いた。
『あな、文を交はす者よ。
我はさうざうしく、きみのことを忘れられず。
なれど、今、同じ月を見たると思ふと、心が楽になる』
一晩中、私はあなたのことを忘れることがなかった。
数日後、一通の文が届いた。
私はすぐに受け取り、封を破った。
『すくよかに負ふや。
これに果ての文になりもこそ。
きみに行合ひ、文通じ、言の葉を交はして、
我にとりて、生くるあらましごとを与へき。
いかでか、これよりもうつろはぬ夜の月を、
優しき目にてご覧たまへ』
――あぁ。
私の詩は、このお方の心に届いたのだろう。
きっと、神様が見ていてくれたのだ。
私はその文を、そっと湿らせ、心の奥底に眠らせた。




