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母が死んだ後の一年間は酷いものだった。彼が受けた身体的な傷だけを数えても、庭に数体置かれている訓練用の人形の方がいくらかマシだっただろう。
黒廟家は七大家門の中でも規律に厳しく、求められる資質も高い。大陸中から黒廟家の血を求め、名だたる大家の当主たちが娘を送り込んでくる。
無事子種をいただいたとしても、そこから始まる後継争いはさらに熾烈を極める。
黒廟家はその元素発現に頼らない、純粋な身体強化を極めた第六元素操作によって他の五家門とは一線を画す統制力と継戦能力を持ち、開闢領域外活動において目覚ましい成果を挙げ続けてきた。
だからこそ、開闢寮を有史以来率いてきた白王家の一の剣として、軍指南役を歴任してきた歴史を持つ。
そんな名家の次期当主争いの真っ只中だ。今更なんの力も持たないどころか、由緒正しい出自も無く、日常生活すらままならない新参者がやってきたところで、日々の鬱憤の捌け口となるのに時間はかからなかった。
殴る蹴るの暴行は当たり前。教育的指導と称して、ボロボロの木剣を持たされて決闘の場に引き摺り出されるのが日課だった。
ある日のことだ。
「ははっ、そんなんじゃ異形相手にどうするんだよっ!」
「ぐぅっ!はぁ、はぁ………」
目も開けられぬレエに対して、五つほど上のボレスが何度も何度も木剣を打ち込む。レエはひたすらに縮こまることしかできず、肩口から足首に至るまですでに青あざだらけだ。
このボレスという男、その残虐性がすぎる性格は大いに難ありだったものの、黒廟家に寄与する古くからの分家の一人娘を母親にもつ。身体操作は同年代に比べ申し分ないものを持っていた。
現に、傷を負わせても服で隠れて見えない場所ばかり狙って打ち込んでいる。そして彼の打撃のそれもが正確無比だった。
ボレスはレエを痛めつけるのか楽しくてたまらないようだった。
周りからも嘲笑や遠慮のないヤジが飛ぶ。
庭での下賤な遊びが佳境を迎えた頃、一人の黒衣に身を包んだ男が現れた。
レエは、自身が今まさに打ち込まれようとしているにも関わらず、その異様な気配に誰よりも早く惹きつけられた。
取り巻き連中もその姿を認め、すぐさま息を呑んだ。
ボレスはよほど痛めつけるのに熱中していたのか、その人物が背後に立つまで全く気が付かなかった。
「よおガキども………」
その声だけで並の野党なら縮こまるような冷たい含みを持った声だった。
「か、カルカ兄さん………」
ボレスは絶句して、顔面が蒼白となった。
レエは、顔が見えないながらもその異様な雰囲気とボレスが口にした名前によってその場に固まった。
カルカ。次期当主候補筆頭にして、開闢寮軍筆頭指南役その人だ。
その名は大陸中に轟き、巷では早くも父であるジンとの比較が話題の的となっている。
本邸に訪れることも稀である。
「妙な気配を感じたが……… チッ、まあいい。殺すなよ」
カルカはレエを一瞥したが、すぐに興味を失ってボレスに対して吐き捨てるように告げた。
ボレスは緊張のあまり返す言葉も発せず、ただその後ろ姿を見送った。
が、すぐに向き直ってキッとレエを睨みつけた。
「お前のせいでっ、兄さんに手間を取らせたじゃないかっ」
更に打ち込まれる木剣の勢いは苛烈となって行く。レエはひたすらに丸くなるしかなかった。口内は血の味でいっぱいだ。
こんなことが毎日のように続いた。幼い頃訪れた時に聞いたような、義理の母や侍女達からの云われない雑言も同様だ。
そんな日々の中でも、レエはただ暗闇に向かって謝り続けた。
僕がダメだから。僕が母上に楽をさせられなかった………。