第四話 『竜の舞う王国は共喰いの炎に罰されて』 その10
黒いヒゲの先を、男爵の指がよじりながら引っ張る。娘はそれこそ父親が思考を使うときの癖だと見抜いてはいた。真実を、明らかにすべきである。この子は、違うのだと。眼下にいる老人が心から願う、正しい存在などではないのだと。
間違いを正すべきときなのに。
父親の指がする動作が恐ろしい。おぞましい記憶が、蘇っていた。どうやって、このお腹に新しい命が宿らされてしまったのか……。
名誉がある。失いたくない名誉が、まだ貴族の少女にはあったのだ。それを弱さと呼ぶには、過酷だろう。この世界に、真の意味でリースを理解してくれる者など、もういないのだから。父親の指が、動きを止める。黒いヒゲの下で、野心家が笑った。
「旗幟を鮮明にせねばならないときだな、アンジュー卿よ!」
「……そう、だな!互いのために!しかし、政治的な信条と、リースと……彼女の腹のなかに宿った我々の孫の命は、守らねばならんぞ!!」
「当然のことだ!!我々の、大切な、孫!……なのだからなあ!」
勝利を確信する。カードが増えた。使えるカードが持ち札のなかに。ギャンブルの好きな男でもある。勝利も、小ずるい駆け引きも、好きだ。多くの農地を賭けの果てに失ってはいるものの、何度負けたところでいつも考えは同じ。
最後に全てを取り戻せばいい。
負けなど、過程に過ぎないのだから。
どうしても孫を殺したくないアンジュー卿は、男爵の願望に従うことになるだろう。それを、試してやるのだ。男爵の腕が、屋敷へと伸びる。
「まずは、弓隊を退かせてくれたまえよ!うちの竜に、偶発的な矢でも当たれば、ことだからな!リースの腹に負担をかけないような飛び方など、ズーは不得意だからな!そちらの矢が、不意にリースの腹に当たるやもしれん」
「……そ、それは……っ。しかし、武装は…………」
沈黙を待つ。良い手札を持つ男は、余裕を持った態度で応じるべきだからだ。
折れる。
負ける。
従うことになるのだ。この老人は、未来が欲しい。期待すべき未来が。年老いた自分と狂った後妻などという、未来の欠片も感じさせない悲惨な状況ではなく。この土地と栄光を継承させるに足る跡取りが欲しい。
政治的な判断よりも、血の本能が結局は勝る。娘と孫の命を手札にした残酷な男は、勝利を信じて時間を使った。
やがて。
アンジュー卿は決めてしまう。腕を上げた。エルフの狩人たちは、渋い顔をする。間違いのはずだが、領主には逆らえない。それに、気持ちも分かった。自分の矢で、赤ん坊を殺すことを好める者は、この場にいない。そんな残虐で無軌道な者を、あの賢明な老人が雇うはずもなかった。
エルフたちが、命令された通りに消える。屋根からいなくなった。これで、リングスタッド男爵は有利となる。カードがそろいつつあるのだ。背筋に、刺激的な電流が駆け抜けて、恍惚に揺れる小声を漏らす。
「……素晴らしい。勝って、全てを、取り戻せる……」
「弓隊は、退かせたぞ!!リース嬢を、戦場から離せ!!私の屋敷に招いてもいい!!絶対に、死なせてはならんのだ!!」
「オレの娘でもあるからな、それは当然のことだとも!……だが、政治的な立場というものを、明確にしておかなければならん!!」
「……っ」
緊張が生まれる。コントロールしているのは、常にリングスタッド男爵の方だ。駆け引きをゲームとして楽しむ残酷な男は、『嘘』を選ぶ。それが、この場では最良のカードとなると信じたのだ。
「オレは、アレサ・ストラウスにつくぞ!!バロウの謀反に、彼女が挑むというのならば、偉大な赤竜ズーと共に、竜騎士姫のとなりで飛ぼう!!」
最良だ。
もはや、あの老人は娘の腹の子の虜である。問題なのは、ただ一匹。凶竜ザードだけ。あれを殺すために出し抜かなければない相手は、アレサである。騙し、ズーをより良い位置に近づけさせてくれたなら……ケットシーたちの弓の援護と共に、ザードを屠れる。
「こちらの、立場を伝えたぞ、アンジュー卿よ!そちらは、どうなのだ?……この内乱の勝者を、どちらだと信じている?」
アンジュー卿の地位を知っている。豊かな男だ。そして、戦いを厭う老人。本来の政治的なスタンスは中立である。政治的な野心はないが、豊かな領地経営者なのだから。
これは。
罠であり。
駆け引きだった。
腹の子を守りたい。アレサ・ストラウスとリングスタッド男爵と、凶竜ザードとズーを、敵に回しては……そんな願いが叶うはずもない。言質は取りに出ていた。男爵が望む答えはただ一つ。『殺してもいい理由』だ。
この内乱の勝者は、バロウなのだから。
バロウに逆らう立場だと、老人が断言すれば―――殺しても良くなる。竜騎士姫と共謀した『敵』なのだから。その選択肢は、全てに勝る解決策とも言える。アンジュー卿が死ねば、継承者は気の狂った後妻のみ。彼女が領主になることなど、誰も認められない。ならば、リースの腹の子が相応しくなり……男爵は、その光景人として実質的な支配者となればいいのだ。
「……私も、君と同じ意見だぞ!!バロウ伯爵には、反対だ!!この王国は、エルヴェ陛下のもとに結束し直すべきときが来たのだ!!」
「ああ、いい答えだよ。最高の答えさ……」
満足だ。全てのカードがそろった。あとは、勝負と行こう。
「アレサ・ストラウスを出せ!共に戦うための方法を、決めるとしよう!!」
この戦における、最高の勝者はバロウかもしれない。
だが、それに勝るとも劣らない名誉と財産を手に入れる機会が来た。大いなる逆転勝利を、獲る。それは、この賭博狂いの男に最良のエクスタシーを与えるものだ。
また、欲深なズーは、主の思惑を理解し、喜んでいる。アレサも、アンジューも……そして、あの生意気なザードも。全て殺せるなんて、最高だ。全員の肉を食して、身を太らせる。これに勝る快楽を、ズーは思いつけなかった。




