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目の前のムカデは何も話さない。
ギチギチとオオムカデの節が動くたびに鈍い音が廊下に響く。
稲はふらつく足のまま引きずるように目の前の黒く光るオオムカデの背中に触れた。オオムカデは何も言わなかった。
「モモタリ…さん?」
稲が声をかけるも返事はない。口が利けないのかもしれない。しばらくだんまりと稲はオオムカデの背中をさすった。てかる見た目とは反対にさらっとした手触りに稲は不思議な感覚を覚えた。まるでこどもの日に飾る甲冑みたいだと稲は思った。
「…あ、あの」
勇気を出して稲が顔を上げると、どれと同時に後ろに引っ張られる感覚を覚えた。
自身の服が稲の首に引っ掛かる。あまりの勢いに稲は「ぅぐッ」と声にならないうめき声を漏らした。
何とか服と自分の首の間に指先を突っ込み、塞がれかけた気道を確保するも、足が浮くほど強い力で引っ張られる。
力を感じる後方に目をやるとそこには多聞が稲の首根っこを掴みオオムカデを睨むように立っていた。
いつもの穏やかな多聞の顔からは想像できないほど凶悪な表情だと稲は感じた。廊下が暗いこともあってか墨で塗られたように黒く陰った顔にぽつぽつと血走った瞳が浮かび上がっている。
「ぐ、ぅう、せん、ぜ…」
咳をする隙間もない。稲は必死に狭くなってしまった気道で息をしながらどうにか多聞に声をかける。多聞は稲の方など見向きもしない。
身を捩ってどうにか多聞から逃れようと稲が藻掻くと、多聞は稲の右頬を思い切り殴った。思い切り稲の顔に振り下ろされた拳が鈍い音を立てたものの、稲に痛みは届かなかった。以前モモタリに憑けてもらった保護の術のおかげだろう。
痛くないとはいえ他人に殴られたことなどほとんどなかった稲は、これ以上藻掻くとより打たれることは必至と捉えとりあえず動くことをやめた。保護の魔法ももう二度消費している。あと一度しか効かないはずだ。
大人しくなった稲に気分がよくなったのか多聞はへらへらと笑いだすと自分のポケットから錐を取り出した。
稲は自身に突き刺されるのではないかと息を吞んだが、もう多聞はすでに稲から意識を逸らしているようだった。
「くそ、くそ…」
へらへらと笑いながら多聞は口の中でしゃべっている。
すると、カグラの腹から勢いよく牙を抜いたオオムカデが多聞に向き合うと、節を軋ませながら大きく口を開けた。
まるで金属同士がぶつかるようなカチカチとした音がオオムカデの中から聞こえる。
「…こっちだよ怒ってんのはぁ!」
そう多聞は叫ぶと、一番自分に近かったオオムカデの節を錐で突き刺した。
ぶっすりと刺さるがオオムカデは怯むことなく自身の頭を多聞に近付けた。
器用にも多聞の首を絞めるように自分の身体を巻き付けると多聞の手の力は弱くなり稲は開放された。
勢いよく息を吸い、稲は息を整えた。
自身の頭上でオオムカデは多聞の首を絞める音が聞こえる。だんだんと力は強まっているようだ。
稲は慌てて立ち上がり、多聞とオオムカデの間に自身の手を突っ込んだ。
「だめ!神様なのに!人を殺すなんて!」
稲の悲痛な声とともに、オオムカデは力を緩めた。
ずるずると多聞と稲からオオムカデは距離をとる。そんなオオムカデを追うように稲は走り、抱きしめた。
「…助けてくれてありがとうございます」
腕が回らないほど大きなムカデだが、稲は目いっぱい腕を広げてオオムカデを抱きしめた。
怖くないわけではない。モモタリだと言われても半信半疑だし、虫は苦手ではないもののこんなに大きな虫恐ろしくないわけがないのだ。
稲はぎゅっと目を瞑り、冷や汗が背中に張り付く感覚を覚えながらも必死に彼を抱きしめ続けた。
しばらく稲が抱きしめていると、オオムカデの身体がだんだんと縮んでいくのを腕の中で感じた。肌の擦れる感覚が思ったよりもすべすべで稲は初めての感覚にどこか恐怖を覚えた。
肌の当たる感覚が完全に変わった。すべすべとした感覚から、しっとりとした人肌の感覚だ。ゆっくりと目を開けるとそこには少し放心した様子のモモタリが稲を抱きしめていた。
「神なのに人を殺すなんてだと?」
大人しくモモタリに抱きしめられていた稲だったが、自身の背後から多聞の声が聞こえ顔を上げる。
多聞は錐を片手に、自身の首元をさすっている。細く白い首にはくっきりと硬いものを押さえつけられたような絞め跡が残っていた。
「俺らを滅ぼしたのは誰だ」
先ほどまでかけていた多聞のメガネは地面に落ち、無残にも砕けている。
そして、思ったよりも大きな瞳でぎょろりとモモタリと稲を多聞は強く睨んだ。
「俺らを追い出したのは誰だ」
よろよろとしているが着実に多聞はこちらに歩み寄ってくる。
稲は放心したままのモモタリの頬をぺちぺちと叩き「モモタリさん!モモタリさん!」と呼びかけるが返事はない。朱色の瞳が少し濁って見える。
「神はな、人を殺すんだよ」
あまりにも低いその声に稲は全身が寒くなる心地がした。
多聞が錐を振り下ろすと同時に稲は目を固く閉じ、モモタリを庇うように大きく手を広げた。
…いくら待っても衝撃はやってこず、恐る恐ると稲が目を開けるとそんな稲を庇うようにナンギョクが腕を広げていた。
「な、ナンギョクちゃん!」
稲が声をかけると同時に、ナンギョクの首がずるりと崩れるように床に落ち粉々に割れた。
さっき首を割られたばかりでもろかったのだろうか。首から滑り落ちた顔はその半分が粉々になってしまった。ナンギョクの額のあたりに先ほどまで多聞が振りかぶっていた錐が突き刺さったようで、額から広がるように顔中がひび割れていた。
稲は地面に散らばったナンギョクの頭を集めながら涙が出た。何がどうなっているのか全く理解できない。
ナンギョクの破片を自身の足元に集めていた稲は再度顔を上げると、美しい少女の顔をしたカグラが顔を近付けていることに始めて気が付いた。カグラの奥に据える多聞を見るとどういうわけか膝をつき呆然と天井を見上げている。
「人の子よ」
「…」
稲は返事をせず、じっとカグラの姿を凝視した。
先ほどまで空いていた腹の風穴はすでに閉じておりやっぱりこの少女も人外なのだと改めて思い知らされる。
「まあそう睨むな」
にっこりとカグラは微笑み「この苗床はもう限界だ」と多聞の背中を蹴り、前のめりになった彼の背中を優しく踏んだ。
「どうしてこんなこと」
「天龍を返してもらうためだ」
稲の質問に被さるようにカグラは言うと、稲の傍で放心したままのモモタリを見た。
「恐ろしかったろう、もう無理するな」
放心しているモモタリをみて嬉しそうにカグラは笑うと稲と向き合い言った。無邪気な笑顔を向けてくるカグラがどうにも憎らしく、稲はカグラを睨んだ。
「人間なんぞに神はもったいないだろう」
カグラはそう続けると、多聞の背中に自身のつま先を滑らせた。多聞の背中には大きな割れ目ができ、そこにゆっくりとカグラは自分の手を差し入れた。その中からごろりと丸い種が一粒、カグラの指先に摘ままれて出てきた。
「死にたくなったらいつでもおいで、私はいつだって準備はできてる」
そう言い残してカグラは消えた。