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あれから一週間ほどたって今日は現三年生の卒業式。
生憎と昨日の夜中から振り始めた雨は止むことはなかった。
強くはないがしばらくは止みそうにない。
俺からすると十連ガチャが少し遠のくだけだが、卒業生にとっては人生で一度の大事な日。
誰一人として顔見知りではないのに、こんな時くらいお天道様も気を利かせてくれたらいいのにな、とらしくないことを考えてしまう。
ちなみに普段の俺は気が利かないことで有名だし、先輩と顔見知りでないというのは言葉通りでもあるが、俺が目を合わせないので物理的にも顔見知りではない、という事でもある。
もっと言えば有名かどうかも疑わしい。
広める人がいないからな。
バスの待ち時間にそんなどうでもいいことを考えていた。
少しして最寄りの水戸駅のバス停、その中でも駅から一番遠いバス停で、俺の通う水戸弘道高校行きのバスに乗った。
普段は水戸弘道高校の生徒以外にも近くの高校の生徒でバス停前はごった返し、今日みたいな天気の悪い日にはタイムセールに勇む主婦のごとく脇目ハ振ラズ、隣ハ譲ラズ、先輩ニモ、友ノ視線ニモ負ケヌ丈夫ナココロヲ持って乗り込まなくてはいけない。
俺みたいに始業時間ギリギリに登校する効率第一な生徒はまず間に合わない。
間違えた。
そもそもそういう生徒は遅刻することを何とも思っていない。むしろ「へへ、さらに時間を効率的に使えたぜ!」とか考えてる。
バスの待ち時間が伸びていることに気づいていない間抜けの図である。
ただ今日はそんな阿鼻叫喚! 地獄絵図! みたいなことにはなっていなかった。
おそらく普段の十分の一以下の生徒しか利用していない。
理由は単純。今日は土曜日すなわち休日だし、我らが母校、水戸弘道高校通称スイコウ(水弘か水高。もしかしたら水校かもしれん)の卒業式に出席する在校生は委員会に所属している者と吹奏楽部の生徒だけだからだ。
現にさっきまでどうでもいいことを考える余裕があったのがその証明である。
卒業生はただ座っている在校生よりやることがあるだろうから、先に登校している。
だからほら、今俺はバスの最後部のロングシートを独り占め。他の利用者は俺を除いたらスーツ姿の男性と他校のジャージ姿の生徒が二人――
そこで一人の生徒の存在に気付いた。後ろ姿しかわからないが俺と同じ高校のブレザーだ、間違いない。
二席前の乗客のことなんて普段混雑するバスの中だったら間違いなく気にも留めない。
息が詰まりそうなほどの人口密度のバスの中、顔を上げることもありえない。
そもそも前見て生活していない。
最後はただの俺の自虐だが、つまりこれは偶然というやつだ。
バスが信号で停車し再び発車するまでの間、俺は女生徒の後ろ姿を眺めていた。
綺麗だなって思った。彼女の黒髪は癖のない直毛で、バスの揺れに合わせてさらと流れた。
エンジン音しか聞こえない閑寂なバスの中において、彼女の後ろ姿はなんというかそう、様になっていた。今日がたまたま卒業式で薄墨を重ねたような空模様もお誂え向きで、彼女の後ろ姿に儚げな印象を与えていた。
まあでも、それだけだ。
必要以上に有り難がることもなければ、運命的な出会いを予感することもない。
それに俺彼女いるし。
少ししてバスは大通りを右折し目的地の一つ手前のバス停で止まった。
女生徒は止まったことに遅れて気づいたのか、突然跳ね上がるように立ち上がると「すみません。降ります!」と車掌に声をかけた後申し訳なさそうに下車していった。
俺はというと先ほどの彼女の姿を自分に重ね合わせて身もだえていた。
俺は目的地に着くまでの間に、財布から迷いなく運賃を取り出しておく。常識的な行動である。
ここまでなら誰でもやるだろう。だが俺は少し違う。
乗車する前に財布の中の小銭を確認。確実に小銭で運賃を払えることが分かった上で乗っている。お札しかなければ事前に自販機でドリンクを買うなりして対処している。
自分のせいで他人に迷惑をかけるという行為を俺は自身に許容できなかった。より正しく言えば自分が他人に迷惑をかけているという自意識があると躊躇ってしまう。
今のも、まあなんで彼女が一つ前のバス停で降りたのかは疑問だが、俺なら車掌に声をかけたりしなかった。それは俺のせいでバスが遅れるのを嫌うからである。
だからと言って彼女のさっきの行為を迷惑な奴だな、なんて思ったりもしていない。他人に興味を持たないように気を張っている節があるくらいだ。
まあなに、一見すると極度のめんどくさがりのようであるが、ただ単に俺自身がめんどくさい性格なだけなのだ。
なにそれ、もっと悪くね?
バスから水戸弘道高校前を知らせるアナウンスがなった。到着だ。
鞄を手に降車口へ向かおうと歩き出す。
さっきまで女生徒がいた座席に何とはなしに目をやる。
少し厚い黒い装丁の日記帳のようなものが置いてある。
女生徒の忘れ物であることは瞬時にわかった。
ただどうするかはすぐに判断できなかった。
以前の俺なら迷わず手に取っていた。
大事なものなら女生徒もバス会社に連絡をするだろうってことは想像できた。
なら、そのまま放っておけばいいとも思ったが、残念なことに持ち主がわかっていて、しかも俺と同じ学校の生徒ときた。
女生徒からしたら今の俺の状況なんて知る由もないので、俺が蔑まれることはない。
けれど、そうしたらなんだかとても薄情な奴な気がした。
ああ、だめだ。考えがまとまらない。
やり直しができない選択肢を前に立ち尽くしていると、前のほうから声がかけられた。
「きみー、どうするの?」
俺は慌てて女生徒の忘れ物を鞄の中にしまう。
「すみません。降ります!」
そう言って俺は申し訳なさで死にたくなりそうになりながら駆け出した。