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「白紙で提出したの君だけよー。まだ決めかねてる子は多いけど何も書いてない子はいなかったわ」
面談の最中、担任の小松あやめはそう話を切り出し、大きく一度ため息をついた。
「進路が決まっていないのがそんなに珍しいですか」
俺は当たり前の疑問を口にする。
「進路希望調査書の項目、志望大学も将来の夢も文理選択希望もなーんにも書いてない。よくこれで提出できたわね。教師人生で初めてよ」
「へー、俺が初めてだなんて光栄です」
小松先生の大げさな言葉をごまかすように俺の返答は軽くなった。
ふざけた反応に小松先生の意識が逸れれば、怒られる理由も変わるかもしれない。
ただ、小松先生の返しもまたふざけていた。
「そうよ、君が私の初めて。だからどういうことかわかっているのかしら」
のってきた、まじかよこの人。
面談が始まって数分、会話は盛大に横滑りしていた。
「ちょっ、それはさすがに大げさじゃないですかね。それに俺が初めてって嘘でしょ」
嘘をつくな、と少し責める口調になった。
けれど、彼女の表情は楽しそうなまま。
「もうっ、つまらないわねー。でも、進路希望調査書を白紙で出したのは本当に君が初めてよ」
そして一呼吸おいて言い放つ。
「なんたって私このクラスが初めての担任だもの!」
小松先生は俺の指摘に得意げに種明かし。ニマッと笑ってこちらを見る。
まじだったのかよこの人。
俺の進路よりこの教師の素質を面談するべきじゃないか、なあ。
「はあ、それじゃあ進路希望調査書書き直すってことでいいですか」
「いや、それはもういいわよ。私怒ってないし」
からかわれるのが面倒で自分から提案したが、どうやら小松先生は今のやり取りで満足したようだ。
先生はこの話はこれでおしまいと机の上の調査書をファイルに収め、ぱたんと閉じた。
白紙で提出した俺も悪いが、これでいいのかと少し心配になる。が、今日は早く帰りたかったから正直ありがたい。
今週は進路希望調査の面談があるため授業は午前中のみの特別授業。午後は面談を控えていない生徒はもちろん面談の済んだ生徒も自由だ。しかも金曜日の今日で学校も終了。明日からの二連休を少しでも伸ばしたい。
目の前の担任教師の素質を疑ったばかりにもかかわらず俺は考えを改め始めていた。
ところで、いい先生にはいくつか条件がある。授業の質とか生徒に平等に接するとかいろいろあるが、その中でもかなり重要な条件の一つ、「話が短い」を小松先生は満たしていた。
まじでこの人いい先生だわ。生徒の気持ちがよくわかっている。
面談も小松先生の教師の素質もこれ以上何も言うことはない。
「あ、じゃあこれでいいすか。ありがとうございました」
内心浮足立っていた俺は私物の筆記用具を鞄にしまい、立ち上がって挨拶をする。
「だーめ、何勝手に帰ろうとしているの。面談は終わってないわよー」
背中越しに引き留められた。
「いや、さっき先生――」
「白紙の調査書の件は終わりよ」
「なら、俺から言うことはなんもないっすよ」
俺は先生のほうに向き直り、はっきり言ってやった。
陰キャの帰巣本能をなめてもらっては困る。なにも一番になれない俺だがこれだけは自身がある。具体的に例を挙げると通学の行きと帰りで平均時速が五キロくらい違う。知らんけど。
「だ、か、ら、私から聞くのよ。一年最後の面談でしょ、あることないこと全部言ってあげるわ。さ、座りなさい」
俺の反論を予期していたかのような返答に言葉が出てこなかった。
しょうがなく居住まいを正し、小松先生の様子を窺う。
小松先生は自分の座る椅子を前に引き、距離を詰める。机の上の紙束をすべて片付けるとさっきよりいくらか真面目そうな表情をした。
俺と先生の間には今なにもない。
「久乃木くんさー、学校楽しい?」
「楽しくなくはないです。でも十分です」
ちょっと意外そうな顔をして小松先生は話を続ける。
「じゃあ、もっと楽しそうにしなさいよ。デフォルトで目のハイライトいつも消えてるわよ。この世界でそういうのはヤンデレ美少女に限るものじゃないのかしら」
世界か言葉か、これもうわかんねぇな。てか、アニメやゲームに縁がなさそうな見た目してるのにわかるんだな。
「それにその髪、特に前髪ね。そんなに長いと何も見えないじゃない。眼鏡かけてるけど無駄よ無駄無駄。見えるものも見えないわ、自分の進路とかね」
まっ、私は嫌いじゃないけど、と付け足して声は出さず笑みだけを浮かべる小松先生。
この人それでフォローしたつもりか?俺以外の陰キャが美人の担任にこんなこと言われたら間違いなく不登校まっしぐらだ。
俺はというと今の俺を俺自身が割と気に入っているため特にダメージはない。まあ、髪が長いのは自分でも気になるから何とかしたい気持ちもある。
「……話聞いてるのかしらー? 前学期は眼鏡かけていない日もあったじゃない」
「……聞いてますよ」
視線で続きを促された気がした。
「髪の毛は切ろうと思えばいつでも切れますよ。コンタクトに関しては眼鏡のほうが楽だからですよ。コンタクトは高いですしね」
嘘は言ってない。言っても意味がないしな。
しかし、小松先生はどうにも納得がいかない様子。難しい顔をしていた。
「それに俺はこのままで平気です」
「私はね、久乃木くん。生徒には学校生活を楽しんでほしいのよ、私の生徒ならなおさらね。一度きりの高校生活でしょー、いっぱい青春してほしい。正直進路なんて未来のことに悩むより今を楽しんでほしいわけ。それに君成績はいいしもったいないわ」
小松先生から教師らしいセリフが聞けるなんてな。
こんなやる気のないダメな生徒によくここまで親身になれるもんだ。引き留められた時点でいい教師の条件の一つ、「話が短い」はとっくに取り消されているが、もしかすると本当にいい先生なのかもしれない。
「そういえば君部活は何やってるの?」
「部活なんてやってないですよ」
さも俺が部活に入っていて当然のごとく聞いてくる。俺はその聞き方に特に疑問を持つことはない。俺もこの学校の誰かに部活の所属の有無を聞くときはそう聞くしな。
「じゃあ同好会は?」
「ないです」
「じゅ、重症ね」
なんでちょっと嬉しそうな表情してるんだこの人。
「健全ですよ、別に入ってなくても問題はない」
「駄目よ駄目駄目、そんなんだから彼女もいないのよ。どーせ彼女いない歴=年齢でしょ。私知っているわ」
明らかになっていく俺の無気力さを根拠に決めてかかる小松先生だが、ここは俺も言わなければならないだろう。
「いや、俺彼女いましたよ。なんなら今も。部活や同好会に入ってないのは彼女のための時間を作るためです」
ここで衝撃の告白!わざわざ言う必要もないが言われっぱなしが癪に障った。俺も陰キャっぽさがまだまだ足りてないな。
小松先生は数秒の間を置き、叫ぶ。
「えええええええ! おかしいわそんなの! 君みたいに一日のエネルギーを数年先から前借しているような男は私みたいな世話好きが面倒見てあげなくちゃいけないのよ!」
机に体を乗り出し、身を悶える残念な美人がそこにいた。直視はできそうにない。
「ちなみに聞くけど、どんな子なの?わ、わ、私よりかわいいのかしら」
えええええええ! 何この人もしかして俺のこと好きなの?まったくフラグを立てた覚えはない。
「……年は俺より上です。かなり方向音痴なので俺がついていないといけなくて。トップアイドル目指しているんです。占いなんかも好きでかなり可愛いですよ。あ、もちろん性格もいいです」
彼女が探すところの「運命の人」である俺は少し気持ち悪いくらいの早口で彼女の説明をした。
「……あらあら、可愛い彼女さんですこと、一度会ってみたいわー」
「そ、それはどうでしょうね。ちょっと俺以外には壁があるというかなんというか……」
俺の言葉を聞いた途端、先ほど振り乱した髪を片耳にかけなおし余裕を持ち直した様子の小松先生。手を頬に添えて微笑んでいる。
今のめちゃくちゃ既視感あるわ。これはどっちだ。偶然の一致なのか、誰か教えてくれ!
今日一番頭を回転させるがどう考えてもうまい返しが思いつかない。
「でもプロデューサーさんは公私混同していいのかしら」
あ、ばれてるわ、これ。てか、まじでなんでわかるのこの人。
年上でありながら一つ下の存在である俺の彼女の存在を小松先生は知っていた。
「いや、待ってください先生! やればわかるっていうか、彼女を知ってしまったら付き合うことは確定事項みたいなもんなんですよ!」
「皆まで言わなくていいわ。久乃木くんが今部活や同好会に所属していなくて、彼女もいない寂しい寂しい高校生活を送ってることなんて言わなくていいの」
皆まで言ったのは俺じゃなかったが客観的に俺の学校生活を要約するとそういう事だった。
「でも大丈夫よ。私に任せて! 君の高校生活を薔薇色に染めてあげるわ」
古典的に言えば灰色に染まりたいところだ。
「さっきも言いましたけど俺は今のままで十分です」
「ふふ、そんなこと言ってー」
少しむっとした。
「いや、本当ですって。それに誰もそんなこと頼んでな――」
「このままじゃいけないと、私が思っているの」
新任の女教師にしては考えられないほどに有無を言わさぬ迫力があった。
息が詰まった。少しドキッとした。
初めて先生と確かに目が合う。目を合わさないようにする俺を覗き込むようにして映り込んできたせいだ。
ふうっと肺にたまった息を吐き出した。もうギブアップだ。この人と根比べしても勝てる気がしない。
これから起こる面倒ごとはすべて俺のせいじゃない。この糞みたいな生き方を選んだ俺を気に掛ける奇特な教師のせいにしよう。
そう諦めて反論の代わりに了承した。
「それでいったい何をさせようって言うんですか?」
「久乃木くん、保健委員でしょ?」
「はあ」
「だったら卒業式に出席するわけだし、その時に話すわ。まったく関わりのない先輩ばかりだろうけどちゃんと来なきゃだめよ」
初めの想定よりずいぶんと時間がかかって面談は終わりを迎えた。
わざわざ確認する前から音で感づいていたが、外では雨が降り出していた。
はあ、だから早く帰りたかったのに。
バス代がもったいない。塵も積もれば山となる。
最寄りの駅から学校前のバス停までの運賃は二百四十円。
およそ十四回の乗車で十連ガチャ一回分だ。
晴れの日はいつも自転車で通学している。が、この雨の中駅まで自転車で帰る気力は勇気や元気、根気のどれからも絞り出せそうにない。
小松先生と別れる直前、さっきから疑問に思っていることを聞くことにする。
「小松先生今日は長い間面談ありがとうございました。あー、あとどうしてそんなに俺にかまうんですか?」
ずっと思っていた、この人は何でこんなに俺に絡んでくるのだろうと。
正直疲れてなければ殴っていたかもしれないし、美人じゃなければ殴っていた。
もしかしたら何か特別な理由があるのかもしれない。
それが知りたかった。
「ん? それはね。……私がダメ男を好きだからよ!」
やっぱり殴ってやろうかな。
正真正銘のクズ野郎への一歩を踏み出すより先に、小松先生は職員室へ歩き出していた。
殴るのはまた今度にしておこう。
ふっ、命拾いしたな。まあ、殴ったら終わってたのは俺のほうだけど。
今しがた抱いた怒気を気力に帰りの階段を下り、下駄箱まで着くと上履きを自分の靴へ履き替える。
これ以上雨が強くなる前に小走りでバス停まで急いだ。
ゴールデンウィーク終わってるってマジ?
これから病院に行って五月病の診断書書いてもらってきます。