荷物番の災難
おいこいつ冬なのに夏の海水浴場の話書いてるぜ!?
変態かよ…
「夏だ。」
意味もなく言葉がこぼれる。目がつぶれるほどに眩しい、雲一つない空を眺める。どこまでも澄み渡る薄い水色が、翡翠色の海とのグラデーションとなり目に焼きつく。賑わう三日月型の浜に意識を移せば、真っ白な太陽が満遍なく焼いた砂の上で人々が踊っている。素足を熱せられてまともに浜辺を歩けないことが、どうしてあんなに楽しそうなのか。楽しめない私の方がおかしいのだろうか。思考が嫌な方へ向かい、堪らず目を閉じる。そうすると耳に入ってくる、波がしゃらしゃら浜べを舐める音。時折肌をなぞる磯混じりの風と共に演出される、風鈴にも似た清涼感が恐ろしい。なんたって実際は少しも涼しくないのだ。
誰も彼もが夏に囚われたように生肌を晒し、嬉々として暴れまわっているこの空間は何だ。ああ、言われなくてもわかっている、ただ現実から目を背けているだけだ。
そう、ここは、海水浴場だ。
容赦ない8月下旬の真夏日が、目を背けようとも背けられないほどに絶好の海水浴日和なのだということを、全身に否応無く感じさせてくる午後2時をまわった頃。不本意ながら午前中からここにいる私は、この期に及んで尚、浜辺の狂宴に参加していないわけで。結果として私は、和気藹々と楽しんでいる海水浴客たちの熱気の外側で、独りつまらなそうな姿を晒している。それと残念なことに、ちょっと目立ってしまっているのだ。あまりよくない方向に。
消極的な逃避思考から抜け出した私は、現実を受け入れて目線を自分の体へおろしてみた。早速目に飛び込んできたのは、飾り気のない色褪せたデニム生地のジーンズと、“怠惰”の文字が楷書で描かれたセンスの欠片も感じられない白のTシャツ。私はこのセンスの無さが非常に気に入っているわけだが、この場にそぐわないのは確かだろう。一応その上から薄灰色の薄手パーカーを羽織ってはいるものの、自身の性質を隠すことは私の主義に反するのでチャックを閉め切っていない。なお、靴はいつも履いている普通の白いナイキスニーカーである。水着もビーチサンダルも、凡そ海を楽しむのに必要そうな私物は何も持ってきていない。海を楽しむどころか一歩も足を踏み入れる気すらない格好で、ここまで来たら一周まわって面白いのではないかと思う。いや、やっぱり思わない。
とはいえ、パラソルの下でクーラーボックスやリュックに囲まれている私の姿は本来であれば、多少服装が場にそぐわないものだったとしても、ただの荷物番にしか見えないはずなのだ。そう、荷物番をしている人は他にも多くいるのだから、特別私だけが悪目立ちする道理はない。本当だ。では何がいけないかと言えば。それはおそらく行動なのだろう。
雰囲気に乗ってはしゃぐことも誰かと話すこともなく、綺麗な景色と喧騒を肴に酒を飲むでもない。目線をあちこちにふらふらさせることもあれば、ただ虚空を見つめ白目を剥くこともあり、唐突に太陽への呪詛を吐いたと思えば、次の瞬間には重々しいため息をついている。遠くからは分かりづらいだろうが、近くで見たなら非常に不気味だろうし、楽しい時間を過ごしている時に見たい姿ではないと思う。こんなことで目立っているなんて害悪でしかない。
正直申し訳ないとは思うが、私だって本当は来たくなかった。たった3千円分の図書券で車の運転係及び荷物番なんて了承しなければ、今頃はクーラーの効いた家で快適に過ごしていたはずなのだ。あれ、これは全面的に私の過失なのでは。嫌なことに気付いてしまった。溜息。
また始まる逃避思考に陥ること暫し、ふと気づけばなんだか私の周囲だけぽっかりと人のいない空間が形成されているような。いや気のせい、気のせいだろう。ここは砂浜の端の方だから人がすくないだけ。記憶の片隅に、露骨に見てはいけないものを見たような顔をして離れていった家族連れやカップルがいるような気もしてならない。これも気のせいだ。そう、全ては現実リアルではなく、夢なのだ。
幾度目かの逃避を試みるも現状が変わる訳でもなく。
――あぁ、
――本当に私は、
「場違いだなぁ。」
一拍。
「なにが場違いなの?」
意味のない呟きに突然返された言葉。語尾がぴんっと上がって氷のように透き通った、未成年女児の声だ。知り合いではない。適当にあしらうか、そう思い声の主へと顔を向けた私は言葉を返さなかった。いや、返せなかったと言うべきだ。なぜか。声を掛けられる想定をしていなかったから、背後からの声だったから、そもそも私が知らない人間といきなり話せるような性格ではないから。違う場面であれば正しかったであろう数々の理由は、今、この瞬間にはあまりにも的外れに過ぎる。
まず目に入ったのは、向日葵の様に眩い襟付きワンピース。ひらひらとした裾から時折見える日焼けした太ももが光を反射して輝いている。思わず太陽に感謝してしまう。平坦な胸元に目を向ければ紺のリボンが、そよ風のなかでこちらを誘うように漂っている。またリボンと同じようにゆらゆらと、後頭部で2つ結びにされた淡い色の髪が左右に揺れるさまは、捕まえてみろと挑発してくるようで加虐心をそそられる。恐ろしいほどに巧みな技術を持つ風にひれ伏してしまいそうになる。頭に被っているのは麦わら帽子か。いや違う。ボンネットだ。西洋人形に着せるような麦色のボンネットが頭を包み込み、お淑やかさを引き立てている。ここまででもう100点満点中120点だ。最後に少女の顔に焦点を合わせる。長い睫毛に縁取られた丸く大きな瞳と視線が重なった。何かを待っているのか、訴え掛けようとしているのか、その視線は私から逸らされる事がない。困ったような下がり眉もキュート、5000兆点。
美少女だ。とびっきりの美少女だ。
私の好みど真ん中、直球160km/hの美少女と出会ってしまった。私が言葉を忘れるには事足りる、未曽有のときめきだった。
「おねえさん、場違いなの?」
見つめあっていると再び降ってきた言葉。天使からのお告げだと言われても違和感のない透き通った声に思わず聞き惚れて。いや違う、そうじゃないだろう。間抜けな面を晒して呆けている場合ではない。この美少女が待っているのは私の返事に決まっている。困ったような、ではない。困っているのだ、声をかけた相手が自分を見つめてだんまりを決め込んでいることに。そんなことにも頭が回らなかった自分が恥ずかしい。夏の日差しとは関係なしに頬が熱くなっている。返事だ、返事をしよう。言葉を思い出せ。慌てて口を開く。
「あ、いや、うん。浮いてるなって。」
咄嗟に出た台詞は、いい歳をした大人が発するものとしては余りにもあやふやなもの。自意識過剰気味で拙い、まるで子供のような返答。熱された砂浜に穴を掘って埋まりたいくらいには恥ずかしい。ほら、案の定理解できなかったのか、少女が首を傾げているではないか。そんな仕草も可愛らしくてついつい見惚れてしまうが、今重要なのはそこではない。現状の私は、明るいビーチで独り負の感情をまき散らす不届き者な不審者だ。そんな人と傾国の美少女が話している。通報されてもおかしくない。手短に誤解のないよう私がなぜ場違いなのかを説明し、穏便に立ち去ってもらう。それが最優先事項だ。私好みの超絶美少女とお喋りする千載一遇のチャンスを棒に振ることになるが、仕方ない。私だって冤罪で牢屋暮らしはしたくない。今一度気合を入れ、口を開く。しかし私が何かを言う前に、少女が先手を打った。
「じゃあわたしがかまってあげるねぇ、かわいそうなおねえさんっ。」
…?
…???
咄嗟に理解が出来なかった。今この娘は何と言った。まるで都合の良いおもちゃを見つけたように目を細め、嘲笑うかのように唇の端をにたぁと上げて、かわいそう、と。余りにもあっさりと心にもない憐みの言葉をかけられた。確かに私が孤独に見える状況下にあったことは否定しない。そのことは自覚していた。場違いだとか浮いているという言葉も、逆説的に浮きたくないと言っているように感じるかもしれない。ただ、たとえ周りからそう思われていたとしても、私自身はそんなこと一言も言っていなければ思ってもいない。むしろ余計なお世話だとさえ感じるほどだ。私より一回りは幼いであろう日焼け褐色超絶美少女に哀れまれるほど落ちぶれていない。
今しがた感じていたときめきが急速に萎んでいく。天使だと思っていたらとんでもない本性を現したものだ。お腹の奥底からほんのりと羞恥と怒りがこみあげてくる。とはいえ、感情的になってしまっては大人としてよろしくない。ここはあくまで冷静に、性悪ながきんちょなど眼中にないのだと突っぱねてやらねばならない。そう決意して口を開くものの、またも少女に発言の機会を奪われてしまった。
「お顔真っ赤だよ、おねえさん。そんなに嬉しかったんだぁ。」
息が、出来なかった。見惚れて言葉を忘れたわけではない。怒りで我を忘れてもいない。ただ気づいてしまった、お前は嬉しいのだという言葉で無理やり気づかされてしまった。私の無自覚に突き刺さる、図星。もう後戻りはできない。だって、私の身体は、遥かに年下の少女に無礼な言葉を浴びせられて、こんなにも悦んでいる。
わかっていると言いたげに、端整な顔が近づいてくる。息が、出来ない。下腹部が、熱い。小さな両手がゆっくりと、私の頬を挟む。何故か流れてきた涙で視界が霞む。息が、出来ない。薄れる意識の中、離れていく少女の口角が勝ち誇ったように上がっている気がした。
全国煽り選手権大会特別試合、ステージは海水浴場。
×女子大生 対 少女〇
試合開始僅か一分のKO。
決まり手は煽りキス。対戦ありがとうございました。