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終点のはるか手前

作者: 青木慶

 小さな声が聞こえた。

  「なに?」と僕は応える。

 けれど首を傾げることができない。それがいま、僕たちの間にあるルール。

 この一線を越えれば、そこで終わり。代わりに頭を半分だけ乗せた枕に体重をかけた。


「この前ね……」

「うん」


 僕の脇腹あたりから伸びる細い腕に力が入る。

 そして布が擦れる音がして、彼女はこちらに身をよじらせてくる。


「行ったの。あいつの家」

「うん。それで?」


 僕は背中に感触を覚えた。そこを中心に神経は覚醒を始める。

 否、もともと覚醒はしていた。なら、これはなんだ……。

 すぅーっと息を吸い込む音が聞こえた。そして背中に感じていた違和感は消える。


「こうちゃんってさ、洗剤なに使っているの?」

「ドラッグストアで売っている安いやつだけど。どこでも買えるやつ」

「え、でも凄くいい匂いだけどね。私好きだよ、こうちゃんの匂い。変に臭い香水つけるよりずっといいよ」


 その一言に、びくりと僕の心臓が躍った気がする。


「それで? あいつの家行って、どうしたの?」

「何もないよ。私はソファーで漫画読んで、向こうも向こうで作業しているの。ほら理系で院行っているからさ。修士論文の締め切りが近いんだって。ほんとなんなのって感じ」

「いい関係じゃん。お互い深入りしないで」

「いや、可笑しくない? こんなのがもう、3ヶ月近く続いているんだよ? 私も可笑しいよなぁとは思っているだけどさ。どうすればいいのか分からないんだよ」


 彼女は、はぁ……と力ないため息を吐いた。

 首元の産毛に生温い風が当たる。かすかに酒の匂いがした。


「あぁ、やっぱ飲みすぎたかも」


 そう言って布団をめくり上げた彼女は、僕を跨いでベッドから降り、部屋を出て行った。

 廊下に灯りがつく。しばらくして水が流れる音が聞こえた。

 草木も眠りについたこの時間。暗闇も手伝ってわずかな動作でさえ騒々しく感じる。

 遠くのドアが閉まる音が聞こえて、今度はシンクが叩きつけられるような音が聞こえてきた。

 そして彼女はマグカップに水を注いで戻ってくる。


「ちょっと、電気つけていい? そこの布団で転けそうで怖い」

「うん、いいよ」


 パチンと音がして、僕の視界は一瞬真っ白になる。

 そこにはシングルベッドと対になるように一人分の布団が敷かれていた。

 布団とは言ってもカバーを掛けたマットレスと、薄手の羽毛布団でできた簡単なもの。

 ついさっきまで僕がいた場所だ。


「こうちゃんの家さぁ、浄水器あれば完璧なのにね」

「一人暮らしに贅沢言うなよ。東京の水道水でも十分飲める」


 僕の足元。

 ベッドの縁に浅く腰掛けた彼女が、喉を鳴らすように水を飲み干した。


「吐くのだけはマジで勘弁な」

「大丈夫。私今までで一回しか吐いたことないから。はぁ、やっぱり焼酎ロックで飲むんじゃなかった」


 彼女はデスクにマグカップを置くと、また僕を跨いで戻ってくる。


「電気」

「こうちゃん消してー」

「……はいよ」


 足の裏がひんやりとする。12月のフローリングは床暖房がないと厳しいものがある。

 電気を消すと僕は再び彼女の待つベッドに戻って行った。

 再び静寂が訪れる。


「こうちゃんってさ」

「うん」

「なんで彼女作らないの?」


 そう言いながら彼女はまた、僕の腹を巻くように腕を伸ばしてくる。


「あの娘と別れて何年だっけ?」

「2年? もうすぐ年越えるから、そしたら3年かな」

「もう、いい時期じゃない?」


 彼女の腕は僕の腹のあたりから離れると、僕たち二人の上に掛け布団を掛ける。

 そしてすぐに僕のもとへ戻ってきた。


「今はいらないかな、忙しいし。就活の準備とか、ゼミとか」

「こうちゃん優良物件だと思うんだけどなー、私は。だって面倒見いいしさ。うちの大学の中じゃまだダサくない方だし、あとなんだ? うん。でもいい」

「諦めるなよ」

「なんでだろうね」


 僕の背中に再び彼女の鼻先が触れる。すぅーっと彼女の呼吸音だけが響く。


「別に俺のことはいいよ。それよりもどうするの? その院生の先輩と付き合うの?」

「絶対ないわ!」


 即答だった。


「でも向こうは付き合いたいって言っているんでしょ?」

「何度も言われているよ、その度にニコニコして誤魔化している」

「なかなか残酷だな、それ」

「だってさぁ――」


 彼女の右足が丸太のような僕の太腿を超えて、足の間に割って入ってきた。


「私の中ではさ、その人とはそういう関係じゃないんだよ。今みたいにあの人の家行って、だらだらして、休日時々遠くにドライブして。そんな感じなんだよね。付き合うとかじゃなくてさ」

「それが続くのは向こうがかなり大人だからよ、精神的に」


 スエットズボンの袖を器用にずらした彼女の足先が、僕のスネにあたる。


「何度も言われているんだけどね」

「なんて?」

「ヤりたいって」

「でもヤらないんでしょ?」

「うん」

「普段どうやって寝ているの?」

「私がソファーで、向こうがベッド。そりゃ家主様ですから」


 僕の脚を撫でていた生暖かい彼女の足先が、僕の足先に触れた瞬間ビクッと跳ねた。


「こうちゃん、足冷たっ!」

「ごめん……」


 すると何故か僕の体を巻く蛇はさらに締めつけを強くした。

 耳たぶに、風が吹いた。


「はぁー。こんなことのできるの、こうちゃんだけだよ」

「なんで?」

「なんでだろう。なんか安心するんだよね」


 そう言って、黙り込んだ彼女。背中の違和感は先ほどのものよりも大きい。

 スウェットの生地をパクパクと噛んでいる。


「甘い」

「あっそ」

「ほんと冷たいよね。返信とかいっつも素っ気ないしさ」

「多分俺、そこまで人間に執着がないんだと思う。中学の友達とか高校一緒じゃないと卒業式以来会ってないしさ。その時限りの関係だったんだよ。ずっと」

「こうちゃんの()()()()は3年ってこと?」

「そうだね。小学校も4年生に上がる時にクラス替えあったし、3年かも。俺の()()()()

「えぇ、じゃあ来年こうちゃんと友達じゃないじゃん」


 スウェットの生地を、彼女はさらに深く噛む。

 その歯は僕の皮膚までも巻き込んだ。


「痛い、痛い! 皮膚まで噛んでる」


 そうアピールすると一度口を開け、今度は器用に服だけをまた噛み始めた。


「そもそも俺、4年になったらゼミの授業以外で学校行かないし。もう単位取り終わっているから」

「はーうざ。じゃあ私の授業手伝ってよ」

「やだ」


 途端僕の体を巻いていたその蛇は途端に牙を剥いた。

 腹に衝撃が走る。

 背中が彼女の身体で固定されているため、衝撃を分散できない。

 非力な拳でも痛みは十分だった。

 しばらく何も喋れなかった。

 下手すると胃の中のものが出てきそうだ。

 慎重に呼吸をする。


「やっぱりこうちゃんだけだよ。こんなふうに殴っても怒らないの」

「怒ってはいるけどね」

「でもキレたりしないじゃん。絶対いい旦那になるよね」

「これからも誰かと付き合うつもりとかないんだけど」

「とか言ってさ、付き合ったらその彼女にゾッコンするタイプだからね。前科ありだし」


 白蛇はまた僕を締め付ける。

 やり場に困って頭の下に収納した枕代わりの僕の右腕が、そろそろ痺れ始めた。


「そっか、こうちゃんに彼女できたらこんなことできないなぁ……。そもそも絶対家泊めてくれないし」

「家に泊めるのはグレーゾーンだけど、誘ってくれればいつでも飲みには行くよ」

「嘘だね。あの娘と付き合い始めた時はもう遊ばないって言ったじゃん」

「ごめんって、それは向こうに止められていたからさぁ……」


 二人の間に沈黙が走る。もう今が何時なのかわからない。

 遠くで救急車のサイレンが聞こえた。


「こうちゃん」

「ん?」

「ちょっと体起こして」


 彼女の指示通り僕は自分の体を持ち上げた。


「はい、寝ていいよ」


 再び臥すと、マットレスに体が着く前に何か柔らかいものに当たった。


「それ、腕痺れるよ?」

「うん。その時はまた体起こしてもらうし。今はギュってしたい」


 そうして脇腹の山を越えてきた右腕と、僕の体の下を通ってきた左腕は、僕のへそのあたりで結ばれた。


「ごめんね、こうちゃん。ほんと、今日だけだからさ、忘れてね」

「うん。誰にも言わないし、俺も忘れる。て言うか覚えてないと思う」

「こっちに振り向かないでね。いま多分顔やばい。化粧とか崩壊していると思う」

「こんなに締めつけられたら寝返りなんか打てないわ」


 口にした瞬間、僕は血液が逆流したような感覚に駆られた。

 顔は紅潮して、耳たぶは風邪を引いた時ぐらい熱を帯びている。

 きっと全てが彼女に見透かされている。

 この鼓動も、全てを理由付けしないと押さえつけられないほど膨れ上がった僕の心も。

 僕はいま、この一線を越えることができる。それは神社の敷居を跨ぐよりもたやすい。

 けれど越えればそれで終わり。

 僕は、僕たちは、一時の快楽に身を任せて今までの全てを、これからの全てを失う。

 その選択権はいま、僕の手のなかだ……。

 顔が見えないというだけで人の心はここまで読めないものか。

 僕は、枕代わりの右腕を伸ばす。

 踏切の鳴る音が聞こえた。始発の電車が走り出す。

 温もりが去った。それで僕は、彼女がゆっくりと僕から離れていったことを悟る。

 所在を失った右腕は、再び僕の頭の下に隠れていった。


「そういえばさ」

「ん?」

「さっきなんて言ったの? ほら「この前ね」って言ったその前。何か言いかけなかった?」

「うん」

「なんて言ったの?」


 ふっと短く息を吐く音が聞こえる。

 笑ったのか?

 彼女の吐く息が再び僕の首元に当たった。

 そして張り詰めた鼓膜は、確かにその言葉を僕に伝えた。


「Stray Sheep」


 それだけ。

 彼女がまた僕から離れると、今度こそ二人とも眠りについた。

 意識が落ちる前、一度だけ声が聞こえた。

 きっと僕がもう寝たと思ったのだろう。あるいは僕の聞き間違いか……。

 ともかく彼女はこう言った。


「こうちゃん、いい会社に就職したら、結婚してね」


 僕は何も応えなかった。

 ただ僕を抱く彼女の腕に、そっと右手を重ねる。

 朝焼けはまだ……。



 <了>

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