その66
売るのではなく譲る。
私は、そのことをアオヤマ・スミレに提案してみた。
すると、アオヤマ・スミレは微笑んだ。悲しそうに。
「あなたは、それでもいいの?」
アオヤマ・スミレにとってみれば絵は売り物。安く手に入るのならば安いに越したことはないはず。その彼女が二の足を踏んでいる。
私にしてみても、お気に入りの絵を手放すのは嫌だ。でも、アオヤマ・スミレに譲るのが正しいのだろう。
感情の問題ではなく、正しいのか正しくないのかの話。
私にとってではなく、絵にとって正しいか正しくないか。
「今まで」
私は喋り出していた。今まで恭一にも広海にも話したことのないことをアオヤマ・スミレに話し始めていた。
一旦、話し始めると不思議なもので、言葉はというものは止まらない。
まるで自分が喋っているのではないような感覚。
喋っているのは間違いなく私なのだけれど。
「あの絵のことを本当に理解してくれている人はほとんどいませんでした。最初は私もそうでしたし、絵を描いた恭一もそうでした。絵は一番理解してくれる人が持つのがいいと思うんです」
私の言葉にアオヤマ・スミレはキチンと耳を傾けてくれていた。静かに、口を挟むことなく聞いてくれていた。
そしてアオヤマ・スミレは言った。
「わかりました。お預かりするというカタチにしましょう」そして静かに微笑んだ。
商談成立、ということになるのだろうか。
アオヤマ・スミレにとってこの商談はずいぶんと簡単な物だったのかもしれない。
あれほどしつこくに追いかけた沖田広海の絵と比べてみるとあっけなかったのかもしれない。
アオヤマ・スミレは立ち上がって画廊の奥の方へ歩いた。二、三歩歩いた所でアオヤマ・スミレの足が止まった。
「もしも、一年前」止まったままのアオヤマ・スミレの背中が言った。
「ミズノ・キョウイチが天女の絵を出展していたら今頃はどうなっていたのでしょう?」
私にはアオヤマ・スミレが、その問いを私にしているのかわからなかった。ただ、この画廊には彼女以外は私しかいない。でも、その質問は明らかに私に向けられたものじゃなかったような気がした。
「いえ、止めましょう。人生に『もしも』は禁物ですから」アオヤマ・スミレの背中は画廊の奥に消えていった。
何を言いたかったんだろう。
アオヤマ・スミレは質問をするのも答えを出すのも途中で止めた。彼女が言う通りに人生に『もしも』は考えたらきりがない。
でも、もし一年前に天女の絵がアオヤマ・スミレの目に留まっていたなら、一体、どうなっていたのだろう。
私と恭一はどうなっていたのだろう。
電車はまだ大混乱していた。次の電車がいつくるのかもわからない。
ホームで電車を待つ。
雪はもう止んでいて太陽が顔を出していた。でも、ちっとも暖かくなかった。東京でこんなに冷え込んでいるなんて、ちょっと記憶にない。
寒い。
アオヤマ・スミレの画廊でもらったブランデー入りの紅茶で体の中はホカホカしているけど、肌はカチカチになっていた。
アオヤマ・スミレに呼び出されていなければ絶対に一歩も家の外にでないかなあ。
でも、今年からは私も、雪が降ろうが台風が来ようが仕事に出ているはず。すれ違うスーツ姿の人達と同じように。
アオヤマ・スミレ。
どんな漢字を当てるのだろう。
私は彼女のことをほとんど知らない。そのくせ彼女とは何かと縁がある。絵描きでもないのに私は良く彼女と会ったり話をしている。
電車を待ちながら、アオヤマ・スミレが言いかけた「もしも」のことを考えていた。
もしも、一年前に恭一が天女の絵を展示していたら。
たった一枚の絵が人の運命とか、世の中の動きとかを変えるとは思わないし思えない。と、つい最近までは思っていた。
でも違った。
沖田広海はたった一枚の絵がきっかけで海外に飛び出していった。
同じように恭一も一枚の絵によって今後の進路を左右されていた。
もしも、一年前の学園祭に恭一が天女の絵を展示していたら、
それがアオヤマ・スミレの目に留まっていたら、
もしも、一年前に恭一の海外留学が決まっていたら、
恭一は大学の卒業を待たないで海外留学に行っていたのかも知れない。いや、アオヤマ・スミレの手によって中退させられて海外に行かされていたのかも。
もしも、私と恭一の離れ離れになる時間の始まりが、これからではなく、一年前だったら。
私たちが離れ離れになる時間が大学の間に始まっていたら、海外に出て行ってしまった恭一が帰ってくるのを待てたのかも。
恭一が一年で帰ってはこなくても、まだ「待つ」という選択肢を持てたのかも。大学を出てから海外で勉強をする恭一のもとに行くことだって出来たはず。
もしも、私が天女の絵をもらわなければ。
恭一はもっと早く絵描きの道を歩いて行くことが出来たのに。
恭一はもっと楽に絵描きの世界に行くことができたのに。
私たちは、もっとたくさんの時間と余裕があって将来を話し合えることが出来たのかも。
一枚の絵が、私たちの時間を作ってくれた。
一枚の絵が私たちから時間を奪っていった。
どちらも恭一が描いた私の絵。天女の絵。
人生に「もしも」は禁物、とはアオヤマ・スミレが言った言葉。
もしも、私が天女の絵を気に入らなければ、恭一は「天女の絵」よりももっともっと素敵な私の絵を描き続けてくれたのかも。遠い遠い未来まで。
一生をかけて私を描き続けてくれたのかも。私一人だけをモデルにして。
読了ありがとうございました。
今後もごひいきによろしくお願いします。




