その63
「いつ描かれたものです?」アオヤマ・スミレはもう絵の方を向いていた。絵とアオヤマ・スミレの顔の距離がとても近い。
「一年前です。去年、私とここでばったり会ったのを覚えてます?」
アオヤマ・スミレと久しぶりに会ったのは、一年前の恭一の学校の展示会。金ピカの仏陀が出展された時だった。
「良く、覚えています」アオヤマ・スミレは今度は私の方を見て言った。
「あなたのボーイフレンドはニルバーナの絵を描きましたね」
ニルバーナとは涅槃のこと。アオヤマ・スミレは金ピカ仏陀の絵のことを言っているのだとわかった。
アオヤマ・スミレは覚えていた。私とここでばったり会ったことも、恭一が金ぴかブッダの絵を描いたことも。
アオヤマ・スミレは、恭一のことを私のボーイフレンドと言ってくれた。今でもそうなのか、今の私にはわからない。
「これは涅槃の絵の前に恭一が描いた作品です。本当はこの絵が展示されるはずだったんです」
私の言葉にアオヤマ・スミレはちょっと不思議そうな顔をした。
「なぜ、この絵が展示されなかったの?」私には彼女がそう言っているように見えた。
「私が、気に入ってしまったから」私は言った。
私の視界の中に、アオヤマ・スミレの色白の金髪の、青い瞳の顔がいっぱいになった。
「彼は、恭一はこの絵を私にくれました。他の誰かの目に触れる前に。その代わりに恭一は仏陀の絵を描きました。もし、この絵が先に展示されていたなら」
その先を言う前に、アオヤマ・スミレは私の唇にそっと人差し指を当てた。そして少しだけ微笑んだ。
「人生に『if』はタブーです」
アオヤマ・スミレは立ち上がった。
「ありがとうキョウコさん」彼女はサングラスをかけた。「とても良い絵を観ました」それだけ言うとアオヤマ・スミレは黒服の男を連れて大学の門を潜っていった。
アオヤマ・スミレが消えて行くと、彼女につられて見物人も大学の門を潜って行った。彼女が立ち去ると、他の見物人も私たちの前からいなくなった。
大勢の見物人の中で、一人だけ私の目の前に立っていた。
祐子だった。
「キレイな絵だねえ」
祐子の言うことはいつもストレートだ。回りくどいことなんかは言わない。いつもストレートに物事を言う。
「どうしたんこれ?」祐子は、私の絵を挟んで私の隣に座った。
まさか祐子が来るとは思わなかった。いや、来ないはずはない。むしろ私よりも祐子の方がここに来て当然なのかもしれない。
私は祐子に天女の絵の話を全てした。
どうして今日ここにこの絵を持ってきたのかのも話した。別に聞かれたわけではないけれども、話さなくてはならないことだったから。私は話をした。
祐子は、聞いていないような振りをしているように見えた。
私がただ一方的に話しているようだった。でも祐子は聞いていた。しっかりと。
「わたしな」私の話が終わると、祐子は喋り始めた。
「恭一君が、ずっと好きやったねん」
私が思っていた通りのことを祐子は話し始めた。
そうだった。
祐子は恭一のことが好きだった。多分、私よりも恭一のことが好きだったんじゃないのかな。それは祐子の行動を見ても分かる。
祐子はいつも待っていた。私がモデルをしているときも待っていた。じっと待っていた。じっと待っていて恭一と一緒にいようとしていた。
「今でも好きやし、あんたよりも好きやと思ってんねん」祐子の視線が、私を見ていた。私は祐子を見ないようにしていた。見るのが怖かった。
見てしまったら、戦争になるのはわかっている。私は目を反らしていた。でも私の視線の端には祐子の茶髪の小さな顔があった。
「なんで、あんたばっかり恭一くんに好かれるん?」祐子の声が激しい。ムカついているとしか思えない。
「なんで、あんたこんな所にいるの?」祐子は私の目の前に立っていた。
「恭一君のところ行ってやらへんの?今日、大変なんやろ恭一君?こんないい絵かいてもらって何もせえへんの?」
私は、ここで初めて祐子を見上げた。
怒っていた。
祐子は怒っていた。明らかに私に向けられた敵意。いや、殺意かもしれない。
「なんで恭一君に冷たくするん?おかしいやろ、そんなん」
私は答えなかった。答えられなかった。私の頭の色々な回路がパニックを起こしていた。必死になって答えを出そうとしているのに空回りしている。緊張とかではなくて、完全に混乱していた。
「私なあ、恭一君と寝た」
祐子は勝ったように言った。
勝利宣言なのかも知れない祐子にとっての。
もしかすると祐子はこのことを言いたいがためにジッとガマンしていたのかもしれない。
祐子の「勝利宣言」を聞いて、私の頭のパニックが急に収まった。冷やされてゆく感じ。
「私、恭一君のとこ行くわ」祐子は私の前から消えた。私の頭のパニックもなくなっていた。
恭一と祐子が寝た。
その事実だけを私は把握してキチンと理解出来れば、いや、その事を理解できたから私の頭は混乱が収まった。
恭一と祐子のことを、責める気にはならなかった。責めるのが正しかったはずだけど、私は責める気がしなかった。
女と男が、男が女を抱き、女は男に抱かれるのに理由は多分ない。
そうしたかったから、そうなった。
二人とも求めあっていたから、そうなった。ちょうど磁石と磁石が何もしなくても引き合ってしまうように。
男と女はそんなものだと思う。
祐子と、恭一はそうしたかったからそうなっただけだ。
私と恭一がそうなったように。
終わった。終わったんだと。
私と恭一の間が終わったというのではなくて。
私と恭一の間を終わらせるためには、まだたくさんの色々なことをしなくちゃならない。だから、まだ私と恭一の間は終わらない。
私が終わったと思ったのは、私がここで、こうして天女の絵を並べて、恭一の大学の前で座っている役目が終わったということ。
読了ありがとうございました。
今後もごひいきによろしくお願いします。




