その54
シャワーの音がする。
サイズがぴったりの恭一のTシャツ。私と恭一はあまり背の高さは変わらない。恭一が小さいのではなくて、私が大きいのだけれど。
恭一の家にいる時のいつもの格好。私は恭一の部屋に自分の部屋着を持ってきてない。サイズがぴったりだというのもあったけど、私は恭一の「部屋着」を着るのが好きだ。
恭一の服の匂い、恭一が使っている洗剤の柔軟剤の匂い、そんな私の物とは違う匂いを着ていると私は恭一の部屋に来たんだなと思う。部屋なんかは結構見慣れてしまうものだし、行き来するバスから見える景色もそのうち飽きてしまう。
でも、匂いはいつも新鮮。匂いはいつも新しい。匂いはいつも懐かしい。恭一の匂いを着ていると恭一にいつも包まれているような感じになる。
恭一の部屋を歩いてみる。歩き回るような広さはないのだけれど、歩いてみる。
イーゼルの前に座る。絵を描く時に恭一が座る席。イーゼルの向こうに誰もいない。イーゼルには「描きかけの私」がいる。
初めて見る描きかけの恭一の絵。
そう言えば、恭一の描きかけの絵というのというのは今まで見たことがない。
恭一の絵は、出来上がるまでが恐ろしく早い。物を正確に描くスピードが普通じゃない。完成度が高いからどの絵も「描きかけ」には見えない。だけど、絵描きなんだから「描きかけ」というのは当然あって、それが今、私の目の前のイーゼルの中にいる。
ボディラインというのだろうか、描きかけの女の人の裸の絵がある。
顔はまだのっぺらぼう。あまり自分の裸はじっくり見たことはないけど、この体つきは多分私だと思うし、恭一は間違いなく私を描いていたわけだから、この絵の中の裸の女の人は私だろう。
今は顔はないけど。
描きかけの私。
描きかけの私はこれからどんな私に描き上げられていくのだろう?
天女になって、仏陀になった私。次の私はどんな私になるのだろう?
正直、どんな私でも構わない。恭一が描いてくれるのが私であれば、仏陀だろうが、天女だろうが、キリストだろうが、大仏だろうが何でも構わない。恭一が描いてくれる私だったら何でも構わない。
これから描き上げられていく私は、恭一の就職活動に役に立つのだろうか?
恭一は、アオヤマ・スミレの目にかなうような絵を描き上げることが出来るのだろうか?
「ダメだよ見ちゃ」腰にタオルを巻いただけの恭一が戻ってきた。覆いも何も掛けないで「見るな」はないと思うけど。
「描きかけなんだからさ」恭一は私が座っている椅子に半分割り込んできた。恭一の腕が私の腰に巻き付く。いつもより高い恭一の体温。湯上がりの恭一の匂い。
私と恭一は同じ椅子に半分ずつ座って描きかけの私を見ていた。
「描きかけって初めて見る」私はそれを声に出していった。
「そうだっけか?」恭一は言った。
そういえば画家は、どの時点で「未完成」と「完成」を決めるのだろう?
「見てろよ京子」突然に恭一が言った。妙に自信に満ちた声だった。私は恭一を見た。とても自信のある横顔だった。
「俺は必ず留学して、必ず画家になって戻ってくる」
言いながら恭一は私の腰に回している手に力を込めた。
恭一は私に何を言おうとしているの?
「画家になるまで待っていてくれ」と聞こえるし、単なる恭一の決意にも聞こえる。
恭一には、好きなことをやってもらいたいと思っている。
別に恭一だけじゃなくて、広海にも、兄貴にも、好きなことをしてもらいたい。
兄貴は好きなことを止めてしまった。
沖田広海は好きなことをしながら、嫌いなこともやっている。
恭一は、画家になるために絵を描いている。
恭一が画家になるのに、どれくらいの時間が必要なのだろう。
恭一はどれくらい経ったら留学から帰ってくるのだろう?
それまで私は待ち続けることが出来るのだろうか?
今の私にはわからない。
恭一に、何を言ったら良いのかわからなかった。描きかけの私がどうなっていくのかもわからないのに。
「ねえ恭一」私は目の前の描きかけの私を見ていた。「これからも、描きかけの途中を見にきてもいい?」見たかった。この先、描きかけの私がどうやって私になっていくのか見たかった。恭一がどうやって私を描いていくのか見たかった。
「いや」恭一の横顔が急に難しくなった。「できれば、俺一人で完成させたい」恭一は難しい顔のままで言った。
なぜ?
私は、恭一の絵の手伝いがしたいのに。私に何が出来るわけでもないのだけれど、ちょっとでも恭一の力になりたいと思っているだけなのに。
なんでそんなに難しい顔にならなきゃいけないのだろう。
「これは俺の戦いだ」恭一は言った。
「俺はこれを一人で乗り越えなきゃいけないと思っている。だから一人で完成させなきゃならないと思っている。
京子にモデルを頼んだ時、なんでこいつはこんな不機嫌なんだろうって思ったけど、自分で一人で悩んで、絵が描けなくて、描けなくて悩んでみてわかったんだ。
京子も戦っているんだって。京子は京子なりに戦っていて、悩んでいるから不機嫌なんだろうなって思った。
俺は京子と同じ場所では戦えないけど、俺は俺で頑張る。
だから俺はこれを一人で完成させる」難しい顔を一層難しくして言った。
「つまらない意地とかこだわりとか、そういうモンかもしれないけど、そうしなくちゃいけないような気がするんだ」
恭一は私の方を向いて恥ずかしそうに笑った。
つまらない。
本当につまらないと思う。
意地とかこだわりとか。
読了ありがとうございました。
年内で投稿を終えたいので、明日から毎日更新いたします。
今後もごひいきによろしくお願いします。




