その50
「うん、実は」とても話しにくそうに恭一は言った。話しにくいことが私たちにもあるんだ。
そんなに話しにくいことって一体なに?
「絵が、うまくいかないんだ」恭一は手で顔を覆ってしまっていた。
恭一は黙ってしまった。顔を手で隠して、喋らなかった。恭一の荒い息づかいだけが聞こえる。恭一の息づかいに私まで苦しくなった。
「こんなに、うまく行かないとは思ってなかった」吐き出す恭一。
空気が重苦い。今まで、二人で相当ひどいケンカをしても、こんなに重い空気になったことはなかった。
「腕がないのかな」
私は返す言葉がなかった。
前に、恭一が言ったことがある。
「センスがない」
最初の学園祭の時、恭一は「自分にはセンスがない」と言った。
「センスがない、腕がない」と恭一は言うけれども、恭一は、ものすごい速さで、ものすごい正確な絵を描く。出来上がった絵は写真にみたいだ。
恭一の速く描くことがセンスなのかどうか、絵を描かない私にはわからないけれども、速く描くということは恭一の「ウリ」にはならないのだろうか?
街で似顔絵描いている人みたいに、試験の時に誰かモデルになってもらって、速攻で絵を仕上げるというのはできないのだろうか?
それだって十分にすごいと思うのだけれど。
とはいえ、絵描きじゃない私には、絵描きの悩みはわからない。
沖田広海。私の親友。私が恭一以外に知っている絵描きだ。
広海にもこういう時期があったのを私は知っている。
自分で描いた絵が気に入らない。自分で描いた絵を破り捨てて、また同じ絵を描いて破り捨てる。そんなことを繰り返していた。
こんな絵しか描けない自分に腹が立って、自分が描いた絵に当たる。他に当たれるものがないから。
恭一はどうなんだろう?
恭一には当たれる絵すらないんじゃないだろうか?
広海は少なくとも当たれる絵を描き上げてはいた。気に入らない絵でも最期まで描いていたような記憶がある。
恭一は絵を描くのが速いから、描く枚数も多いのかなと思ったけど、そうじゃなかった。恭一が「何か」目的を持って絵を描く時は、絵を描く速度も枚数も少ない。
あの時がそうだった。
最初の学園祭の時に、恭一は二枚しか絵を描かなかった。
天女の絵と仏陀の絵。私が知っている限り、恭一は二枚しか描かなかった。もしかすると恭一はそれしか描けなかったのかもしれない。
恭一の絵は、当たり前だけど恭一しか描けない。
沖田広海が沖田広海の絵しか描けないのと同じ。
なんで絵描きは自分の描く絵しか描けないんだろう。
どうして人の絵を描くようにはできていないのだろう。
もし、できることなら、恭一の代わりになってあげたい。
もし、私に絵を描ける力があるのなら、苦しんでいる恭一の代わりに絵を描いて試験を合格させてあげたい。
でも、そんなこと無理だ。
私が絵を描ける、描けないじゃなくて、恭一は恭一で、恭一の絵をかかなくちゃならない。私は恭一の代わりにはなれない。
同じ「ア行」だからって「嵐山」の私が「猪俣」のフリをして代わりに返事をしてあげることのようにできない。
私は、好きな人が苦しんでいるのに、何もできない。すっかり姿が変わってしまった私がいるだけ。
今の私は恭一に何ができるのだろうか。
「私に、私に何ができるのかな?」
言ってはみたものの私は今の自分に何が出来るのかわからない。就職活動で疲れてクタクタになった私に何ができるのだろう。
「モデルに」恭一は地面を見ていた。ベンチの下にある地面を見ていた。「また、モデルをやってくれないか」その言葉を恭一は苦しそうに言った。
恭一は、このことを私に言いたくて、私を絵のモデルにしたいことを言うために私を呼びだしたんだ。
私は拍子抜けしてしまった。
なんだそんなことか。
おやすいご用。そんな事で恭一の手助けが出来るのなら。
「うん、いいよ」自分でもビックリするほど私はあっさりとオーケーを出した。
「そうか、良かった」
恭一の顔が、ほころんだ。
そう、ほころんだ。緊張が解けたみたいなほころび方だった。
この人の、恭一の、こんな緊張が解けたような顔は見たことがない。
私は恭一に、そんなにプレッシャーをかけていたのだろうか?
「いいよ、モデル。いつにする。今日じゃなければいいよ」私は、ごく当たり前の返事をしたと思った。
「そんなに忙しいのか就職活動」
いたわりの言葉じゃなかった。批難の言葉だった。
「ごめんね」私は素直に謝った。
「ちょっと疲れているの」
愛想がないのはわかっている。
でも、こんなくたびれた状態で楽しくいられるほど私は器用じゃない。
素直になれない。素直になれないからこそ、素直に謝った。
悪いのは私だ。
理由はどうでも、好きな人と一緒にいる時に素直じゃなかったり、冷たかったり、愛想が悪かったりするほうが悪者だ。まして今の私達は中々一緒の時間を過ごすことが出来ない。
二人きりの貴重な時間を、早々に切り上げようとしているのは恭一ではなく私だ。
だって、全然楽しくないから。
読了ありがとうございました。
今後もごひいきによろしくお願いします。




