その32
「天女の絵」が、恭一が私のために描いてくれた一枚じゃないことは知っている。
展覧会用に描かれたものだっていうこともわかっている。
それでも私は良かった。
と、言うより私はあの天女の絵が恭一の手で描かれることを待っていたのじゃないかと思った。
たった一枚。
一枚あればいい。
何百枚も何千枚も描いて貰った中でたった一枚だけ「描いてもらって良かった」という絵があれば私はそれで良かった。
そんなに多くのお気に入りはいらなくて、一枚だけあれば良かった。
私はそれが欲しかった。
恭一には悪いけど、素敵な一枚以外は私にとってどうでも良かった。
私にとっては「仏陀の涅槃」の絵もどうでも良い絵の中の一つだった。
私は恭一が描いたすべての「私」を好きにはなれない。
そんな学園祭の出来事から三か月。私はもう「絵のモデル」として恭一の前に立つことはなくなった。
あの日から、私と恭一の関係は確実に変わった。
もう「モデルと絵描き」の関係じゃない、私と恭一しか知らない「恋人同士」になった。
改めて「恋人同士」という言い方はおかしいけど世間的には「彼氏と彼女」になるわけだし、私も恭一もそう思っている。
もう私たちは「見られる方と見る方」「描く方と描かれる方」じゃなくなった。
私と恭一の間にあった「私の絵」がなくなった。
今、私と恭一の間には、退屈だけれども、のっぺりとした平和な時間がある。その平和な時間に、「キツネうどん」が出てきた。
まるで平和をかき乱すみたいに。
ちょっと考えすぎ?
とも思う。
でも・・・。
展示会が過ぎたころから、恭一は私を「京子」と呼ぶようになり、「猪俣さん」を「祐子ちゃん」と呼ぶようになった。
すごく距離が近くなった私たちは、最近三人で顔を合わせていない。
キッチンにデーンと出てきた「キツネうどんセット」が祐子に見えてしかたがなかった。
「京子」ベッドの方から恭一の声。私は返事をする代わりにベッドに座った。恭一は寝ころんだまま私の腰に腕を回してくる。
「来年の夏、海でも行かない?」
初めてだった。恭一が絵を描く以外にデートに誘ったのなんて。
「海・・・」海はちょっと、引っかかるモノがあった。海。海はちょっと遠慮したい。
「海より、温泉行きたいな、静かな温泉」
「温泉かあ」ぼんやりと恭一は言った。「温泉もいいねえ、のんびり出来て」
「でしょ」私はベッドに潜り込む。とたんに恭一の腕が絡まってくる。
とても暖かくて細い腕。
その先にある、これまた細い指をした手が私の顔をなでてゆく。
たくさんの私の絵を描いてきた恭一の手。
「京子はさあ」ベッドの中で「海と山とどっちが好き?」唐突に聞かれた。
私は恭一の顔を見る。とても近くに恭一がいる。恭一の息づかいがむせるくらいに感じられる。
「山かなあ・・」とっさに私は違うことを言った。
海だ。
断然海だ。
山も好きだけど、やっぱり海が好き。
でも逆のことを言った。
海は、そう海は、少なくとも恭一と行っても楽しくないような場所のような気がする。
なんとなく。
「山か。それじゃ山の方にある温泉にでも行こうか」
「そうだね」
こういうことなんだろうな。
退屈な、ぼんやりとした会話。
ベッドの中で、他の誰も入ってくることがない世界で、二人だけののんきな会話を重ねて行くことが今の私たちの平和な関係なんだろうな。
ぼんやりとベッドに浮かんでいるみたいな心地よい時間。
ここには恭一の学校も私の学校も金ピカの仏陀も祐子もいないし、海でも山でも温泉でも都会でもない。
ここは恭一と私の二人だけのベッドで、私と恭一の二人だけしかいない世界。
恭一の腕の中で、ぼんやりと考えた。
なぜ、私が海に行くことを拒んでいたのか。
その時はわからなかった。それをわからせる人が、私の前にやってきたのはそれから少し経った秋の終わり頃だった。
読了ありがとうございました。
今後もごひいきによろしくお願いします。




